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女流棋士誕生

全国将棋大会(東京千駄ヶ谷)に駒を進めた中学生の伊緒。大会まで杉本の主宰する将棋教室に通い腕を磨く。


「伊緒ちゃんは筋がいいからね。教え甲斐がある」


忙しい身の杉本も暇を見つけては親身な指導である。

教室から帰るとパソコンの前に座りインターネット将棋である。


「少しでも棋力のある相手を探し他流試合をしなくちゃ。みんなこの伊緒さまにかかっていらっしゃい」


パチン


パチン


夏休み真っ最中の中学生は寝る間も惜しんで盤面を睨みつける。


将棋・将棋・将棋である。

中学生だから友達とプールも行きたいだろうし映画やゲームセンターもと思う。

パチン


パチン


脇目も振らず教室で学んだ手筋はネット将棋で試してみる。新しい駒組みを身につかせるには実践が一番であった。


パチン


パチン


まっ参りました。


「お嬢さん強いね。また変わった手を知ってる。きみは本当に中学生かい。奨励会の会員さんでしょ。あまりに強すぎる」


敗者は女子中学生にしては老獪な将棋であると不満をぶちまける。ひとつふたつ負け惜しみをコメントして逃げていく。


パチン


パチン


伊緒の勝率は日増しに高くなり8勝/10局ぐらいになる。


相手がしっかり駒組みをする前に中飛車から急先鋒を仕掛け伊緒のペースに持ち込む。あれよあれよと思う間に対処ができず負け将棋である。


パチン


パチン


「それでも2回も負けちゃった。負けは悔しいやあ。その強い相手はインターネットで噂になっていたの。成績みたら200連勝していたんだ。これってアマチュアのものでなくてよ。プロ棋士さんじゃあないかって噂が立ったの」


伊緒は強い対局者を希望している。さっそく200勝している猛者に手合いを申し込みしてみる。


「あなたのリクエストに答えたい。私に興味があるんだね。中学生である。私を負かせたいだね。近く全国大会出場の実力があるお嬢さんだね。近く千駄ヶ谷でそんな対局があるね。頑張って欲しい」


200連勝中なので対局者は鈴なりにいる。しばらく待ちなさい。私の棋譜を見て勉強し対局を待ちなさい。

いかにも異次元の将棋屋というコメントが返ってくる。その時の伊緒はレーティングが低いため高段者には思われなかった。


「実力を低めに見られるなんて。悔しいなあ」


パソコンの前で地団駄を踏む伊緒である。


※数日待たされ対局となる。伊緒は平手で立ち向かうがまったく歯が立たずで敗着した。


※※この対局の猛者はプロ棋士だと後に本人が告白している。


夕方に父親が早く帰ると親娘対局である。


「伊緒一番行こう」


アマ4段の実力で娘に棋力をつけてやる。父親は夕飯の楽しみ晩酌を堪えて愛娘のために盤面に座る。


伊緒に将棋を教えた父親との対局は父親7-3伊緒ぐらい。


父親は指導対局の棋譜を丁寧に並べ教えていく。


「どんな将棋に巡り合っても驚くことのないようにしてやる。杉本7段の四間飛車戦法は私も好きだ。だがこれだけでは全国大会はまず勝ちあがれない。受けを知れば負けは時間の問題になる。そうしたら杉本先生が責任取るならなあ」


父親も将棋熱となる。伊緒が寝静まるとインターネットで名人戦各対局棋譜をダウンロード。できるだけ多くの棋譜を仕入れ教えたい。


「大山永世名人は芸術の域だよ。これを手本に行くか。いかんいかんそんな雲の上の話に目を向けていては。伊緒姫のためになることをしなくてはならない」


大山戦が済むと中原永世名人。次は谷川永世名人と父親は忙しい。


「それぞれ参考にするが大山名人の華麗さには脱帽した。森内名人はどんな棋譜だろう」


娘伊緒に名人の棋譜を教えておきたい。指導するというより父親の趣味満喫で夜は明けた。


将棋クラブに通い伊緒はメキメキ実力をつくる。プロ棋士に指導を受け即座に実践である。クラブには高段者がいくらでもいて相手に不足はなかった。


だが…


パチン


パチン


「いやあ参った。俺と3局めだね。伊緒ちゃん強くなった。アマチュア3段の名が泣いてしまうわ。おい俺こそは伊緒姫に勝てるという奴助けてくれ。ワシ自信なくしたわ。3段は封印しちゃうよショボン」


年配の愛棋家はコロコロと伊緒に負けるようになっていた。旧態の戦法は大抵伊緒はマスターしている。


駒の動きをみたら先読みで戦法がわかり伊緒からしてみたら"虎も豹も飼い猫"になってしまう。


夏休みも後半になる。千駄ヶ谷の全国大会の日は近くなる。


伊緒に付き添うのは母親である。杉本7段も責任者として名古屋から上京する。

「伊緒ちゃんリラックスしていこう。一回戦や二回戦は緊張から自滅する子が毎年いらっしゃるんだ。実力以前の問題だけど」


リラックスさえすればこの子はベスト8あたりまではと思った。なんせ杉本の四間飛車戦法を得意とするマメ棋士だから。


新幹線を降り東京駅に到着である。地方から来る者は大都会をここで体験をすることになる。


伊緒の一行は中央線千駄ヶ谷の日本将棋会館に到着する。


「杉本先生。この建物が聖地・将棋会館なんですか。ワアッ緊張でいっぱいになります。私どうしよう困ってしまうなあ」


可愛いいセーラー服姿の女子中学生は驚く。杉本も見る。


いつも見馴れた将棋会館の建物を一緒に眺めた。


「小さな建物だけどなあ。はて?なんだろうか」


ちょっと首を傾けた。


杉本を先頭にして伊緒と母親は将棋会館に入る。


伊緒は胸が張り裂けそうだった。盛んに母親に感激の言葉を繰り返した。


「ここは将棋の聖地であるの。日本にいる愛棋家は誰もが憧れる会館なのよ」


母親はへぇ?そうなのっという顔でいた。会館を入るがさりとて普通の建物にしか見えないらしい。


将棋の好きな伊緒はプロ養成組織の奨励会やその下部組織育成会が会館にあることも知っている。


プロ棋士(4段)になるための奨励会は約100人。育成会は約200人。(関西は除く)


奨励会の3段リーグ(約30人)という熾烈きまわる戦いを勝ち抜き憧れのプロ棋士新4段になる。


将棋に疎い母親はそういえばと気がつく。伊緒の弟と父親が将棋を指した際に話題になる奨励会であった。

あらまっ。子供の憧れの会館にいるのかしらと思ったら遅ればせながら緊張していく。


会館にぞくぞくと全国大会の出場者が到着していた。

「ロビーにいたら人ごみに紛れてしまう。総勢500人ぐらい集まるからね。ちょっと控え室に行こうか」


顔の広い杉本は会館の関係者に挨拶をしながら伊緒を案内する。


「よおぉ元気かい7段先生。名古屋から上京されたのかい。今日は対局だったかな」


対局控え。人のよさそうな棋士がいらっしゃった。杉本はにっこりして会釈をする。


「こんにちは先輩。今しがた名古屋からですよ。さっそく紹介しましょう伊緒ちゃん」


紹介はプロ棋士養成機関は育成会の主任指導員大島映二7段だった。伊緒は人柄のよさそうなオジサンに見えた。


「まったくなあ杉本も隅に置けない奴だね。どこでこんなかわいい子を見つけてきたんだい。名古屋に落ちているんだろうか」


名古屋に落ちている?伊緒はキョトンとした。


「俺にもかわいい女の子を紹介してくれるんだろうなっ」


ジョークを連発大島のオジサン。


「紹介はそちらのお母さんを是非ともアッハハ。娘さんもかわいいがお母さんも輪をかけて…」


大島はおおらかに笑う。なにかとギスギスする将棋の世界。珍しく丸い人間であった。


紹介を頼まれた伊緒の母親は喜んでよいのか悪いのか複雑な顔をした。娘の時代なら嬉しいところである。

「大島先輩はいつもあんな調子です。なんせジョークの嫌いな男であると言われてます。たぶんに"気にしてください"アハハ」


大島の52歳の年齢からしたら30台後半伊緒の母親ぐらいが適齢期らしい。大島は目が笑っていなかった。


大島は親切に母親に向かいあれこれと会館や将棋の説明を始めた。


うーん説明はちょっと置いてきぼりである。もっぱら母親のプライバシーを詮索したい。


「えっお母さんは娘だけでなく息子さんまで作ったんですか。僕は知りませんでしたね。確か許可していないですよ。弱りましたね」

真面目に顔を曇らせて残念な思いを表した。


ジョークの好きな大島7段は約200人の豆棋士の卵を下部組織・育成会に預かる。


育成会から奨励会は受験して入会するシステムになる。


「この育成会は名前のとおり将棋の棋士育成の基礎を培う場所なんですね。この会員の時代に熾烈な闘いの場奨励会で勝ち上がる実力を身につけてもらいます。

そのプロ養成学校の奨励会からは毎年4人だけ新4段になれるわけです。となると欠員補充で育成から4人だけしか進めないという理屈だけど。


いやいやそれは嘘。奨励会をなんらかの理由から辞めていく棋士もいるわけ。


在籍や年齢に制限があるためにね。それら欠員補助の形で新たな奨励会員ができるわけ」


いきなり大島は真面目な理事会幹事さんになってしまう。


「お母さん育成会と奨励会はわかりますか。あのぅご趣味は子育て以外になにがございますか。僕は趣味が将棋なんですよ。よろしくね」


日本将棋連盟の下部組織にある奨励会/育成会は大相撲の幕下・序二段。


この下部での将棋に賭ける勝負。口では言えぬ厳しい険しい下剋上の世界がある。


ジョークが得意な大島。熟女と釣りが大好きな男に口説かれる母親はどう対応したらと困りハア〜とだけ返事した。


※大島には立派なお子さんがいり。伊緒より大きな子供で近い将来孫も抱けそうである。


杉本が育成会の"はんにゃ金田"ことジョーク大島と雑談していると控え室にかわいい女子高生が現れた。

「大島先生こんにちは。あらっこれはこれは珍しいですわね。杉本先生がいらっしゃる。今日は名古屋からですか」


今風の女子高生は可愛いらしくチョコンと頭をさげ会釈する。何気なく会館に遊びにやってきたような雰囲気である。


大島が手を軽くあげ挨拶をする。かなり親しみがあるようだ。


「よっカワイコチャン元気かい。あれ?今日は女流さんの対局はないはずだ。はてさて?なんで来たのかな。何しに来たのかな」


大島は本日が全日本中学生大会の貸し切りを知っている、わざとすっとぼけ大袈裟に女子高生をじろじろである。


大島に場違いな女子高生と言われてすっとんきょうに見つめる。


「大島先生そんなにじろじろ見ないでください。恥ずかしいですよ」


大島はジョークを思いつく。手をパンと打つ。


「あっわかったぞ。カワイコチャンだから女子中学生に紛れて本日の中学生大会に出てやろうとしているな。図星だろう。いやっチャラチャラした雰囲気から小学生かもしれない」


小学生?


チャラチャラ?


