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独りよがりの恋旅

引き戸が開いて、エマ先生が懇意にしている料理長が挨拶に来た。ノリコは、二人のひと通りの挨拶が、途切れる時を見計らっていた。

最初に、頂いたお料理のお礼を丁寧に述べた後、

「このお味噌汁のお味噌って、麦味噌ですか? 香りがとても良くて……」

そうであってほしいという祈る気持ちがどんどん膨らんで、心の壁が壊れそうなくらいだ。

料理長は、ノリコの表情が真剣なのを見て、

「そうですよ、麦味噌は珍しく感じました?

福岡の小さな商店のお味噌ですけれど、甘さの中に力強さを感じますでしょう?

皆さんに評判良くてお出ししているんですよ。

照り焼きのソースと同じで、麦の甘さが受けて、海外のお店にも出していると聞きましたけど……」

料理長が退席した後、ノリコは、テーブルの上に置かれたブックレットと茶色の封筒を視界に入れながら座布団から降りて、エマ先生とタカさんに頭を下げていた。

「これ、受け取れません。本当にごめんなさい。 私、もう一つだけ、レッスンが残っているんです。 自分でしか出来ないから、もう少しの間、預かっていただけますか。必ず取りに伺います」


サトシと付き合っていた頃、ノリコは、サトシの実家から送られてくる麦味噌を分けてもらって、毎日食べていたのだ。高級料亭のような繊細な使い方ではないが、味と香りは、絶対に間違っていないという自信があった。

ノリコは、失礼を承知で、二人より先に退出した。時刻は十時を回っていた。

今からじゃ無理だ。


翌日の朝、ノリコは、福岡行きの一便でサトシの実家を目指していた。

付き合っていた頃、一度だけ行ったことがあるが、 地下鉄のどの駅で降りるかまでは覚えていない。ホームページで、工場の住所と、店舗を兼ねた実家は、わかったものの、そこにサトシがいるのかもわからない。

本当に、自分でも気が狂っているとしか思えなかった。今日は金曜日、初めて、嘘の病欠で会社を休んだ。

「大丈夫ですか? お大事に」という、電話を受けたパートさんと話す途中に、福岡空港のアナウンスの一部が流れてしまって慌てて切った。


地下鉄の駅を降りて、商店が並ぶ大通りに出る。

九州大学のキャンパスは、あちこちに点在してるらしいが、実家は医学部の病院近くとサトシが言っていたのを思い出した。

一軒一軒、確かめているうちに、軒先の暖簾に見覚えがある店構えを見つけた。山型に盛られた味噌の樽が並ぶ店の前を一旦通り過ぎた時、ノリコは、自分が何の為にここまで来たのか、急に、わからなくなった。昨日食べた味噌の味が、自分を突き動かしたのは確かだが、サトシに会ったとしても、何て言えばいいのだろう。

店の前で、腕組みをしながらウロウロするノリコに、通行人も不思議そうだ。


その時だった。

お店の奥から、本当に小さな女の子が、ポンと飛び出してきた。ノリコの顔を不思議そうに見ている。

「ママー、お客さーん」

「ママー」

その女の子が、二回目のママを叫んだ時、ノリコは、ようやく気がついた。

馬鹿だった。

ノリコは、この五年間、サトシのことばかり考えていた。サトシもきっと同じだと思い込んでいた。 サトシは、自分と別れて、仕方なくこのお店を継いだのだと……。

サトシが結婚しているのは当たり前のことだ。あれから五年近く経っているのだ。小さい女の子は、まだノリコを見ている。

お店の奥から、「はい、お待たせしました……」という女性の声が聞こえた途端、ノリコは背を向けて、今来た道を、不自然に見えない程度の早歩きで、戻り始める。

サトシが結婚して当然の年月が経っていたのだ。


ノリコは、午前中の便で東京に戻ることに決めた。具合が良くなったと言って、午後から出社した方が、気が紛れるかもしれないからだ。

空港に着いて、ノリコが乗りたかった次の便は満席だった。朝から何も食べてなかったが、レストランやファストフード店に入る気がしない。今のノリコには、人の気配に囲まれるのさえ苦痛だった。何も考えずに、空港の椅子に座っているのが精一杯の自分の姿だ。

昨日から続いていた緊張が徐々に緩んでくる。静かに目を閉じて、重力に逆らわない姿勢で、椅子の中に自分を下ろした。眠ったつもりはなかったが、ノリコの耳に周囲の生活音が入らなくなる。


「鈴木さーん! 鈴木さーん!」

遠ざかる意識の中で、誰かが、自分と同じありふれた名字を呼んでいた。


**********


最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

今日の夜の活動報告でもお知らせいたしますが、明日8/8の最終話が、かなりの長文になる予定です。いつもの投稿分の二倍以上になると思われます。段落分けなどは、通常通りで、変えていません。ケータイで読んでいただく方に、ご迷惑をおかけすると思います。











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