薄氷の上を往くが如し
ときとして世界の危機というのは、ひっそりと奥まった田舎の古屋敷などではなく、閑静な住宅街の賃し物件に潜んでいるものである。
ウェスト・ストリートの石畳咲くあじさいが紫とも青ともつかないような微妙な紫を溶かし、花びらでしめった空気を受けていた。ルドゥインは通りに立ち並ぶ屋敷の中でもひときわ飾りっ気のない鉄門をくぐると、慣れた手つきで呼び鈴を鳴らす。
「カイネさん、魔公安のものですけど……」
一応は呼びかけてはみたものの、返事がないのは想定のうちだ。
魔公安とは魔術師公安部の略称である。さまざまな魔術的脅威から一般市民の安全を守るのが彼らの仕事だ。魔法使いというものがまだまだ表だって世間にうって出ることが稀である以上、それの補助機関である彼らが何をやっているのか、一般市民に知る者はほとんどいない。
今日も人知れず世界を救っている……というのはいささか大げさだが。偏屈ものの魔法使いたちをなだめすかし、褒め、持ち上げてはなんとか世間との折衝をつけさせるのが魔公安の仕事である。
重い木造りの扉を押し開けると、扉の隙間から煙っぽいようなにおいが鼻を突く。初夏だというのに建物の中は妙に蒸し暑い。
その理由は、ルドゥインがリビングに入ってほどなく判明した。暖炉でぱちぱちと本が燃えている。景気よくくすぶる先人たちの知識の束に、ルドゥインは喉もとまで出かかったことばをぐっと飲み込んだ。さわらぬ神にたたりなし――というのが、魔術師公安部職員たるルドゥインのモットーである。
「ああ、はい……ご苦労様です」
椅子に深く腰掛けていたカイネは手元の書物からゆるゆると顔を上げる。カイネの手首から重っ苦しい手かせがのぞく。ルドゥインは思わず口をつぐんだ。わかっていたものとはいえ、決して見慣れるものではない。
カイネは謹慎処分を言い渡された魔法使いである。
手首にわたされた魔力の鎖は完全に彼女の自由を奪うには至らず、床を引き摺るようにして伸びきっている。ルドゥインはくるくると鎖を巻き上げると、適当なところで緩んだ魔力錠に留め具を打ち直す。ほっと一息をついたのもつかの間、金具にピシリとひびが入る。
「不良品ですね」
カイネは自嘲気味に笑った。ルドゥインはぎこちなくカイネの顔色を窺う。カイネのすっとした無表情には、何の感慨も浮かんでいない。
”今際の際の魔法使いは、何をしでかすかわからない”……かつて、何度も忠告されたことばがルドゥインの頭をよぎる。
術を使わなければ、魔法使いもただの人。しかしながら、いくら禁止されているからとはいって、それが抑止力となるかは別問題である。カイネはきわめて天才的な魔法使いだ。もしものときは一介の魔公安職員などなんの役にも立たない。ルドゥインには、それが痛いほど分かっていた。
セントラルアカデミーとは魔術学校の名門である。
黒魔術師カイネといえば、その中でもそれなりに名の知れた魔法使いだった。彫りの深い顔立ちと紫がかったブルネット。彼女を一目見たとき、ルドゥインはあえなく恋に落ちた。そして二回目で、カイネの魔術を目の当たりにすると、もはやぐうの音も出ないほどに打ちのめされた。
彼女の類まれなる才能に焦がれ、嫉妬混じりに思いを告げること3回。
思いあがるところまで思い上がっていたルドゥインの思いは、真の天才の前に砕け散る。
ほろ苦い青春がかつての思い出となりかけていた今。なって、こんなところでカイネと再会することになるとは夢にも思っていなかった。