「早くセーラー服に着替えておいで。盤面をセーラー服で眺めるなんて滅多にできないよアッハハ」


大島が頭の先から爪先までからかうのは普通の女子高生ではない。今年春に女流棋士2(プロ)になったばかりのれっきとした棋士。将来楽しみなルーキーだった。


「えっ大島先生から見た私は中学生に見えますか」


女子高生は顔がひきつる。ジョークにしては度を越えている。


「エエッ〜見たら見えるかしら。ヒャッホ〜嬉しいなあ。張り切って偽物中学生やっちゃうかなあ。少々フケ顔しているけど大丈夫ですか」


中学生に成りきるのジョーク。大島は勢いに任せカワイコチャン中学生になる素質十分だよと太鼓判を押す。


「じゃあ大島先生の推薦でちゃっかり中学生大会に静岡県代表しちゃうかな。ミニスカのセーラー服着たいなあ。大島先生。必ず推薦してくださいね。


推薦してくれたら"パパっ"て呼んで、あ・げ・る」


パチッ


(右目をウインクをした)


このあっけらかんとしたユーモアのわかる女流棋士を伊緒は大島から紹介される。


「大会開始時間まで間がありますね。女流棋士の育成会を紹介しますわ。お母様もどうぞ。なんとなく入会をしなさいねと強要しているみたい」


女流棋士はパパと呼ぶ大島を横目でチラチラ。ここで大島先生の出番はおしまいですわと合図である。


「大島先生以外の皆様はこの将来美人女流名人の噂がある私について来てください。しっかりついて来ないと迷子ちゃんになりますわ」


いつか美人女流棋士として人気になる女子高生について伊緒たちは二階に上がる。


「先ほどは失礼いたしました。私は本日の中学生大会の聞き役兼司会進行にテレビに呼ばれているの。


解説は男性棋士の先生ですの。女流2級になって初めてのテレビ解説なんですよ。もうめちゃくちゃ緊張しています」


彼女は話好き。将棋に行き詰まりを感じたらいつも大島7段に相談に行く。


テレビ映りが気になる場合もそれなりにアドバイスをもらう。


「だって大島先生って気さくなオジサマでしょう。なんでも聞いたら教えてくれますもの。


駄洒落なんかはいつもずれて面白いんだもん。


街ですれ違えば危ないオヤジだけどね。ありゃあ嫌がって女の子は走って逃げるタイプだけど」


育成会の大島7段はカワイコチャンから慕われています。


女流の育成会に来る。責任主任は蛸島章子元女流名人(初代)が務める。


女流2級はこんにちはと蛸島に挨拶する。今度は大島と異なり些か緊張気味である。


つい先頃まで彼女の直属の女ボスで様々に指導鞭撻をいただいている。


「あらっいらっしゃい。3月に育成会を卒業したら里帰りしたくなったのかな。

アッそっか今日は中学生大会だから貴女も出ちゃうのか」


こちらも笑えぬジョークである。いえいえ蛸島はちゃんと知ってる。テレビ中継のアシスタントを務める女流2級のことを知ってる。アナウンサーならば初鳴きという大切なプロ棋士デビュー番組収録の日である。

女子高生を育てた蛸島。しみじみとよくぞここまで成長をしてくれたと我が娘の心境である。


「こんにちは蛸島さん。この女子中学生は東海地区優勝の子なんですよ」


杉本は伊緒を紹介する。女流の首領ドン蛸島にはなにかと縁がありそうである。

中学生の伊緒はペコリと会釈をする。会館には将棋のお偉いさんしかいない。誰でも頭をさげるのが得策である。


伊緒は"中学生"と紹介をされていた。女の子が全国大会に出場をすることは稀れである。


聞いた蛸島にかわいい女の子は東海地区優勝の肩書きですと耳に残る。


「この中学生大会に出場をされるのね。そうですか。頑張ってちょうだい」


中学生大会の出場者リストを確認しておきたくなる。

「大会に優勝したら伊緒さんは杉本先生のお弟子さんになられるの?」


弟子?


「お家は東京かな。アッ東海地区だから名古屋でしたわね。もしもですけど新幹線で千駄ヶ谷の会館まで通うことは考えてくださるかしら。大会はベスト8でもウチ(女流育成会)は歓迎よ」


女子中学生自体珍しい。全国大会を勝ち上がるは極めて稀な例である。


優勝したら女流育成会に来てもらいたい。プロ棋士目指してドンっと来て欲しい。


女流棋士の重鎮蛸島の願いであった。


伊緒を女流育成会にスカウトしたいその内心。なるほどと察した杉本はにっこりする。優秀な人材は育成会に不可欠なものである。


「貴女もしっかりね。伊緒さんが勝ちましたらインタビューをしてあげてね。なるほどなあっ。こんなに努力をしたのよっと教えて欲しいわ。女の子でも大会で頑張っていけるのよっと教えていただきたいの」


女流2級は初仕事を張ってねと励まされる。テレビ映りを考えて女流棋士らしいスーツに着替える。ヘアメイクを施し薄化粧をする。


あとは軽妙な受け答えと中学生への的を得たインタビューである。


時計の針は回り中学生大会は開幕である。


「伊緒ちゃんどう?会館を案内したら緊張感はなくなったかな。僕も奨励会の最初の頃は緊張ばかりして盤面に向かったよ」


将棋会館での大会に臨み緊張感もある程度は必要である。だが程度の問題でいつまでもガチガチでは実力発揮とまで行かない。


チラッと時計を眺める。大会開幕まで小1時間があるなっ。


杉本は控えで盤面を並べ始めた。伊緒に指導対局をする。


「はい先生よろしくお願い致します」


杉本の指す手はいたって自然体。ノータイムでスゥースゥーと進む。伊緒は手慣れた駒組みを盤面に披露し杉本の手合いに合わせる。

パチン


パチン


杉本の早指しに意味があった。伊緒との合い振り飛車には将来の師匠としての指導の意味もある。


「彼女の緊張を除きたいんだ。これから始まる全国将棋大会は実力のある者ばかり。ひょっとしたら実力差がとアレルギーがあるかもしれない」


伊緒は杉本の指し手に誘導されるようにスゥースゥーと指していく。


「杉本先生の指し手。気持ちがいいくらいにドンドン指されているわ」


約10分で終局した早指し将棋であった。杉本は綺麗に負けた。


「よし伊緒ちゃん大丈夫だ。そのまま頑張ってくれ」

全国中学生大会。


会館の大広間を使って開催された。47都道府県をブロックに振り分け勝ち抜きである。


登場のマメ棋士は16人。4人のリーグ戦4ブロックに分けて戦う。


上位2名が決勝トーナメントに進出の栄誉である。


「ブロック代表の16人の顔ぶれはどうか」


杉本は北から南へと代表の名前と棋力を見る。中学生クラスは小学校から強い子供ばかり。目新しい子供はいなかった。杉本の記憶が正しければ小学生時代から持ち上がりの感がある。


「大会の初顔は伊緒ちゃんだけかも知れない」


出場者は紅一点である。杉本はこりゃあ予選リーグを勝ち抜きは至難の業ではないかと目をつぶった。


「4人の予選リーグ。組み合わせが問題だ。アマ五段位が集中すると決勝進出は難しい」


杉本として伊緒の実力をアマ2段と見ていた。かなり辛口で見ての2段である。

大会挨拶が終わると直ちに試合である。試合に対し中学生は気をひきしめていく。


予選ブロック。伊緒はAブロックになった。


「伊緒ちゃんに頑張ってもらいたいと言いたい。メンバーを見るかぎりかなりタフなブロックだな」


伊緒2段以外は5段が3人である。この中から1位か2位にいかなければ決勝進出はできない。


「対戦相手はアマ5段ばかりか。全国大会ともなるとこんなものだろうけど」


杉本は腕組みして考える。対局者の気力におされ伊緒は0勝3敗のストレート負けを喫するのではないか。


女子高生棋士が大会開始の挨拶をおこなうと会場に嫌がおうにも緊張感が走る。

大会の進行は育成会の子供も嬉しいことにお手伝いをしてくれる。


予選リーグから大会が始まると育成会の大島7段や蛸島元女流名人も顔を出す。

大島は強い中学生をどうしても見ておきたい衝動を抑え切れない。


各対局は序盤戦から中盤にいたる。中学生クラスになると指し手の迷いは少なく自信を持ってピシッと打ち込んでいく。


パシッ


パチン


いずれも高段者ばかりである。棋譜を見る限り無駄な駒はなくプロ顔負けの対局が続く。


「杉本。娘さんの調子はどうなんだい」


大島7段は長年にわたり将棋の世界にいる。子供の将棋は育成会担当になり一日の長もある。


名だたる子供に常に接し将棋の筋のあるなしはわかっているつもりである。


「思うが男女のハンディは埋めてやらねばな。中学生の伊緒ちゃんは男に混ざっても女流は女流だ。例え中学生だとしても彼女にハンディを与えないと勝ち進むのは難しいじゃあないか」

