レジェンド
この時間に、本社ビルと向かい合って、不思議な感覚に襲われた。もちろん今までにも、十一時まで残業する事はあったが、出社する気持ちで、正面を眺めるのは妙な気分だ。
リカが、インターフォンで名前を告げ、ノリコも一緒にいることを説明した。リカの深夜残業は、珍しくなかったから、怪しまれることはない。
問題はここからだ。一旦エレベータで、リカのデスクがある五階まで行って、階段で地下の倉庫に向かう。廊下や踊り場の電気が消されているので、足元灯だけが頼りだ。
「ねえ、ノリコ、アメリカのウォーターゲート事件の時もこんなドキドキだったのかな? 」
アメリカでの生活が長かったとはいえ、空き巣を例に出さないあたりが、いかにもリカらしい。
「何言ってんのよ、スケールが違い過ぎるよ。比べられる筈ないじゃん」
予想通り、経理部の文書保管室の鍵は、倉庫と同じ型のものだった。
リカが、番号のボタン部分を、スマホで照らしてくれる。ノリコは、記憶している手の動きを一度練習した後、慎重に押していく。
ガチャ。
正解音が廊下に響いた。
リカは、狂ったように書類を引っ掻き回している。
「何で、何でなのよ、何でヒロミのだけないの? どこに隠したのよ」
リカは、叫び、箱の中の書類を、片っ端から壁に投げつけ、最後に、ぺたんと床に座り込んだ。
ノリコは、リカの狂乱が収まったところで、諭すように言った。
「最初から無かったのよ、ヒロミの企画書は、ラブホのシーツのシミってことよ」
しばらくして、リカは何かを決意したように立ち上がったが、ノリコに背を向けたままだ。
「ノリコ、今すぐ、この部屋出て、守衛さんに、女子用の仮眠室を私が利用すること伝えてくれる? 」
「わ、わかったけど……、まだ何か調べるなら、私も付き合うよ」
ノリコは、リカの背中に話しかけた。
「いいの! 帰って! この部屋から早く出てって! 」
リカは、散らばった書類を拾い始めた。ノリコが手伝おうとすると、絞り出すような細い声で
「いいから、帰って」
と、頭を振る。
リカのただならぬ様子に驚いたノリコは、部屋を後にした。
守衛さんに、リカがまだ社内に残る事を伝えて、 すぐ隣の女子用の仮眠室、通称「リカ部屋」の扉を開けた。
ここに来るのも久しぶりだ。 壁の電気のスイッチを押すと、窓もない青白い世界が浮かび上がる。この異空間に一人で泊まって、翌日も通常業務をこなすリカの精神力は、やはり普通じゃない。
自分だったら、たった一晩でも、孤独感で発狂するかもしれない。この部屋に泊まった翌朝も、リカはいつも通り元気に挨拶して、ノリコ達と仕事をしていたのだ。
ノリコは、バックの中で持ち歩く携帯用のカイロの袋を破って、軽く両手で揉んだ後、壁際のベッドの上に重ねられている三つ折りの掛け布団を開いて、その中に入れた。
「ナポレオンはいいなあ、三時間も眠れて」
ベッド脇の面白みもないクリーム色の壁にペンで書かれた小さな落書きが、ノリコの視界に入った。 ヒロミが選ばれたあのプロジェクトのメンバー募集があった当時に、徹夜続きのリカが書いたものだ。
数年前の本社ビルのリノベーションの際も、この落書きが塗りつぶされることは無かった。
新人の頃からすでに、リカは伝説になっていたのだ。
翌朝、リカの様子が気になって、ノリコは、本社に寄ってから、倉庫に出勤することにした。
いつもいるはずの応接室に、リカの姿はない。
リカに電話をしたが通じない。 受信メールをよく見ると、早朝に、リカはメールをくれていた。
「ノリコ、昨日はありがとう、今、広島に向かってるの、帰ったら連絡する。心配しないで! 」
昨日の時点で、リカは、広島に出張だなんて言ってなかった。電話をしたかったが、新幹線で寝ているかもしれない、よく考えたら、飛行機で行ったかもしれなかった。
ノリコは心配していたが、リカは、数日後に戻ってきて、表面上は、普通のリカに戻っていた。
倉庫で勤務するノリコの元に、リカがインドのプラント建設プロジェクトの応募を辞退した、という知らせが届いたのは、その数日後だった。
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最後まで読んでいただきましてありがとうございました。今日の夜、9時前後の活動報告で、作品の楽屋話と第36話の投稿予定日時をお知らせします。宜しかったら、そちらもご覧くださいませ。