たった一枚のカイネについての報告の紙切れは、電灯に透かして見ればほとほと薄っぺらく思える。
『魔術ノ気配失セ、休養二年余リニシテ実績ナシ。沈黙。魔術師カイネニ術が使エヌ可能性アリ』
ルドゥインはカイネを見ると、あのころのように、ときおり世界の終わりが足下にぽっかりと口を開けているような錯覚を覚える。比喩などではなく、ひところのカイネは、「世界を滅ぼすこともたやすい」と評されていたものである。
「カイネさんは、世界を滅ぼしちゃおうとか、そういうことを考えることってあります?」
忘れもしない3度目の春。ルドゥインは半ばやけっぱちの思いでカイネに尋ねた。青空に涙がにじむ。
「未熟なころには散々考えましたね」
それを聞いてルドゥインはぐっと唇を噛みしめる。未熟な、ときたもんだ。カイネは完成されていて、なによりも遠くを見据えている。
「今は?」
「なんとも」
「そういうものですか?」
「どんなに嫌な人間を前にしても、いつでも世界が滅ぼせるという自信があれば腹も立ちませんよ」
今思えば、カイネの言う、”腹の立つ人間”というのはルドゥインのことだったのではないだろうか。
若さとは恐ろしいものである。知らぬが仏。ルドゥインはこのことについて、ひたすら沈黙を守ることにした。
魔法使いカイネが魔法を行使しなくなったのは2年ほど前からだ。何らかの事情があって魔術が行使できないのか。それとも、ただひたすら沈黙を守っているだけなのか。カイネの真意を確かめるのが魔術師公安部、ひいてはルドゥインの仕事である。
ルドゥインのことを覚えていないのか、それとも素知らぬふりを貫いているのか。カイネは魔公安としてやってきたルドゥインを見ても特になにも言わなかった。
未だ魔術の気配はあらず。手続き的にチェックリストにペケを付けると、ルドゥインは手持無沙汰にぐるぐると部屋を見回して伸びをする。
天才というのは、なにも才能だけをとっていうことではないのだろう。カイネの屋敷にある本はどれもこれもルドゥインには難解なものばかりである。ルドゥインは背表紙をねめつけているうちに、書棚の影から一冊の雑誌を見つけた。なんとなく気になったのは、派手な装丁が目を引いたからだ。黄色のカラーが目に痛い。
(週刊、……マジカル……アイズ)
しっとりとしたカビくさい本棚の中で、その雑誌は明らかに異彩を放っている。本棚から引き抜いてページをばらばらとめくってみると、くだらないゴシップ記事ばかりがつらつらと並んでいる。
ルドゥインの背後に影が差した。
「わっ」
なんです、と言いたげのカイネの顔。ルドゥインは咄嗟に雑誌を引っ込める。
「いえ、なんでも……」
カイネは本棚から一冊の本を取り出し、一冊を暖炉に放り込むと、再び読書に耽りだした。
気を抜いたルドゥインが本棚によりかかると、アンバランスな棚がぐらりと傾く。慌てて押し戻すと、マジカル・アイズが腕をすり抜けて床に落ちた。開かれたページのド派手な見開きの一文がルドゥインの目に飛び込んできて、ルドゥインはことばを失った。
”世界を滅ぼしてみたいとは思いませんか?”
思いがけなく、それはかつてのルドゥインの心と同じものだった。
Q:
親愛なるロビンス先生、あなたほどの力があれば、世界を滅ぼしてみたいとは思うものではありませんか? 世界を滅ぼしてみたいとは思いませんか?