パチン


パチン


大島は育成会の役員として中学生の対局を見る。アマ五段の実力は盤面にそのまま反映をされていく。


気になる伊緒の後ろにも回った。紅一点を大島は複雑な気持ちで眺めてしまう。


伊緒は主催者にも女の子であるから珍しく傍観者が鈴なりである。


「このお嬢さんは振り飛車戦法だ。なかなか堂に入る駒組みをしているじゃあないか。しっかり地に足がついた将棋だな」


さすがは名古屋の杉本の仕込んだ弟子だけのことはある。評判は上々であった。

育成会の大島は全対局にまんべんなく目を通す。グルグルと盤面を眺めたら再び伊緒に戻ってくる。


「伊緒ちゃんの手はどこまで進んだかな。あれっまあっ。これは珍しい手だな。四間飛車戦法か。杉本に似た形だな」


あっそうかお嬢さんは杉本の弟子だったな。


「杉本の教えた将棋をやっているわけか。弟子だから当たり前だったな」


果たしてプロの杉本のように華麗に勝ちを得ることができるかどうか。


「お嬢さんに理解されて実践もされて」


大島はかわいい制服を眺めて終盤戦が楽しみに思った。


蛸島元女流名人(育成会)も大島と同じである。伊緒が気になって仕方ない様子である。


「男の子と対等な対局は大変です。持ち時間が充分なら別ですけど。この予選リーグを突破するだけでも褒めてあげないといけないくらい」


蛸島はセーラー服を見つめた。ハンカチをギュと握りしめ大人顔負けの将棋を披露する伊緒をみた。背筋をピンっと伸ばしかわいいお嬢さんが凛々しく見える。


「細い腕からピシャピシャと指しいく。小気味がいいわね」


蛸島は紅一点を見つめる。自分自身が女子高生時代同じようにセーラー服で対局をしたことを思い出す。


女流棋士第1号なれど中学生時代は普通の女の子であったようで。


予選リーグの一斉対局が開始され30分が過ぎようかとする。熱戦が期待される対局はいよいよ秒読みである。


「(もう手が)ありません」

全8対局の中。一番早く投了したのは紅一点の伊緒だった。


ハンカチをギュっと握りしめ敗者となってしまった。

主催者も残念だなっと思う

「女の子は第関門勝てなかったか」


杉本は伊緒が控えに戻ると棋譜を検討する。インターネットでザアッとリサーチしてみる。


「中盤までの駒組みはまずまず。僕の指導したとおりになっている。しかし自陣はよいが攻め駒がまずい」

時間が少ないので杉本は手際よく悪手を指摘してみせる。


「相手は強いや。磐石の守りだ。矢倉を突き崩せないのはこちらの力量不足もある。だが棋譜を見る限り相手(アマ5段)はより一層うまいね。相当勉強をしている」


残念ながら伊緒は1敗を喫する。


棋譜の検討を終えると伊緒は母親の控えに戻ってくる。


「悔しいなあ。私負けちゃいましたあ。対局のその場ではあまり緊張しなかったんだけどなあ」


母親の顔をみたらついつい甘えを出してしまう。


「中盤で銀将をただ取りされちゃった。そこからはエヘヘ。私は将棋がわかんなくなっちゃった。お母さん杉本先生には黙っていてちょうだいね。適当にポンポンやっちゃった」


中学生はペロリっと可愛らしく舌を出した。対局相手のアマ五段がいかに強いかを肌で感じた伊緒であった。


棋譜を検討する杉本はなるほどなっと頷く。中盤以降の駒回しが異常に強いと思う。どんな指導者がいらっしゃるか知りたくなった。

「対局の相手に誰が座っても心を乱してはいけない。強豪ばかりが集う全国大会だからね。常に平常心で駒を動かさないと」


頑張れという杉本自身少し無理があるかと思ってしまう。日本全国の高段者がしのぎを削りトップを争うのである。


「次の対局はしっかり頑張ってもらう。伊緒ちゃんは痩せても枯れても東海代表さんなんだ。こんな予選リーグで消えかけてはいけない」


杉本は心と裏腹にである。願いは東海代表から優勝者を出すこと。今回はたまたま女の子が代表になったが予選は強豪を薙ぎ倒したのは事実。


実力を発揮さえしてくれたら予選リーグ突破は可能ではないか。


「伊緒ちゃんのリーグはレベルが高いな。タフな面があるから苦労だけど」


伊緒は1局を終え昼休みになった。敗着の気持ちを切り替えるには絶好のタイミングである。


「伊緒ちゃん。お昼は僕が(おご)るよ。さあお母さんも一緒にどうぞ。会館近くの和食レストランに行きましょうか」


杉本の連れていく和食は意味があった。彼自身負け将棋を払拭するためによく利用をしていた。


伊緒には平常心で盤に向かってもらいたい。そのためには1にも2にもリラックスを心掛けたい。


「この和食レストランは棋士の皆さんが利用されているんだ。歴史も古くてね戦後から。歴代のタイトル保持者はよく来ているんだよ」


験担ぎの和食である。


伊緒と母親は和風おろしハンバーグ定食を注目する。杉本は豚カツ定食で特注赤だしを頼む。赤だしは岡崎の八丁味噌である。


「残念ながら東京には味噌カツはないんだアッハハ」

定食が運ばれる。食欲があまりない伊緒も箸をつけてみる。


杉本のレクチャーも始まった。緊張感のある対局はプロとして数々指してきた杉本7段である。自らの失敗談を面白可笑しく話してみる。


「新4段時代は対局はみんな有名な方ばかり。テレビや雑誌でしか見たことがない棋士さん。対局そのものが緊張感いっぱいで大変だった」


ルーキー杉本はデビューして黒星の連続。あまりにも負け過ぎて自棄を起こしてしまう。


ある日開き直って盤面を睨み付け指してみたら簡単に勝ちが拾えた。


「無我夢中の対局で気がついたら逆転勝利。それが初勝利だった」


プロ4段の初勝利は開き直って無の心境であったようである。


「ハイッわかりました先生。私も開き直ってみます」

伊緒は可愛らしくにっこりとした。和風ハンバーグはあっさりとした味わい。伊緒はおいしくいただいた。

食欲とリラックス。信頼性のある杉本。短時間で伊緒の強ばった顔はスウッと消えていく。


和風レストランのドアが開いた。


「あらっ杉本さんもいらっしゃったのね。隣よろしいかしら」


杉本たちの隣に蛸島元女流名人(女流育成会理事)が来た。


「おぅ〜杉本。久しぶりだなあ〜アッハハ。お前もここかいなあ」


大島である。杉本と伊緒の母親がいると知り近くに寄ってきた。


「なんだい豚カツを食べているんか。これは名古屋名物の豚カツじゃあないぜ。千駄ヶ谷(将棋会館)裏にいる豚カツ牧場からの豚さんだ。どうだ味は。うまくないだろ。"豚死"したやつばかりだからなアッハハ」


蛸島女流理事についてきたのが大島7段(育成理事)だった。


会食は大島理事と蛸島女流理事を交え和気あいあいとなる。大島は強引に母親の隣に座ってご満悦だった。

蛸島女流理事は紅一点の伊緒が気になる。あれこれと伊緒に女の子は女流プロ棋士になる道があるのよと説明である。


豚カツを食べながら杉本は救いの手を出す。


「まあ伊緒ちゃんは勘弁してください。本人はごく普通の中学生さんです。ですからね(蛸島先生諦めてください)」


杉本からは伊緒はアマ2段ぐらいである。今の年齢15歳を考えたら女流棋士に進むのは辛いと思う。


また男の子なら杉本も本腰を入れて育てたいと思うが女の子は眼中になかった。

「あらっそうでしたの。普通のねぇ」


蛸島は引かない。全国中学生に勝ち進むことはすでに普通の女の子ではない。


蛸島女流理事のオシは強いのである。勝負の世界に長年いる蛸島の眼光が鋭く光り勝負師の顔が覗いていく。


「杉本先生がそう言うのでしたら諦めますけど。伊緒ちゃんが望まれるのでしたらお願いしたいわ」


杉本を除外してしまう。女傑の素顔を見せてしまう。

「女流育成会の試験を受験されてはいかがかしら。というのもね中学生大会に出場された女の子はあまりいないの。私が女流理事になってからもひとりかふたりと数えるくらい」


伊緒ちゃんの実力は充分にわかりました。遠慮なく女流育成会にいらっしゃいな。千駄ヶ谷の将棋会館で美人の譽れ高いこの蛸島理事が待っていますから。


熱心に女流棋士への道を選びなさいと勧誘された伊緒。


いきなりそんなことを言われても。どうしましょうと当惑である。杉本に助け舟を求めた。


「女流育成会は東京まで通うんですね。名古屋からだと大変。新幹線で来なくちゃいけないや」


杉本は物理的に無理があるとやんわりと口を添えた。

伊緒を蛸島理事に愛弟子に取られてしまうと思うと杉本もちょっと考えたい。手元に置いておいても仕方ないが取られるとなると話は違ってくる。


伊緒の隣に座る母親も迷惑顔であった。こちらはこちらで熟年の大島理事に口説かれている。


「お母さんはふたりのお子さんがいらっしゃるんですか。ほおっ〜女の子と男の子ですか。お母さんはえらいなあっきっちり男と女を産み分けたんですか」


母親を口説く大島育成理事。子供相手の育成会より熱が入ってくる。不味い不味いと言いながら豚カツ定食をパクパクと頬ばる。


「いえね僕は娘が3人でしてね。3人目は男の子だあ〜と勝負を賭けたんですけどね。残念でしたわコケッちゃったアッハハ」


あっけらかんとした口説きの大島。話術のうまさは年中将棋の講演会をしており天下一品。


母親はついつい気を許してしまい伊緒の身の上話をしてしまう。


父親がアマ高段者だとポロポロしゃべった。

結婚当初から仕事と将棋が楽しみな男だったらしい。

「仕事と将棋しか楽しみがないんですか。なんだ僕や杉本みたいですね。おっと我々は仕事が将棋でしたなあ。僕は競馬がちょっと加えられたりするけど」


母親は大島の冗談に微笑んだ。笑わないといけないかと心配をする。


「伊緒も下の息子も将棋をたしなみますの。父親は男の子を強くしたいと思ったらしいのですが」


父親と弟の将棋を見て覚えたらしい。


「娘は筋がよかったのでしょうか。こうして中学生大会ですからね」


大島は伊緒に弟がいると聞き杉本の顔を見た。姉がこれだけの力量ならばである。


「伊緒ちゃんの弟さんは東海の小学生大会で準優勝をしています。後一歩で千駄ヶ谷にこれたんですけど」

大島は興味を示す。東海の小学生大会は?熱心に聞いてきた。


子供の強豪がいると知ると目はキラキラとしている。伊緒の母親はきれいであるなどと嘘や冗談は言わないものだった。


「へぇ姉も弟さんも四間飛車が得意なのか。基本的に振り飛車が好きなんだな」

飛車の振りは子供だけでマスターするには難しい。


「となると杉本お前が指導したんだろ。やたら飛車を飛ばす杉本将棋だから」


キッと杉本を睨んだ。なぜ育成会の重鎮の俺に黙っていたんだ。


「大島先生。それは残念ながら違います。お父さんがアマの高段者さん。ご熱心にご指導をされています。


嬉しいことに僕の著作を愛読され指導されていただいたからなんですよ」


杉本は頭をかきながら照れた。手前味噌はどうにも恥ずかしい。


「父親が指導したのか。アマ高段者?どのくらいなんだろうか。うーん父親の(たまもの)か」


この才能ある姉弟の将棋はアマチュアの指導で大丈夫なのか。大島は顔を曇らせた。


昼休みを終えた伊緒。杉本や大島のおかげでしばしゆったりとする。


予選リーグ2局目。盤面に対する強豪はアマ5段である。伊緒は背筋を伸ばし居ずまいを正した。


「姿勢が悪くなるといい将棋が指せない。お父さんがいつも言ってる」


猫背などの悪い姿勢は将棋の思考に悪影響を来たすと教えていた。


盤面を見つめる各々の対局者。大会係員が腕時計を見て合図を送る。


対局開始です。始めてください。


「よろしくお願い致します」


パチン


パチン


一斉対局の醍醐味。ピンと張った緊張感の中に凛とした駒音が響き渡る。

伊緒の対戦相手は落ち着き払う中学3年生である。振り駒の結果伊緒は後手になる。


端整な顔はいかにも賢いと思わせる風情。だが顔に似合わない細い声でしゃべっていた。


パチン


対局は進む。伊緒は敗着後の2局目。2連敗を喫すと予選敗退は確実となる。


「なんとか勝ちたい。せっかく名古屋で苦労をして勝ち抜き将棋会館まで新幹線でやって来たんだから。杉本先生に申し訳ない」


パチン


パチン


伊緒は心を決め最も得意とする振り飛車を使う。陣型は杉本から教わる美濃囲いにする。


守って守って死守する矢倉など消極的な将棋はやらなかった。


「攻めて攻めて。私は飛車道を決めてどんどん行きたいの。王将をしっかり守ってから行くなんて真っ平よ。攻められたらそれまでなの。キッパリ諦めて名古屋に帰ります」


伊緒は細い腕に飛車を持つ。


スゥ〜


幾度となく撃ち込む定位置四間に飛車を決める。


バチッ!


飛車は気持ちよく盤面に撃ち込まれた!


