「幸せ女子」の落とし穴 (下)
「どういうこと? 」
隣の席の男女が、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ノリコ達を見た。
「会社辞めて、実家の味噌作りを手伝うことにしたんだ」
「嘘、嘘でしょ? 」
ノリコは、サトシに「今日は外で会おう」と言われた理由がわかった、サトシの部屋で言われたら、大声で叫んで彼を責め続けただろう。
「いつ、いつ、決めたの?」
「この前、広島行ったついでに母さんの所に寄ったんだ」
そういえば、先週末、サトシは実家に寄って来ると話していた。こんな重大な話をしていたなんて想像すらしなかった。
福岡で、お味噌屋さんを一人で営んでいる母親の所に戻る、というサトシの突然の宣告で、自分の全てが崩れた。彼の家庭事情は知っていたが、家業は継ぐつもりはないし、家族もそれを納得している、と話していたサトシの言葉を疑いもしなかった。
そうでなければ、サトシはわざわざ東京で就職しない。今更戻るなんて……。
ノリコの頭の中で、こうなった経緯を突き止めようとしたが無理だった。
「もし、ノリコが一緒についてきてくれれば嬉しいけど、無理だよね」
自己完結の言葉を二人の空間に放ったまま、サトシは肩を落とす。
サトシが参加しているプロジェクトが、国内で成果が上がってきて、数年後にインド行きが決まりそうだった。二人の間の障害になるのは、てっきりその件だと思っていた。
サトシに付いていく覚悟は出来ていたはずなのに……。
頭という丸い器が、あっという間に涙でいっぱいになって、目を閉じていなければ、その全てが流れ出してしまう。心臓の鼓動が熱い痺れとなって、指先にまで伝わってきた。
「ノリコを嫌いになったわけじゃない、大好きだ……」
ノリコは顔を上げなかったが、サトシも泣いている、そう思った。
「あの麹の味は伝統なんだよ、誰かが守ってあげなきゃ、ダメなんだ」
継いでくれる予定だったサトシの妹さん夫婦に、何かあったらしいが、サトシは話したがらない。
無理をすればついて行くことも出来たが、最初から彼の母親と同居で、味噌作りを一から学ぶというという条件を、一人っ子の自分があっさり呑めるわけがない。
結婚は恋愛ごっこでは済まされない、という現実が、目の前に横たわって初めて、人の言葉をあてにして人生設計をした愚かな自分を知った。
付き合って二年目の春、「少し大きめの部屋に移ろう」とサトシから提案された時、プロポーズと勘違いした自分を隠したくて、「えー、このままでよくない? 」とごまかしてしまった。
あの時、サトシの真意を尋ねる勇気があったら、何か変わっていたのだろうか。
あの時、二人が結婚を決めて、生活の基盤が東京に出来ていたら……。家族として子供がいても、彼はこの決断をノリコにぶつけてきたのだろうか。
三週間に及ぶ二人の話し合いのほとんどが喧嘩だった。ベットで背を向けたまま朝を迎える辛さに耐えられず、ノリコの方が折れた。
サトシの福岡に戻るという意志は固かったが、二人の関係は、自分が謝ればやり直せると信じていたノリコに……。
「もう無理だよ、気持ちの糸が切れちゃったんだ。今まで本当にありがとう」
信じられずに……、短いメールを何度も読み返した。サトシの気持ちを取り戻せるのなら、何度でも読み返すだろう。
彼はたった一通のメールで、五年間の愛を終わりに出来る人間だったのだ。
五年分の傷が簡単に癒えるはずもない。新しい環境を求めて実家を離れた。三十三歳の大厄がかなり早めに来たのだと、必死に自分を納得させた。
耳にピアスホールを開けたのもこの時期だ。
母親は、身体の一部に傷をつけるおしゃれに賛成しなかった。父親に至っては、どこから情報を得たのか、「ピアスの穴開けると、人生変わるらしいぞ。しこりが残ったり、膿んだりしたら……」と、あらゆる否定的要素をノリコに吹き込んだ。
「お父さん、今、私、ドン底なの。ピアスの穴開けたって、これ以上悪くなりようがないよ」
結婚や出産が女の幸せだとしたら、それはノリコの手から滑り落ちた。
週末は、実家に戻って両親と過ごしたが、居心地は悪い。娘に何とか前を向いてもらいたいと願う気持ちがひしひしと伝わってくるからだ。
サトシに捨てられて、世の中に「確かなもの」など存在しない、と考えるようになった。
自分以外の誰かと作り上げていく幸せ「結婚」、自分以外は信じられなくなっていたノリコに、出来るはずもなかった。
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本日夜 9時前後に投稿予定の活動報告で、作者の楽屋話と第8話の投稿予定日時をお知らせしたいと思います。よろしかったら、そちらもご覧くださいませ。