J・ロビンス:
親愛なる読者さま、質問者さま! ああ、まさに、私も未熟だったころはそればかり考えていたものです。これが上手くできているもので、いざ実行出来るようになると、ぜんぜん興味がわかなくなるものなのです。
私でなくとも、過去には偉大な魔術師が何人も居ました。中には善良でないものもいたでしょう。悲劇的な出来事もいくつかありましたが、今までに世界が滅んだことはありません。
いつだって世界はぽっかりと破滅に向かって口を開けている。ただ、その穴の周りに張り巡らされているロープのなんと強靭なこと。この世界の安全弁には、私も何者かの作為を感じないでもありません。
なお、この妙な自信は、私の心を安定させるのに大いに役立っています。どんなに嫌な奴がいたとしても、いつでも世界を滅ぼせると思うと腹も立たないんです。
読者相談の他愛もない囲み記事。どうやら、J・ロビンスという人物が一問一答形式で読者の疑問に答えるという趣旨のコーナーらしい。『今世紀最大の超破滅的魔術師、J・ロビンスが子羊たちの悩みをぶった切る!』という煽り文句が失笑を誘う。
(ああ見えて、実はこういう本の愛読者とか?)
くだらないと思いながらも、しっかりと見開きの2ページを読み終えていた。雑誌を棚に戻そうとしてなんとなく奥まった場所にしまい直す。ここにあったら、もうすぐ燃やされてしまうかもしれない。本棚の空白はすぐ上の段まで来ていた。
悲しいかな、マジカル・アイズはこの難解で重っ苦しいカイネの持ち物の中で、ルドゥインが唯一理解できたものといってもいい。
◇◇◇
Q:
さいきん、魔法使いの質が低下していると言われています。ロビンス先生はどう思われますか?
J・ロビンス:
昔は無能な魔術師はその辺でのたれ死んでいました。
Q:
先日息子が産まれたんです! ロビンス先生のような魔法使いになってほしいと願っています。ここはひとつ、とびっきり素晴らしい名前をつけていただけませんか?
J・ロビンス:
ロビンス2世の誕生、おめでとうございます!
しかし、残念ながら、魔法使いが他人に名を与えることは、魔術連との取り決めで親族が名づける場合などの例外を除いて原則的に禁止されています。そうはいっても別に害があるわけではなく、かつてそれでたんまり儲けた魔法使いがいたんですね。
まあ、そんな理由なので、刑はそんなに重くはなく、対価を受け取らなければ見逃されることがほとんどです。バレてもちょっと懐を絞られるだけなのですが。犯罪者の名付け親というのは流石に少し可哀想です。ご両親で良い名前を付けてあげてください。
Q:
ロビンス先生、私は騙されやすいのです! この前も、友人に誘われた儲け話で大損をしました。どうやったら騙されずに生きていけるのでしょうか?
J・ロビンス:
ときに、私はあなたのお名前と住所を知っています。ハガキを裏返したら書いてありましたもので。よろしいのですか? 私にだって、素敵な儲け話がいくつかありますよ?
騙されないコツですが……。意外に思われるかもしれませんが、私は自分にずっと自信がありません。自信がないことに絶対的な自信を持っていると言ってもいいでしょうね。だからこそ私を褒める人を信用しません。私は、私を肯定する人はあまり信用していません。私ですら。
それも寂しいとは思うのですが、ただ、一つ言えることは、中途半端に自信を失った状態がいちばん危険です。
自分を大切に思うのが無理なら、たまに自信をからっぽにした方が良いですよ。ゼロ。丸っきり信用しないんです。
「んふふ」
基本的に、カイネはルドゥインには不干渉を貫いている。間が持たないため、ルドゥインは危険検閲の大義名分のもと、ロビンスのコーナーを斜め読みするのが常になっていた。マジカル・アイズのバックナンバーはありとあらゆるところから見つかる。背表紙が薄いので見つけ出すのにも一苦労だが、探してみればほどよい具合に本と本の隙間にまぎれているのである。