伊緒の戦闘開始である。飛車の走りは狼煙(のろし)の合図である。


五段は頷いた。女の子の駒組みを子細に把握し戦法を納得である。


「なるほど。この女の子は四間飛車で来るというのか。中学生にしては高度な戦法を使う。段位が不明なので実力がよくわからないが。よし望むところだ」


中学生は落ち着き払いゆっくり手を伸ばした。


パチン


銀将を歩兵の右前に出した。伊緒の得意な飛車が走るなら受けてやる。


「ごちゃごちゃと飛車が走るなら走れ。いつでも来い。受けの将棋なら得意なもんさ」


杉本は控え室モニターで対局観戦をする。平常心で伊緒は将棋に対面をしているか。


負けたら敗戦の一局。東海地区理事長としては心中穏やかならぬものがあった。

モニター隣に育成会の大島7段がいた。盤面を眺め伊緒の自陣を見てしまう。苦虫を潰した大島がそこにいた。普段は温厚な顔であるがなかった。

「この女の子だけど。伊緒ちゃんは四間飛車をどのくらい指してマスターしているんだ。相手は防御が万全だ。強いぜ」


チラッと杉本の顔を眺めた。大島は対局相手を熟知していた。


「杉本には悪いが。このお子さんは中学3年だが小学時代から全国大会に出場している。実力は折り紙つきでね。俺の方から奨励会を受験しなさいと勧めたんだ」


大島のいう"中学3年生"という意味はすでにプロ棋士となる適齢期は越えているという残念さが含まれる。

この五段は1部上場同族会社の社長の息子である。会社にしても父親にしても大切な跡継ぎ息子さんだった。


大島はにこりともせず中学生を見つめた。


「なんとな。このお子さんが小学大会を優勝したら翌日に父親から電話をもらってしまった」


子供は父親に将棋そのものを隠していたようだ。新聞に優勝者の名前が掲載されてばれたようである。


「父親が言うには今後一切うちの息子に奨励会やプロ将棋は勧めないでもらいたい。できたら連盟から将棋などの素質などないと息子に伝えてもらいたい。大きな声で怒鳴られちゃったよ」


父親はふだんテレビの経済番組によく登場をする著名人である。


だからこの五段は小学生時代から棋士の素質は充分らしい。育成会理事の大島に見込まれたくらいだから実力は間違いない。


「というと大島さん。この子は中学アマ5段ではなく奨励会3段あたりの実力ですか。ヒャア伊緒ちゃんには重荷だ。勝てば拾い物ではありませんか」


杉本は驚きをオーバーアクションした。道理で自陣の駒組みがしっかりしているのか。


モニター画面の中学生アマ5段は落ち着きを払い盤面を見つめる。


パチン


五段からみたら伊緒程度のアマチュアが指す手筋はすべてお見通しである。敵の戦法が理解できると余裕を持って将棋を指せる。


パチン


杉本から見たら奨励会3段とアマ2段。全く格の違いがありありである。杉本は顔色に焦りがありありである。


大島も画面モニターを眺めた。棋譜は進み中盤に差し掛かる。


「彼の実力が奨励会とかはなんとも言えない。ただ言えることは杉本の得意な四間飛車。愛弟子に伝授したそれはとっくに防御されてしまったということさ」


大島は敵陣営の駒組みを指摘した。いずこから飛車が走っても完全防備ではないか。


「師匠のお前が指したらどうかな。二枚落ちで互角くらいだぜ。あの銀将の指し回しを見てみろよ。見事の一言だ。芸術的なそれだぞ。アマチュアの中学生の手ではないな。守ってよし。攻めてよしの構えだ」


大島と杉本はモニター画面に釘づけになる。伊緒の次の一手。五段の攻め手には予断を許さぬ緊迫感がある。


中盤が過ぎ伊緒の果敢な攻め手がことごとく討ち取られている。


攻めは好きな女の子である。東海地区ではかわいい女の子が攻めて攻めてと意外な将棋を指し度肝を抜かれた。


あっちゃちゃ


伊緒が長考に入る。次の一手がなくなってしまった。伊緒の好きな攻撃の手が皆無になる。


「なんなのこの人は。私が攻めても攻めてもうまく受けちゃうわ。もう手がないじゃあないの。やだあ私負けてしまうわ。なんとかしなくちゃあ」


伊緒はろくろく考えもまとまらず。ポンと守りの駒を王将の頭に乗せた。


「やったな。お嬢様の腹芸将棋はおしまいか。これからは攻めまくる。一息に詰めろだ。僕の将棋は嵐のごとくだ」


パチン


伊緒の王将を睨みつけズバッと駒が歯向かっている。とどめには突き刺さるがごとき角行を指し回してきた。


攻められる伊緒はハンカチをギュギュと握りしめ汗だくとなる。


盤は伊緒の防御だけになる。元気よく走りたい飛車も悪戯っ子のように跳躍したい銀将もなりをひそめた。

守勢は続き劣勢に堕ちていく。攻めに駒を大量に使い守りが薄い。


伊緒は大ピンチである。


「あんっやだあ〜助けてちょうだい将棋の神様。負けちゃうわ」


伊緒劣勢の対局は秒読みに入る。


伊緒は顔を真っ赤にして盤面を見つめる。防戦ばかりに駒を取られ面白くもない。


思いどおりに駒が指せず焦りである。


10秒…9…8秒…


考えがまとまらない上に秒読みである。いくらでも窮地に陥る中学生。


万策は突きてしまい愚考しか浮かばない。


…8秒…5秒…


「あ〜ん杉本先生助けて〜。打つ手がなくなりました。攻撃されてしまう」


伊緒は大きな口を開けた。ハンカチで隠すもできない。


降参間際である。秒がなくなり考えもまとまらず。


目についた銀将を敵陣に打ち込む。


自棄となる!


パチン


苦し紛れに打ち込んだ銀将は意外や形にはまる。それば杉本がたまにやる"幻の銀将打ち"に似ていた。


銀を目の前に打ち込まれた中学生は唸った。首を一捻りせざるをえない。


「この銀将はなんだ。ひと駒だけの攻めでは意図が読めない」


さらに首をひねり長考の五段である。あらあらっ悩んでしまった。


モニターに向かい大島は呟いた。


「おい杉本よ。あの銀将の攻めはお前の得意なやつじゃあないか。えっと確かあの銀将はどの将棋だったかな」


うーんとだな。


杉本は押し黙る。忘れようにも忘れられない銀打ちである。


「谷川名人に初勝利したやつだ。窮地に陥り一発逆転を惹き起こした銀将だ」


大島は頭を抱え記憶の引き出しから少しずつ思い出した。杉本は不快に答えた。

「ええその通りですよ。あれは谷川名人が攻めに攻めた終盤戦。僕が苦し紛れに放った銀将です。伊緒ちゃんはそこまで参考かな」


この目の上のたん瘤・銀将打ち。王将を睨むため気持ちが悪い。さりとて駒損を覚悟で成敗をすることは徒労である。


形勢は逆転する。


パチン


中学生は銀将の真意が理解できない。真面目な性格が災いをして悩んでしまう。

「どんな意図が含まれた銀将なのか。僕には無駄な駒にしか見えない。こんなの意味ない駒だ」


誤手なんだ。女の子に深い読みなどあるわけない。


関係ないんだ。


無視しても構わない。シカトしておけ。


見つめるうちに気になって気になって。


5秒…3秒


秒読みは早く進む。互いに焦りが生じてくる。


わからない。さっぱりわからない。


顔は真っ赤である。どうしても読み切れない。完全に平常心を失った。わけのわからないまま銀将の横に駒を並べた。


パチン


「よしもらった。今度は私から攻めていくわ。王手王手の連続で詰めてやる」


覚悟じゃあ〜


伊緒はよしやるぞっと口唇をギュギュと噛みしめた。得意の将棋に整え勢いを戻す。


パチン王手!


パチン王手!


パチン王手!


モニターを見た杉本も大島もあんぐり口を開けた。形勢逆転を見てしまう。


「(後の受け手が)ありません」


伊緒はあっさりと逆転勝利を収めた。幻の銀将は生きていた。


「ふぅ〜厳しい将棋だわ。まさか勝てるとは思わなかったけど」


スカートの裾を気にして対局室を後にする。勝者伊緒は負けた相手を一度も見なかった。無用な同情は禁物である。


予選リーグは1-1のタイとなる。


「おい杉本見たか。勝ったぞあのお嬢様。逆転勝利だぜ。銀将が利いたなあ」


杉本は驚きの(まなこ)をパチクリした。中盤までの劣勢はなんであったのか。

まさか伊緒が勝つとは。


「あれだけの劣勢を。あの終盤でひっくり返すとは大したもんだ。こりゃあひょっとして決勝トーナメントに進出出来るかもしれない。いやあ驚きだ」


杉本の控えに伊緒がニコニコしながら入った。疲れますねと安堵の様子である。

「おめでとう伊緒ちゃん。大逆転勝利だったね」


控えの室内にパチパチと俄に拍手がわきあがる。


「杉本先生ありがとうございます。なんとなく勝つことができました」


あの局面で銀将をよく放ったとねぎらう。

「褒めていただきありがとうございます。あの銀将は微かに先生の御本にあったのを思い出しました」


ホオッ〜


大島は唸る。


「でも秒読みが気になってしまいました。ちんぷんかんぷんでわけわからなくて。指した後はどうなるのかとヒヤヒヤ。深く考えはしなかったですね。苦し紛れの一手でしたエヘヘッ」


伊緒は杉本を見ながら悪戯っぽく笑う。あの一手は杉本の放った幻の銀将の極致とは気がついてはいなかった。


疲れた伊緒は母親から頑張ったわねっと労いの言葉である。


すでに中学生だがお菓子をもらう。お子さま伊緒ちゃんである。


「お母さんはモニター(将棋)を見て伊緒ちゃんが負けちゃうと思ったら泣けちゃった。ハイッご褒美にチョコレートよ。ベネズエラのやつとベルギーね。杉本先生、大島先生もおひとついかがですか」


杉本はチラッとチョコレートを見る。甘いものや刺激ぶつは食べない主義である。丁重に辞退した。


「ありがとうお母さん。その言葉だけで充分です」


一方の…


甘いものも伊緒の母親も好きな大島。満面の笑みをたたえ両手を差し出す。


グイグイ


ニコニコして手を出す姿は幼稚園児か東山動物園のクマさん。


「あっこれはこれはお母さん。僕はチョコレートとお母さんが大好きです。出来たら両方いただきたいなあ」


母親の手を握りしめチョコレートをいただく。大島理事だけはいつも絶好調である。


伊緒の第3局。他の対局も早く終局をしてしまい早々と開始である。


泣いても笑っても予選突破は勝たなくてはいけない。杉本は胸算用を繰り返す。

「決勝進出は2-1なら間違いなし。1-2は安心できない。しかし対局相手は0-2と勝ち星がない。となると必ず1-2にしなくてはいけないと向かってくる」


2連敗の手負いの熊は確実に仕留めなければいけない。


「この将棋は焦った方が負けだ。伊緒ちゃんには平常心で盤に向かってもらえたらそれでいい」


杉本は頑張れと伊緒を鼓舞するアドバイスを繰り返す。


「わかりました先生。焦ったら負けですね。その点は承知しています。私の将棋を指しこなくちゃ」


伊緒は母親から新しいハンカチをもらい対局場に向かう。


同じく母親からもらったチョコレートの効果はいかに。


「甘さは頭の働きを活性化させるらしいのです。伊緒にも効果が現れますように。祈ってますわ」


伊緒を励ます母親の気持ちはチョコレート効果である。


その効果は真っ先に大島理事にあった。チョコレートの包みを幼稚園児のようにクシャクシャさせていた。

「チョコレートの効果はありますね。僕っなんか頭がクリアになって来ましたね。妙にはっきり物事が見えてくる」


母親の顔をじろじろ眺めた。


「おおっ気のせいか!お母さんが段々きれいな女性に見えてくる。なんてことなんだ。すごく美人でおしとやかな女性。ひょっとしたら女優さんですか。これはお母さんからいただいたものが微妙に作用したんだ」


母親の手をぐいぐいと握りしめてしまう。


「そうか。これがチョコレート効果なのか。抜群の効果がある。たまりませんからお母さん僕とお茶をしませんか。いかんいかん。頭の働きも抜群に良くなってしまう」

大島は母親の肩に手をかけようかと積極的になる。


母親は大島の手をスルッと避ける。

「それはそれは。様々に効果が出てよかったではありませんか」


スタスタと急ぎ足で控えを出て行ってしまった。君子危うきに近寄らずである。

「ハヘッ」


順調に口説けるとばかりの大島は目が点。逃がした魚はどこへやら。パチクリしてばつが悪かった。


横で見ていた杉本は苦虫(にがむし)を潰した。


伊緒の対局は気合いが入る。


「泣いても笑っても予選は3局目。これでおしまい」


盤面に駒をひとつひとつ並べていく。


「勝てば決勝トーナメント進出になる。負けてしまえば1-2で対局相手と並んでしまいます(敗退濃厚)そのまま名古屋に帰らなくてはいけないのかっ」


負けは回避したい。


係員が時計を眺める。始めてくださいの合図を出した。


パチン


先手の伊緒は目を瞑り得意な四間飛車戦法を指すつもりである。


パチン


指先の駒の感触はいつもと同じである。


パチン


心境としては負けたら杉本7段の本がいけない。杉本先生が間違っている。


パチン


将棋が進み10手目となる。そろそろ互いに戦法が読み取れてくる。


「えっ」


伊緒はギクッ!我が目を疑ってしまう。


「なにこの子。私と同じ四間飛車(戦法)をやってくる」


伊緒の対局相手の戦法。(公式対局のみ)


居飛車70%

中飛車20%

四間飛車0%


将棋教室ではたまに四間飛車と指すことはある。大概は大人でありアマ2段以上の熟練者であった。


「大人は指してはいたけど。いろいろな将棋を指すから気分転換にやりましょうが大半。中学で指すのは初めて」


控え室のモニターを杉本はしっかり見つめた。隣には失恋をした大島がいた。


「これは珍しい対局だ。まるでお前が二人いる」


中学生が指す。しかも重要な場面で指す。かなりの自信がなけばできない技である。


「駒組みは杉本と同じ。かなり研究している。お前の隠れ弟子だったのか。と冗談だが。杉本が二人はまんざら間違ってはいないぜ。両局番ともガッカリにらみ合いだ」


相手の中学生は関東地区の代表。大島は小学生時代から顔と名前は知っている。

「あの子のプロフィールを見たら出身は千葉県。父親の仕事の関係で日本中をグルグル回っているらしい」

父親は大手の損保会社勤務である。損保会社の将棋部の部長さんを務めアマの将棋棋士としてはかなり名が馳せていた。

アマの実業団将棋大会は常連さんだ。谷川名人のお兄さんが実業団で強いと言われているがその一世代前に名前があった方だな」


父親の名前を聞いて杉本も納得をする。杉本はその父親の棋譜は見たことはないがその強さは見伝(けんでん)をしていた。東大将棋部出身だったと思い出す。

「損保の部長さん。あの方の息子さんですか。確か父親は高校が愛知出身だったですかね。名古屋ではなくて東の方でしたか」


三河の豊橋市出身だった。

「そうだね。実業団でトーナメント勝ち進んで話題になったんだ。


何年前かな。出身は豊橋で"あの殿(松平健)"と同郷で同じ豊橋中学の先輩後半にあたるらしい。


だから損保の将棋部では殿さまと呼ばれているらしいぞ。となるとあの中学の息子は(わか)殿下となるぜ」


ハッハァ〜皆の者。


殿の御前である。控えろ〜控えろ〜()が高い。


大島はテレビ時代劇その台詞を真似した。


だが間違っている。


「大島さん大島さん。控えろ〜は『水戸黄門』ですよ。『暴れん坊将軍』の方に松平ですよ。まあ同じ徳川さんのこと。どうでもいいけど」


パチン


対局は中盤戦。お互い四間飛車が走りたくて走りたくてウズウズしている。


ガップリ(つの)を出して同じ盤面を形成していた。

「両方とも杉本の戦法を熟知だ。あの銀将の動きは杉本7段そのままだぜ。父親が毎晩指導しているなたぶん」


うん?


大島は実業団に引っ掛かる。


「おい杉本ちょっと聞くが伊緒の父親って」


伊緒の父親は実業団出身なのかと聞いた。


「あっ伊緒ちゃんのお父さんの棋歴ですか。わかりませんね。大島さんの好きな(伊緒の)お母さんに聞かないとわからないですよ」


大島はにっこりした。


「お母さん探してくるかな。大変重要な問題が生じてしまったからな」


大島は四間飛車などという特殊な戦法を子供に教える父親に興味を持った。


「子供の年齢から考えてひょっとして伊緒の父親と実業団将棋部と関係があるのではないか」


と長年の勘から睨む。


日本将棋連盟の育成会に東京近辺からお子さんがやってくる。


「育成会は定員というものがないから僕の目の届く範囲でいくらでも入会させてやりたい。だが誰でも彼でもいらっしゃいとはならなくて」

大島自身が入会希望のお子さんと指導対局をされることもちょくちょくある。


「強いお子さんはいくらでもいらっしゃる。強いからプロになりたいと希望をしてくるんだけどね」


対局し序盤から中盤あたりでだいたい子供の棋力はわかっていく。


「駒の捌き方に筋のよさが見られていくお子さんは入会させたいと思うね」


さらにどなたが子供の指導をしたかもだいたいわかるらしい。

「うーん将棋教室の師範(アマ4〜5段)が丁寧に教えたりしてくれますね。もうひとつは父親が将棋の指導。父親の指導はすぐにわかる。なぜならば」


指導のアマ棋士はあれもこれもまんべんなく教え込む。だから子供はオーソドックスな攻めの戦法を学び身につける。父親は将棋指導のプロではない。


「まあ悪く言えば父親の好きな戦法だけを教えてやる。苦手な手や指したことのない戦法は当然に子供には伝わらない。野球ならば投手出身は投球ばかり。打者出身ならば打撃ばかりを父親は教えていく。投げて打つまではいかない」