「何が面白いんです?」
カイネの呆れた声に、ルドゥインは慌てて背筋を伸ばした。膝の上に広げられたマジカル・アイズは誤魔化しようがない。
「な、なんかこの雑誌、気に入っちゃって……」
「はあ」
カイネは気の無い返事をした。なんというか、とりつく島もない。
「まあ、僕は魔術のことはよくわからないのですが、面白いですよね。特にロビンス先生? が……好きで。カイネさんも読んでらっしゃったり……」
ぺらぺらと口からこぼれ出ることばには心底呆れてしまう。魔術のことがよくわからないなんて、ウソだ。ルドゥインだって一時期は魔術アカデミーで学を修めたのである。最後まで聞かないうちに、カイネはいつものように奥に引っ込んでしまった。不発か。ルドゥインはため息をつく。
しかし、カイネは、ほどなくして玄関から一冊の雑誌を持って戻ってきた。
「今週号です」
「は、はあ……!?」
「どうぞ」
ルドゥインは咄嗟のことで何も言えなかった。ぼんやりとカイネの背中を見送る。ルドゥインはぱらぱらと誌面に目を通す。目当てはもちろん、ロビンスの質問コーナーである。
◇◇◇
「今日は晴れてますね」
「降らせますか?」
「……」
カイネが言うと、冗談なのかわからない。頼みの綱の魔力の鎖は、カイネの前ではなんとも頼りないものである。
マジカル・アイズを寄越されてから、ルドゥインはたまにカイネと言葉を交わすようになった。カイネと話していると、憧れを取り戻すようなむず痒い感覚がなんとなく心にうずく。
「しかし、こんな雑誌がお好きだなんて、ちょっと意外でした。なんていうか、もっとカイネさんは……」
「嫌いです」
「……カイネさん」
「なんですか」
「うそをつくのって、どう思います?」
「別に、どうとも」
定期購読しておきながら、「嫌い」はないだろう。こうしてみると、カイネもとんだヒネクレものである。ルドゥインは膝に視線を落とすと、背伸びをして今週のマジカル・アイズを開いた。
Q:
うそをつくことはいけないことですか?
J:ロビンス
私にはよくわかりませんね!
ただ、うそをつくと、うそをついたことを覚えていないといけません。長引くとだんだんとちりがつもったような状態になります。
善いとか悪いとか以前にそういうものです。掃除したり、埋め合わせてみたり、そのちりの上に座る芸当もあります。向き不向きですね。
自分で何を言ったのか、そんなことちっとも覚えていやしないような人もいますけど。
(おお、ホントに載った……)
ルドゥインはだらしなくにやける頬を押さえられない。顔を上げると、カイネがルドゥインを不気味なものを見る目で見ていた。目が合うと視線を逸らす。
◇◇◇
帰路についてから、ルドゥインは深く深くため息をついた。新しい便箋を引き出しから取り出すと、机に向かう。ルドゥインは眉間にしわを浮かべる。ペンはくるくるとまわり、次第にゆっくりと動きを止める。まばゆい青春の憧れがいっそう焼き切れるような錯覚が暗く胸を焦がす。ペンを走らせたかと思うと、報告書をぐしゃぐしゃに丸めた。
カイネは一向に魔術を行使する気配はない。それとなく促しても、首を横に振るだけだ。
おそらく、カイネは実際に魔術が使えないのだろう。魔力の気配が全くしない。
あっというまに季節は秋になる。ツンツンとした針葉樹がピシりと背を伸ばして太陽を受けている。陽だまりの外はほんの少しだけ肌寒い。
「カイネさん、お引越しのご予定は?」
「ありませんが」
「じゃあ、なんでそんなに片づけるんですかね?」
「いけませんか」
リビングはいつもよりも殺風景だった。必要以上のものがないのに加えて、家具がだんだんと減っている。ところ狭しとひしめいていた魔術書が消え、ほうきが消え、大なべが消え。カーペットがとりはらわれた床はわびしさを感じさせる。
「ルドゥイン」
「!」