大島は育成会入会の指導対局でユニークな将棋を指す。


ワザと飛車をトンデモナイ振りに持っていく。


「攻撃の激しい飛車はちゃんと見ていないといけない」


角行を効き筋の異なる向きに指して子供の反応を見る。


「角行は飛車と同じ大駒と考えていたら火傷(やけど)をしてしまう」


育成会には優秀な豆棋士をどんどん入会させたい。

「さらには優秀な子供を取りこぼししてはならない使命さえある」


大島の慧眼ひとつで子供の将来が変わってしまう。


「父親が子供にする将棋指導は当たりハズレがある。教えて悪いとかいけないとかの問題以前なんだろうがな」


大島は将棋会館のロビーを探してみる。憧れの伊緒の母親はいないか。


「こちらに居なければ厄介だ」


ロビーには出場した豆棋士の父兄の方々がじっとして我が子の勝利を待っていた。伊緒の母親はグッとハンカチを握りしめ娘の勝利を待ちわびていた。


「やあお母さん探しましたよ」


大島が伊緒の母親に親しげに話す。父兄の方々が不思議な顔をした。なぜこちらの父兄だけプロ棋士と親しげなのか。


「大島先生」


大島が近づく。人前では妙なことはしないだろうか。

母親は娘の対局が心配でたまらなかった。


大島はロビーではまずいからと会館のラウンジに行く。

「お母さん少し時間をもらえますか」


大島は真剣に伊緒の父親棋暦を聞いた。そこにはオチャラケな風情はなかった。

父親は石川県出身。大学で名古屋に進学をしていた。

「石川県ですか。女流育成会の蛸島(女流)名人と同郷ですね」


本格的に将棋は大学から始めたらしい。


「私は主人と会社で知り合いました。その頃は会社の将棋部でかなり指していましたわ。でも強いかどうかはまったくわからないですけど」


年齢と出身大学。所属実業団。


大島は携帯サイトを検索してみた。


「あっありますね。大学時代は無名だが実業団時代には活躍されています」


父親は実業団ではかなり活躍が目立つ。東海地区では個人戦で年度によりベスト8あたりまで勝ち進んでいた。


「対局の相手は誰だったんだ。うーんなるほど。お母さんわかりました」


伊緒が今対局している中学生。なんとお互いの父親は実業団将棋で対局の過去が見つかる。

「二回対局してますね。1勝1敗の五分だ。あれっ年齢もあまり変わらないな」

大島は棋譜が見たいと思う。さらに大学将棋選手権を検索した。


「東大と名大ならひょっとしてヒットするかもしれない」


約30年前の対局が見つかる。大学将棋は日本将棋連盟が主催していた。


「しめた。大学選手権なら棋譜が会館に残るはずだ」

大島は記者室のパソコンに向かう。


「大学選手権なら」

記者室にゴソゴソと入りパソコンをクリッククリック。


「あったぁ」


すぐにダウンロードして大島の携帯に取り込む。回りにいた将棋記者はキョトンとしていた。


夢中で携帯画面をクリックし棋譜を読む。


「両者とも中飛車か。この時代には流行した戦法だろう。うーん序盤は手堅く指してはいるが後はどうもなっ」


大島はラウンジの椅子によっこらしょと腰掛けた。丁寧に駒の打ち込みを確かめたくなった。

「中盤あたりは定石ウンヌンではない。レベルは低い。アマの将棋という世界だ。あちゃあ名大そりゃあないぞ。明らかな誤手になるな」


クリック〜クリック〜


終盤まで一気に見る。勝者は東大になっていた。


伊緒は序盤の駒組みを定石どおり進めた。杉本の考案した四間飛車そのままを再現していく。


「直接教えたわけではないがまずまずの駒だな」


対戦相手も伊緒の手順を見ながら同じ駒を並べた。


「序盤戦は互角な戦いだ。駒のぶつかり合いがある中盤からは激しい争いになるさ。伊緒ちゃん耐えれるかな」


モニターを睨む杉本。嬉しいのか悲しいのか。両者とも杉本2世と言われるような四間飛車に仕上がる。


控え室に記者が入ってくる。四間飛車が指されていると知って早速第一人者杉本7段に意見を聞きたいとやってきた。


「杉本先生。こりゃあ見事な四間飛車だね。鮮やかというべきか。芸術の域に達した感じですね。ところで杉本先生が教えたんですか」


対局者のプロフィールを記者は眺めた。女の子は名古屋だから杉本が当然に(師範)だろうと想像をした。

「残念ながらですね。二人とも指導はしたことなくて。伊緒ちゃんは地区大会優勝してから少しですね。お役に立てず申し訳ない」


パチン


パチン


中盤に突入する。互いに長考があり時間は進む。係員が時計を確認した。


「持ち時間を使いきりました。これより秒読みに入ります。よろしくお願い致します」


杉本は膝を乗り出しモニターを眺めた。心中穏やかならぬところである。


「これからが難しい将棋なんだ。伊緒ちゃん焦ったらいけない」


伊緒はキリッと口唇を噛んだ。手に握るハンカチはギュッギュッとしめつけられる。


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


中盤の難しい局面は両者同じ条件である。攻める手筋と守る姿勢。


短い秒読みでいかに対処をするか。対局の醍醐味ハラハラの場面である。


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


杉本は気が気でならない。もっとしっかり伊緒を指導しておけばよかった。駒組みの妙を伝えておけば良かった。


「伊緒ちゃん。守るならば守る。攻めに転じるかなら攻めに徹しなくてはいけない」


杉本は腕組みをした。モニターに映る伊緒の局面に苛立ちを感じる。


「守る攻めると欲張りは失敗を招くんだ」


杉本はこの局面から代わりに指したい。難であればあるほどプロ棋士は腕が鳴る。


右手がぶるぶる震えてしまい拳を握る。


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


相手の中学生に焦りの色が見える。秒読みのプレッシャーが極致に到達していく。


「局面が局面だから迷いが生じたんだろう」


モニターを覗く記者も熱心に見てしまう。


「杉本先生。最高の将棋になりそうですね。拮抗している」


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


伊緒も顔いろが変わる。得意とする飛車が走れない。どうしても防御されて捌けない。


「銀将と飛車が全く攻め切れない。なぜなの」


秒読みに迷いが生じた。頭に妙手が浮かばない。


わかんない


わかんない


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


「難しいな。伊緒ちゃんは今攻め切れないと危ない。攻めないと相手の桂馬の捌きや銀将が活用されてしまう。うーん危ない」


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


伊緒の対局以外は終局を迎えていた。対局が終わった中学生たちはこぞってモニター室にやってくる。


杉本7段の解説が聞けるのではないかと期待をした。

「先生この手は正しいのでしょうか。僕なら飛車道をあきらめてしまいたいです。あれだけ厚く守るんだから突破はやめたいです。でも四間飛車は行くんですね」

杉本にあれこれ質問が飛ぶ。言われた杉本はモニターに集中したくてたまらなかった。


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


伊緒は攻撃の手がなくなった。得意の飛車が封印され身動きできない。


「あーんやだあ飛車道が邪魔されてしまったわ。私負けちゃう。強行突破しなくちゃあ(攻撃される)」


手持ちの矢は使い果たした。振り上げた剣は刃がボロボロになったという負け(いくさ)となりそうである。

「伊緒ちゃん悩むだろう。敗着(ミス)があったからな」


杉本7段は伊緒の攻撃筋を嘆く。


「かなり強引に駒を使い過ぎだ。飛車の位置が悪くなったから早めに直してやらないといけない」杉本は口唇を噛んだ。初歩的なミスであるらしい。


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン 


伊緒は攻撃される。


「正直この攻撃には伊緒ちゃんの駒組みは耐えられないような気がする」


杉本は独りブツブツ愚痴をこぼしてしまう。自分が駒を持てばうまく捌ける自信があるという口ぶり。それを傍らで記者はフムフムっと聞いていた。


「杉本先生が振り飛車駒を持てばアマ5段ぐらいは簡単に料理ですからなあ」


伊緒は飛車を使った攻撃は得意だ。天性のものが感じられる。ところが防御には難がある。


相手が巧妙に計算をして駒を進めた場合は未知数であった。


2戦0勝2敗の中学生は胸が踊る。盤面をじっと見つめた。


「よし勝てる。女の子は打つ手がなくなった。僕は誤手(ミス)をしない限り勝てる。お父さん見てくれ。僕は勝つよ」


伊緒の陣型を見ていく。攻め処を定める。突破する道はひとつかふたつ。


王将の頭と睨み付けた!


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン 


しっしまった。秒が早くて読み切れやしない。


「ちくしょう。秒読みが早くて」


考えがまとまらない。


冷静に指せ


落ち着け


落ち着け


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン 


杉本は中学生の攻めに疑問を感じる。王将の頭の攻めに疑問符である。


「なんだろう。攻め切れないと見たのかな。伊緒ちゃんの陣型が堅牢だと判断したのか」


モニターを見ている杉本7段には伊緒の詰み(敗け)が読み切れていた。


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン 


「ちっ頭が働かない。詰みはあるはず。この盤面は詰め将棋の問題そのままだ」


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン 


頭ではわかったつもりである。アマチュア五段はこの程度の将棋は読み切れて当然。


しかし指が狂いだした。指す手筋が思ったように駒を運び出せない。


「あれっどうしちゃったのかしら」


対局する伊緒は守りが楽になった。王手を一手空けてくれた感覚である。


10秒…5秒‥4‥3‥


杉本は終盤に伊緒の敗けを覚悟していた。攻め駒がない伊緒はじわじわ攻められ敗着と思った。

攻め手は足踏みをしていく。秒読みがストレスとなり思う手筋が見いだせない。

「挽回してきたなあ。相手は自滅した」


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン 


攻め手を緩めたら伊緒お得意の『飛車戦法』が活きてきた。


「飛車が捌ける。銀将を取り換えると勝ちが見える。いやっ目をつむって強引に攻めてしまうわ」


10秒…5秒‥4‥3‥


パチン


伊緒の王将の頭に銀将が燦然と輝いている。守りは磐石で攻略には時間が必要に思われた。


10秒…5秒‥4‥3‥


中学生は頭を抱えた。攻め駒がなくなる。にっちもさっちも対処出来なくなった。


「(打つ手が)ありません」

顔を真っ赤にして投了をしてしまった。3敗を喫した瞬間である。


伊緒は予選2-1で通過を果たした。


対局会場とモニター控え室。拍手が沸き上がる。

「杉本先生おめでとうございます。伊緒ちゃん決勝トーナメントでございますね」


杉本は誰かれとなく祝福をされた。愛弟子ではないんですけどね。杉本は照れながらにっこりとした。


勝ち上がりの伊緒は決勝トーナメントの参加者として大会本部にサインする。


「全国中学生ベスト8に名乗りあげたわけだわ。へぇ私は日本の中学生でフゥー疲れたあ」


熱戦を制したばかりの女の子。髪の毛をクシャクシャにしたまま雑誌記者からのインタビューを受けてしまう。

「イヤーん御化粧ぐらい直したいなあ」


控え室にいた杉本も笑顔で出迎える。ぞくぞくと伊緒のベスト8入りの祝辞が届く。杉本は師匠として対応に追われた。


「杉本先生おめでとうございます。確か東海地区(名古屋)からの決勝トーナメントは初ではありませんか」


記者に言われてハタッと気がつく。杉本はそういえばそうだったかな。


「初でしたっけ。そうでしたかっ。そりゃあ偉業ですね」


記憶にないのは杉本が中学将棋にまったく興味がないことの現れではあった。


記者が言うには名古屋からの中学生の決勝進出どころか大会進出さえなかった。しかも女の子。


初進出に初女流。初物ばかりである。記者はデータを収集しながら杉本に伝えた。


「そうなりますか。気が付かなかったなあ。そりゃあ嬉しいですね」 


翌日開催の決勝トーナメント。伊緒たちは疲れて将棋会館を出る。


「ああっなんと長い一日だったことか。疲れたぁ〜早くお風呂に入りたいなあ」

千駄ヶ谷近くのホテルに投宿をする。杉本が名古屋から上京の常宿だった。


個人経営のホテル女将(おかみ)が杉本や伊緒を出迎えてくれた。


「これはこれは杉本先生。よくおいでくださいました。お疲れさまでございます」


長年の付き合いの女将さんである。杉本と昵懇は態度でわかった。


「あらまっ。こちらは可愛いらしいお弟子さんでございますわね。伊緒さまでございますわね。先程記者の方がいらっしゃいまして。丁寧に教えてくれましたの」


女将と杉本。


奨励会時代(中学生)からの馴染みである。杉本の将棋が強くなっていくその姿を見守る女将である。


伊緒と母親は部屋に案内されて(くつろ)ぐ。丸一日緊張してばかり。やっと楽になれた。


「御母様も大変でございますわ。明日からいよいよ大詰め決勝トーナメントでございます」


女将は将棋に精通していた。泊まり客の大半が囲碁や将棋関係者である。嫌でも詳しくなる環境である。


「私自身は囲碁も将棋もたしなみません。ですが弟と主人が囲碁も将棋も熱心でございます」


女将の弟はこの環境から将棋に馴染み奨励会で頑張った。しかしプロにはなれずじまいである。


「弟は杉本先生と同級生で同期でしたの」


結婚したご主人の実家がたまたま将棋会館近くのこの旅館/ホテルである。


利便性から棋士(将棋・囲碁)の方がよく泊まることになっていた。


ご主人はアマチュア有段者(囲碁/将棋)。囲碁も将棋もそれなりに強い。旅館ホテルの組合主催囲碁・将棋大会では優勝の常連であった。


伊緒の通された部屋には数々の棋士のサインや色紙が飾られていた。


「歴代の囲碁/将棋の名人さんやタイトル保持者の方はたいてい投宿をされています。岡崎の石田和雄8段もございますわ」


伊緒の通された和風の部屋。座った後ろには『大山名人』の毛筆サイン色紙が飾られていた。


見た瞬間に現代っ子の伊緒でも一瞬緊張感が走った。大山名人は雲の上の遥かに上の存在である。


女将は色紙の説明をしてくれる。伊緒の知らない棋士もちらほらあった。


「杉本先生のサインもございます。杉本先生は当旅館とは付き合いが長いですからね」


女将はこの旅館に嫁に来てから杉本に目をかけてくれていた。ハンサムな杉本のサイン色紙は年季が入っていた。


「中学生の奨励会時代からですからね。先生が昇段をされるたびにサインを御願いしています」


奨励会は中学生時代の初段からあった。


サイン色紙の文字には早く強い棋士になりたいと願望が書き綴られている。


4段のプロ棋士になってから7段の現在まできれいに並んだ。


「まあ僕なんか大した棋士でもないけどね」


杉本は照れくさかった。女将はそんな杉本の顔をちらほら見る。


「先生。後のサインはどうなりますかしら。7段まで来たら8段。さらにはタイトルですわ」


杉本はチラッと女将を見た。


えっ!


杉本としては身の上話はそれくらいにして欲しかった。


女将から『8段に昇段』と『7大タイトル挑戦』をよく聞かされた。


「杉本先生頑張ってください。この千駄ヶ谷の女将が後押しですわ」


30台後半の杉本7段だが女将の前では母親と息子である。


全館が将棋の旅館。伊緒は好きな将棋にドップリと浸かり体を休めることになる。


「すごい旅館だね。泊まりましたら強い棋士にならないといけないみたい。大変な夢を見てしまう錯覚をしてしまうわ」


伊緒は母親と同じ布団で(つぶや)いた。


だが疲れていたため夢は見なかった。


全国中学生将棋大会(2日目)決勝トーナメント開催。全国から勝ち抜いた参加者は8人。


「中学生の棋士は何万といらっしゃるが」

杉本は会館の前で将棋記者からインタビューを受けていた。

「女の子が勝ち残りはあまり記憶にないくらいです」

インタビューの矛先は唯一の女の子・伊緒に向いた。

「どうですか伊緒ちゃん。一晩眠ってよい手が(ひらめ)きましたか。決勝トーナメントは杉本先生直伝の『飛車戦法』を使うのかな。ぜひ得意の飛車戦法で頑張ってもらいたい」


杉本の得意とする四間飛車は伊緒のおかげで市民権を得たようである。将棋記者にも少しずつ理解者が増えていた。


「ハイッ杉本先生を尊敬しますから。(飛車戦法は)期待に応えられるなら。私は私の将棋を指してみたいです。四間飛車になるかどうかはちょっと言いにくいと思います」


杉本7段と伊緒はロビーで記者たちに囲まれていた。

その横を蛸島女流元名人(育成会理事)が通る。将棋記者はそんな理事を見逃しはしない。女流のことは女流の専門に聞きたい。


「あっ蛸島さん」


呼び止められて蛸島もインタビューを受けるはめになる。


蛸島自身女の子が決勝トーナメントに残るとは思っていなかった。


だから気になって伊緒の様子を見にやってきたのである。


「ちょっと先生にお話を聞きたいです。(伊緒ちゃんの女流棋士の可能性)を聞かせてください」


美形の蛸島が記者たちに取り囲まれインタビューが始まる。


「女の子が全国中学生決勝トーナメント進出は二人目の快挙です」


女流棋士専門の記者が質問を一手に引き受ける。


「女流棋士育成の蛸島理事さんのご意見を聞かせてもらえませんか」


蛸島はゆっくりと私見ではあるがと前置きをし話始めた。女流が脚光を浴びる。若年の世代が将棋に興味を持つことは嬉しいところである。


記者からのインタビューが終われば伊緒と肩を並べる写真もバシャっと撮られた。


蛸島は幸せな気分である。年配の記者から一言言われた。


「彰ちゃんもかわいい女学生だったもんなあ」


セーラー服の伊緒に負けない元女学生蛸島彰子さん。

「伊緒ちゃんに頑張ってもらいたいわ。女流棋士の理事としてはガンガン男の子をやっつけていただきたいわ」


蛸島は言葉を選んでインタビューを受ける。記者に伊緒を入会させる用意はあるかと聞かれる。


「伊緒さんは名古屋ですからね。(育成会に入会なら)学校との兼ね合いもあります。(女流棋士)の道を選んでいただけたら私は喜びです」


インタビューは伊緒の育成会入りから女流棋士と続く。棋士になる既定路線が引かれているという前提である。


インタビューを受ける伊緒としては複雑な気持ちである。


「将棋はお父さんと弟がやっていただけ。私も興味をちょっと持っただけなの。プロになるだなんて」


その道を選ぶにはあまりにもハードルが高過ぎてピンッと来ない。


「だから私より弟に頑張ってもらいたいなあ。育成会の大島理事さんに目をかけてもらえたら」


弟思いの姉伊緒である。


「姉弟ともプロだったら。私も女流棋士(プロ)になれそうだけど。ダメダメ将棋は難しいの。将棋を職業なんて自信ないわ」


記者は蛸島理事に伊緒の棋力は?と聞く。


「蛸島先生。女流ならば(伊緒は)初段か2段はあるでしょう。充分にやっていけますよ」


長い女流関係のインタビュー。伊緒はさすがに辟易(へきえき)してしまう。


インタビューから開放され対局会場に伊緒が入る。杉本が待っていた。


「伊緒ちゃんに今後の話は早いよ。記者さんはとにかく先走りしていくから厄介なんだけどね」


将棋以外の雑念を振り払いいざ決勝トーナメント(8人)へと集中する。


杉本は伊緒を将棋に集中させようとする。


このメンタル面の強化はアマチュア棋士と異なる。年中職業将棋を指すプロ棋士の面目躍如(めんぼくやくじょ)である。


伊緒が緊張する言葉は決してかけてはいかない。特に『頑張って』だとかは口が裂けても。


「杉本先生。私は嬉しいわ。決勝進出なんて夢みたいな気分です。名古屋(予選)から対局をしてここまで勝ち上がるなんて。ラッキーです」


喜んで決勝トーナメントは戦いたいと伊緒は言った。

「そうか。ラッキーか。言われてみたら決勝トーナメント進出は夢のようなことかもしれない」


杉本自身も女の子がここまで勝ちあがることは想像もしていなかった。


「僕が毎年東海地区(名古屋)から連れてくる子供は全国大会は予選敗退ばかりだった。引率の僕としては鼻高々だ」


だから決勝トーナメントは負けても構わない。もうお腹いっぱいと言いたいところである。


「さあっ伊緒ちゃん。対局相手の対策を復習しておこうか」


杉本としては決勝に進んだ選手全員の棋譜をできるかぎり集めた。師匠の杉本がまず頭に叩き込んでいた。

「棋譜の収集は得意でね。インターネットにいかに長く触っているかが鍵になったりしてさ」


杉本は棋譜収集マニア的な面がある。他人の将棋を並べては研究対象にする。

「他人の敗着の原因を知ることは自分の血や肉になる」


杉本が見た伊緒の対局相手たち。伊緒の棋力で戦法で勝てるかどうかをしっかり検討する。


己を知り敵を知る。百戦危うからずや。―孫子の兵法

「僕らが対策を練るように相手も伊緒ちゃんの棋譜で対策を練るはず」


勝負は時の運。だがやり方によっては充分に運を味方につけることができる。


「よく聞いて欲しい。実はね。伊緒=四間飛車戦法と決めつけて研究をされてしまうと危ない。わかっていて攻められたらまずい。僕の本(攻略戦法)などを熱心に読まれていたら特に危ないんだ」


杉本の得意戦法(四間飛車)は杉本自身の攻略本を勉強すれば簡単に破られてしまう可能性が高いと言う。


繊細な将棋を心情とする杉本の解説はかなりのところまで詳しくある。


四間飛車の攻防を熱を入れて記していた。杉本にすれば痛し痒しである。


「時間があれば伊緒ちゃんに手取り足取りと攻略や防御の手筋を教えてやりたいんだが」


伊緒が杉本の直伝の弟子ならばそれも可能だろう。悲しいかな如何せん伊緒はアマチュアである。杉本は師匠でなく単なる将棋の先生である。


「時間がない」


今の実力で盤面に向かわなければならないのである。

データ重視の杉本は決勝トーナメントの8人を分析してみる。まずは戦法別にみた。


居飛車5

振飛車3(伊緒含む)


「この飛車戦法だけでみたら振り飛車の2人が伊緒に当たらなければいいと思う。苦手はあってはならぬものだが致し方ない。


すべてはくじ(ドロー)しだいとなる。ああっ天を仰いで祈りたくなる」


係員が出演者の名を呼ぶ。準決勝トーナメント振り分けの抽選である。


伊緒は壇上に呼ばれる前に杉本から目配せをもらった。


伊緒ちゃんによいくじを!

決勝トーナメントの抽選(くじ引き)が始まる。挑戦者は各々くじ箱に手を入れていく。様々に思いを巡らせて拳をギュっと握りしめた。


杉本は心配しながら祈る。

「(対戦相手は)居飛車に当たれ。振り飛車(2人)は勘弁して」


野球なら直球勝負の居飛車が伊緒の場合向いている。

「かなりの練習も積んでいる。もし将棋の神様がいたらお願い致します。運に左右されてはいけないが頼みたい」


くじを引く伊緒も祈った。

苦手な駒組み戦法(振り飛車)を2人も倒す自信などありはしない。


8人の挑戦者はくじを引き終える。他の挑戦者も考えは同じであり組み合わせに敏感だ。


得意と苦手の棋風。苦手とは最後の決勝まで回避したい。


いやできるのならばお手合わせをしたくないところである。


伊緒が引いた抽選の結果はどうなったか。くじの球を係員に手渡した伊緒。


その場で組み合わせはわかった。


えっ!


にっこり笑ってしまった。

「杉本先生よかったわ。私ラッキーよ」


組み合わせは決まる。伊緒には最高な組み合わせである。


苦手な振り飛車2人は直接対決。苦労なしで苦手のひとりは消えてくれる。


杉本もくじ運に力が入る。

「(振り飛車には)勝てないとは言い切れない。もしものことがある」


杉本はホッとする。伊緒が優勝をするためには幸運(うん)も味方にしておきたい。


準々決勝で伊緒と当たる居飛車の中学生。振り飛車が苦手はこちらも同じであった。本人は振り飛車は振り飛車だが女の子に当たるとはラッキーだなっと嬉しかったようだ。


4対局は同時開始である。伊緒は髪の毛をギュっと右横にしばり今からやるぞ!と自己主張をしてみる。


「私だって気合いが入ったぞ。ここまで来たからには。この対局に勝ち上がりましたら」


全国大会の冠が頭を駆け巡る。名古屋の将棋の強い女の子がいよいよである。


盤面の対局相手も同様である。半袖シャツの片衿をグイッとめくりあげ戦闘状態である。


会場はピンっと緊張感が走る。


パチッ


パチッ


8人の中学生棋士の熱戦が繰り広げられていく。


杉本は壇上にいる伊緒が心配でたまらない。東海地区代表からここまで勝ちあがるのは初である。そこに居るだけでも恩の字である。それを杉本は満足をせず優勝を狙わせたいと欲を出す。自分自身予選敗退の浮き目を見たことは頭の中からスポンっと抜けてしまう。

「伊緒ちゃんがこの居飛車くんに勝てば先は見える。女の子が優勝するなんて初であり快挙だ。いや東海地区からも初だぞ。


俺が理事就任してさっそくに優勝するなんて鼻高々だぞ。このまま頑張って優勝を勝ち取りたい」


杉本は壇上の伊緒の駒組みを見る。プロ7段から見ると互いに中学生の駒組みはガチッとせずアヤフヤらしい。


「序盤戦を見た限りは互角だな。駒の流れとしては伊緒ちゃんが少し自由に動き始めたかなと言うぐらい。


振り出した飛車が得意な形勢に持っていけたら。この勝負はいただきだ。しかしそれは相手の防御しだいとなる」


伊緒は杉本の教本の通りに駒を動かした。伊緒はこのクラスまで勝ちあがると自分が自分ではないようである。実力以上を発揮していくようである。


伊緒の指す将棋に感情が移り杉本は自分が対局をしている錯覚に陥ってしまう。

「次の手は銀将を左前にいけ。よしよしそうだ。歩兵を衝き捨てて香車を狙う。よしよし伊緒は冷静だな。そのまましっかり指すんだ。相手が金将を守り駒にしてくれたらチャンス到来となるな」