不意に名前を呼ばれて、ルドゥインはたじろいだ。
「もう、ここに来るのはおしまいにしませんか」
「い、いや、僕のほうも、お仕事で……」
「みじめになりますから」
ルドゥインは沈黙した。
否定してくれればよかったのに。そうしたら、たとえカイネが魔法を行使できないとしても頑として「できないのではない、しないのである」と言い張ることが出来た。
◇◇◇
報告を済ませると、自分の中のなにかが脆くも崩れ去っていくような気がする。
形式的な報告は、ほんの数分余りで終わる。結論から言えば、カイネの謹慎処分は除名処分にとって代わった。とうとう、カイネは、魔術師としての権利を失ったということだ。魔術師連合会はは実力主義ではあるが、それゆえに非情である。
たいそうな雨が降っている。外出するのに、これほど億劫なこともない。
カイネの屋敷の扉が開いているのに気付いたルドゥインは、思わず中へ駆けこんでいた。
扉と言う扉が明け放されており、轟々と風の音がする。窓が風に揺れて雨粒がなぶるように降りそそいで屋敷中を濡らす。
「みじめな魔法使いだと思っていたでしょう」
窓際で佇むカイネは一見穏やかなように見えた。しかし、それは見せかけだけだということをルドゥインは思い知る。黒髪が風雨で乱れていて、べったりと額にはりついている。それすら意にも解さないという調子だ。 カイネの気迫に、ルドゥインは思わず身をひきつらせて固まった。しんとした部屋には物音ひとつ立たない。ざあざあと雨が窓枠をたたく音だけが他人ごとのようにやけに大きく響いている。
不意に、ルドゥインの頬にガラスの杯が押し当てられる。
「いっそ、一緒にいきますか?」
「え?」
「死んでしまいませんか、と、一緒に」
さきほどよりもはっきりと通るカイネの声。
ルドゥインはカイネの方にぎこちなく顔を向けた。ローブ一式をまとったカイネは、つま先からてっぺんまでいかにも魔法使いといった出で立ちをしている。青い鎖がだらりと引き摺るられるようにして床を這っている。
カイネの視線はルドゥインの頬にあてがわれたグラスに注がれていた。カイネがゆったりとグラスをくゆらせると、カップの中身がふらふらと揺れた。カイネの唇は真一文字にきっと引き結ばれていて、なにかが紡がれる気配はない。
ルドゥインは震えながら、まっすぐカイネを見据えた。かつてのカイネと今のカイネが重なり合って、妙な感覚になる。思わずルドゥインは手を伸ばし、カイネの手首を錠前ごとつかんでいた。
カイネがびくりと身を震わせ、きっとルドゥインを見返した。カイネのことを正面から見据えたのは、これがはじめてだったかもしれない。痛いような沈黙が無言の押し問答を続ける。息を吸い込むと、ルドゥインは声を張り上げた。
「あのね、僕だって、もしもカイネさんがホンキでそう言ってるなら、世界の果てまでお付き合いいたしますよ!」
「……」
「カイネさんの場合は本気だとは言いません。本気ではないはずです。カイネさんみたいに”あわよくばうっかり死ねたらいいなー”みたいなのは本気のうちに入りません。カイネさんがその気になれば、世界なんていくらでもひっくり返せます。だって、カイネさんは」
カイネはふっと息を吐くと、手に持ったフラスコを放った。投げ出されたグラスが重力によって落下する。
「冗談ですよ」
カイネはそう言うと、ルドゥインの胸に顔をうずめた。ルドゥインはフラスコの割れる遠い音を聞く。おそるおそる背をさすってやると、思ったよりもカイネは細いのだった。どくどく心臓が動いているのが分かる。カイネのものであるのか、自分のものであるのか、混じりあって判然としない。小さくすすり上げる声がした。恨みがましいカイネの視線を避けるようにかがみ、気が付けば、ルドゥインは当たり前のようにカイネに口づけを落としていた。
1秒、2秒。
沈黙が糸のように張りつめ、時が移る。
フラスコの飛び散った周辺から、しゅうしゅうと煙が上がる。ルドゥインははっと我を取り戻す。液体が付着した床はみるみるうちに真っ黒に焦げていた。
◇◇◇
コポコポと曖昧な音を立てながら、ポットがお湯を沸かしている。ルドゥインの淹れたお茶は、どこまでも微妙な味がした。
なんとなく気恥ずかしくてルドゥインはカイネと目を合わせることができない。黙っていると、カイネはぽつぽつと口を開いた。
「謹慎処分を喰らったとき、杖とローブを返上しました。あれほどの屈辱はありません」
そう言われてみればカイネのまとうローブはカーテンの暗幕である。ルドゥインは、なんだか馬鹿らしくなって笑った。
「いっそとっとと教えてくれれば良かったのに」
「あなただって聞かなかったでしょう。なんだか私ごときに真剣にびびっているあなたを見るとおかしくってですね、昔を思い出すというか……ついつい先延ばしにしてしまいました」
「お役にたてたなら結構ですよ。魔公安職員としてお聞きいたしますが、これからどうするんです?」
「無論、私に魔力は残っておりません。魔法使いとしての権利は、全て返上いたします」
カイネはどこか含みのある笑顔だ。考えはもうほとんど決まっているように思える。声を潜めると、ルドゥインはカイネに再び問い直す。
「それでは、可愛い後輩としてお聞きしますが、これからどうなさるおつもりで?」
「どう、と言われましても。生まれついての魔法使いは、決して辞められるものではございませんよ」
「でっしょうね! カイネさんは根っから魔女ですから。辞めるなんて、とても。薬草煮詰めて一生を過ごすのも悪くないんじゃないですか」
カイネはすっと射抜くような視線をルドゥインへと向ける。ルドゥインは咄嗟に縮みあがるような恐怖を覚えて沈黙する。手元のコップを覗き込んでなんとなく黙っていると、カイネの唇がふっと緩む。どうもこの人には敵わないな、とルドゥインは思った。
「まあ、薬草師をやるのも悪くはありませんが。魔法使いというのは、他者の認識によって生まれるものです。あなたが私を魔法使いとしてみるのであれば、このまま魔法使いとして存在するのもやぶさかではないかと」
「でも、クビになったんでしょう。存在するったってどうしようもないじゃないですか。ロビンス先生の受け売りですか?」
カイネは一冊の雑誌を机の上に置いた。
「それ、ほんっとにお好きですねえ、先生」
「私がロビンスです」
ルドゥインは思いっきりむせっ返って、それから、あんぐりと口を開ける。カイネがロビンス?なんだかおかしくなって、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
どんな経過をたどっても、結局はルドゥインはカイネに惹かれずにはいられないのだ。
◇◇◇
役目を終えた魔力錠はいっそ粉々に砕け散ってくれれば始末が楽だ。不良品はゴミ箱へ。ルドゥインが手を加えると、ぱらぱらと青い鎖が粉になって掃除機に吸い込まれていった。
カイネは旅行鞄ひとつを手にあっさりと新天地へと発っていく。つてを頼って、しばらくはロビンスとして過ごすらしい。汽車のチケットとともに見覚えのある数枚の便箋を取り出すと、馬車の窓からルドゥインにひらひらと振った。
ルドゥインは遠ざかるカイネの後ろ姿を見送ったあと、ウェスト・ストリートの石畳をコツコツと歩く。途中、書店で黄色い見出しの雑誌を一冊購入するとカバンに突っ込んだ。
仕事に飽きたら、こんどこそ魔女モドキの弟子になりにゆくのも良いかもしれない。ルドゥインの鼻歌は、流行を外してどこか滑稽染みている。
今度は、ロビンス先生に分厚いラブレターのひとつでも書いてやろうか。もはや若気の至りを言い訳に出来なくなったそれはおそらく無防備で、どっちに転んだとしても彼にとって恐ろしい傑作になるような気がする。
ルドゥインはそんなことを夢想しながらにんまりとほほ笑んだ。