杉本の思う通りに駒は組みあがる。内心はドキドキも伊緒が優勢になりつつある。杉本はニコニコしてくる。

「(次の相手の一手は)伊緒の攻撃的な飛車を指すべきだ。果敢に右や左に回して王将の囲いを破っていくはずだ」

杉本はこの中盤からそのまま選手交代をしたいと思った。伊緒に代わり杉本の得意な指し回しをしたい衝動に駆られた。


指し手は伊緒である。駒の動きはプロ棋士杉本7段が持つと同じ攻めをすると思われた。


が違った手が入る。師匠としては歯痒さを感じる。


うーん


自分が対局したくてたまらない。


「指導の時間がもっとあればよかった。四間飛車は攻めは簡単にマスターだが攻めの間違いがあると厄介なんだ」


杉本は手元の扇子をパチンとやり悔いる。師匠杉本7段としては伊緒の対局を見て座っているだけで汗だくになった。


真っ赤な顔で座る杉本の後ろ。声がかけられる。


「杉本先生。伊緒ちゃんはどうですか。準決勝まで勝ち上がりなんて素晴らしいですわ。でもねっこのあたりまで来ますとねぇ」


伊緒と一緒に闘う杉本に一言である。誰だいこの忙しい最中に。


杉本は誰かなっと振り向いた。


涼しげな瞳の蛸島女流棋士がいた。女の子が勝ちあがることは稀れ。どうしても気になってしまう。


「ええっ僕もここまで活躍をしてくれると嬉しいです」


杉本はまずは杓子通りに答える。スカウトしたい蛸島育成理事はにっこりである。


杉本は優勝を目指しますとは言えない。準決勝ぐらいは簡単に勝ちますも言わない。


「蛸島先生。おかげさまで女の子として伊緒は大健闘でございます」

そうですかと答えた蛸島女流育成理事。


モニターにある盤面をキリッと見る。険しい顔つきに変わる。盤面は拮抗をした中盤である。


女流名人の時代に見せた勝負師のそれを見せ杉本は驚きである。普段温厚な顔しか見せないからだ。


「杉本さんちょっとちょっと。伊緒さんは大丈夫ですか。いえ将棋ではなくてよ」


モニターに映る伊緒を指差した。


「彼女の顔いろを見てごらんなさい。中学生のお嬢さんがあのような真っ赤な顔つき。おかしくはないかしら」


杉本は改めて伊緒の紅潮を見る。男の杉本はなんだろうか。


勝負師として真剣な眼差しの棋士にしか見えない。あんな顔つきはいつものことである。


蛸島は仕方ないなあっ。だから男はダメとため息をつく。


「あのね杉本さん。女の子は長い時間の対局はダメなのよ。この一手で形勢が逆転してしまう極度な緊張な対局は無理があるの。そりゃあ棋士からみたらわからないかも。


充分な休憩を挟みながら準決勝まで勝ち上がりと言いたいでしょうけど。


今日の準決勝までどれだけあの細い体にストレスを溜め込んでしまったと思っているの。


女の子の紅潮したホッペは危険信号の現れですよ。倒れないとよいけど」


暗に男の子とは体力やスタミナが違う。伊緒は体調を崩しているのではないかと危惧し心配したのである。

杉本は腕組みをしてしまう。女の子のスタミナまでは計算してなかった。


まさか女の子であることが指し手以外の駒損になるのか。


本局で女流棋士と対局をすることもある杉本はハタッと気がつく。


「女流は長時間の思考に不向きだとか言われていたな。うーん弱ってしまうぞ。伊緒ちゃんはその前例に漏れずとなるのか」


師匠杉本と女流育成理事蛸島の心配を他所に伊緒はパチンと勢いよく飛車を回した。


会場を埋めた父兄と将棋ファン。伊緒の右手が飛車駒から離れる。


ウォ〜とざわめいた。会場にいる有段の者をしても大胆な指し手が放たれたと感嘆となる。


会場の雰囲気は一気に伊緒の勝ちムードに傾く。


「フゥ〜うまく飛車が捌けた。さあ私は私の形の陣型を作っていける」


紅潮した顔はやかんのように熱気を帯びてくる。


「この勝負はいただき。負けないモン!私は負けたくないモン」


打ち込んだ飛車から目を反らした。考えに考えた飛車の走りである。会心な一手だと満足する。


ふぅ〜と気が遠くなりそうである。


ふらふらしながら真っ正面を伊緒は眺めた。


うん?


目の前がヒラヒラと小さな星が見えた。瞬きの合間にちらほら星くずが見える。

心なしか遠近の焦点が合わない。体がふわっとし座布団に座っているのか(夢の中で)宇宙遊泳をしているのか。


盛んにふわふらと泳ぎまわる錯覚である。意識は朦朧まもなく飛びそう。


はっ!


目をパチっと見開いて頭をグイグイっと振る。気を失う一瞬ではないかと自問する。


「ヤダっいけない。私貧血状態だ。ヤダなあ座っていられなくなるのかな」


紅潮した頬から血の気が失せ青くなった。中学の体育の授業では女の子がよく陥る貧血である。


蛸島はそんな伊緒の変化を見逃さない。


あっいけない!


蛸島は杉本の肩を揺すった。


「お嬢さんは限界よ。ほらほら対局は中止させてちょうだい。対局は中止させて。あなたがタオルを投げてくれないと」


伊緒がふらふらしてくる


会場に悲鳴とどよめきが聞かれた。伊緒はコテンっと倒れた。


「すぐに医務室に運ばないといけない。伊緒さんのお母さんを呼んでちょうだい。控えにいたわ。早くして。医務の先生に連絡してちょうだい。


あっ動かさないで。貧血だと思うけど素人判断だからもしものことがあるわ。そっとしておいてちょうだい。医務の先生に従いましょう」


係員は慌ただしく伊緒の看病に努める。きみ大丈夫ですかっと声を掛けると返事だけはあった。


医務室からナースが駆けつける。


「直に医務室へ運びます。極度の緊張感から体調に変化でしょうね」


ナースの指示に従い蛸島はてきぱきと係員と共に伊緒を運び出す。


さすが女流名人である。無駄な駒使いはしない。男の杉本も後ろをついていく。手伝いたいが何をしたらよいかわからない。


伊緒は意識朦朧。抱き抱えられたら気を失った。そのまま医務室へ運ばれた。


ナースは気付け薬を嗅がせ気をつけさせる。極度の緊張感からくるストレスではないかと思われた。


医務室に杉本の顔が見える。伊緒は薄目を開けた。


「先生っ先生。私はどうなるんですか」


か細い声は消えそうである。杉本に問い掛ける伊緒は体力もなにも将棋が心配である。


得意の飛車回しがピッタリと決まった瞬間である。


攻めていく駒が盤面に並ぶ。このまま指し続けるなら勝利に導く自信がある。


体調の不良さが悔しさに変わる伊緒。女の子ではあるが勝負師だった。


「心配しなくても大丈夫。不慮のことだから対局を中断してもらう。負けにはならないよ」


杉本はプロの対局を想定して答えた。


だが医務室で伊緒はなかなか回復しない。ナースは近くの個人医院に往診しもらう。


若い内科医が到着すると会館に詰めるナースはこと細かに伊緒の病状を説明する。


「うーん対局の最中に意識朦朧ですか。このお嬢さんは中学生ですね。極度な緊張感からストレスを併発したようですね。そちらにいらっしゃるのはお母さんですか。2〜3お聞きしたいことがあります。主だった既往症をお教え願います」


伊緒は医務室に担ぎ込まれが他は終局を迎える。


伊緒以外のベスト4(3人)が決まる。大会役員は会議を開き中挫した対局をどうするかと話し合う。女の子の病状では少し横になってすぐ回復することはないと思われた。


役員らは女流棋士の蛸島に意見を聞いた。


「弱りましたね。女の子にはホトホトです」


この女の子だけ特別扱いに蛸島もカチンっとくる。普段より男性棋士の後ろをちょこちょこついて回るイメージの女流棋士。


理事としては女流の地位向上に努めている。プロとしての棋力は対等に及ばないもののせめて子供ら女の子にはハンディを味わせたくないと願っていた。


「女の子だから。それが理由でダメですか」


医務室に駆けつけた医師は伊緒の診断を下す。


「極度のストレスから来る貧血ですね。こちらの女の子は将棋対局で長い時間緊張することは体力が持たないことになります。


まだ対局はやるんでしょか。途中ですか。弱ってしまうなあ。点滴を打ちながら再度将棋をされても回復はわかりませんよ。いやこのまま安静にしていてもらいたいのが医者としての本音です」


ドクターストップがかかり伊緒は敗着が決まる。


「杉本先生。私まだ指せます。飛車が回り込めたから後少し指せば勝てます。私は将棋を指せますから」


点滴針をつけたままでも対局場に戻りたいと言う。


杉本も準決勝まで勝ち上がったのだから将棋以外で負けは認めたくないと思う。

「伊緒ちゃん。それはだね」


伊緒の対局中盤の棋譜を杉本は思い浮かべた。飛車が見事に回り込み王手必至の展開にまで至っている。


この展開で杉本の棋力なら即詰めで勝ちを収めるであろうか。二〜三手が必要だが詰めろはいくのではないか。


「だが対局は僕ではなくて伊緒なんだ。詰め将棋の段階は伊緒が間違いをなく詰められるかは些か疑問に思う。悔しいけれど敗けを認めざるを得ない」


杉本は医務室にやってきた係員にリタイアを宣告した。


負けが宣言をされた。伊緒は負けたのである。


ベッドで伊緒は叫びたくなる。


イヤッ先生酷い!


私は負けなんか認めていない。


点滴が終われば対局できるわ。意識がしっかりさせすれば問題はないから。


ひどいひどい。


先生ひどい。


伊緒に付き添う母親もどうしたものか思案してしまう。すべては杉本に任せているのだ。従うしか手はなかった。


「伊緒ちゃんよく聞いて欲しい。この対局は準決勝なんだ。後2局残るんだよ」

対局過多は体力を消耗するだけである。


「それに決勝戦までいけば今以上のストレスだと言うこと。優勝のストレスがきみの体力を恐ろしく消耗する。僕らプロ棋士でさえ対局はとんでもないエネルギーの消耗戦なんだ。お医者さんもダメだと言っているんだ」


女の子には限界を越えた対局になってしまったようだ。杉本としては男の子ならば点滴打ちながらでも振り飛車を指せと命じたかった。

伊緒は願う。負けは認めない。


お願い致します。


私もう大丈夫です。


対局室に戻って将棋をしたいです。


あの陣型からなら私は勝てますから。


係員は杉本から敗着(リタイア)のサインをもらう。どうも女の子と揉めたかなっと心配してその場にいた。


「杉本先生。リタイアでよろしいですね。伊緒さんは敗着になります。取り消しはできません」


伊緒は小さな声で抵抗をする。


リタイアはしません。


私行きます。


私は将棋が指せます。


(私を負けにする)杉本先生なんか大嫌い!


ベッドの中でもぞもぞしてしまう。からだを動かしたら頭が重い。


這い出そうとすると母親は手を貸して伊緒を支えた。

「伊緒ちゃん大丈夫。お医者さまは寝ていないといけないと仰るの。お母さんは将棋の勝ち負けなんてどうでもいいの。あなたの体のことが心配なの。だからもういいの。


名古屋の予選から頑張ってきたんですもの。お母さんは満足です。あなたは頑張ったのよ。


こうして全国大会の準決勝まで辿りつけたんですから将棋は満点です」


母親はいさめた。伊緒は最高の成績を収めたから満足しなさい。もうこれで充分ですと説得である。


ベッドで負けを認めたくない勝負師。思うようにならず不貞腐れた伊緒である。

無理もない。後に数手指し進めば勝ち将棋である。師範の杉本から教わる詰めの手筋を指しての終局が待つだけである。

いやっ!


(負けてないもん)


女子高生の目にキラリ。布団を顔に被せひとしきり涙が溢れる。


目蓋を閉じた伊緒。その脳裏には伊緒が自信満々に打ち込んだ飛車がちらつく。

飛車を指し回した後に杉本に必ずや褒めてもらえる妙手が思い描がける。


伊緒は泣けてしまう。勝ち負け以前に盤面に座れない悔しさである。


ベッドから杉本は離れることにする。伊緒の悔しい気持ちは杉本とて同じである。


「将棋という世界は不思議なもの。勝てないと思ったらすっぱっと勝てなくなる。


だが勝てる!勝てます!と信じて指すと光明が差してくる。


苦しい中盤を乗り切り勝利への道が見えてくる。後は間違いなく勝ちへの終局に駒を運ぶだけなのだ」


伊緒の将棋は勝ち将棋だと思う。杉本が冷静に判断すれば終局に向かうであろう。


飛車が金将を走り破り馬が追いかけて詰みがみえておしまいであろう。


だが当の伊緒は対局の席に座ることができない。


「勝負の前に体調が悪くては話にならない。心・技・体のどれが欠けても勝ちを得ることはできない」


医務室を出た杉本は記者に取り囲まれた。


「どんな具合ですか女の子。残念ですね。詰みが見えたような終盤でしたから」

杉本7段は30台半ばの棋士である。将棋教室やサロンに集まる子供らの将棋を指導し素質があると思ったら奨励会に送った。


プロ棋士になれる可能性のある子供は内弟子とし面倒をみてもいる。


記者にあれこれ伊緒を聞かれた杉本。女の子ではあれど勝負師の顔を持つとわかる。


「伊緒も弟子にするか。あんな悔しい将棋を経験したんだ。次は女流の棋士としてプロの世界で活躍してもらうか」


杉本は心が躍って躍ってしかたなかった。


「女流棋士か。女の子を指導するなんて少しも思ったことなかったなあ」


杉本は携帯を取り出す。ナンバー履歴を探す。


伊緒はひとしきり泣くと元気を取り戻す。母親に頭を優しく撫でられたら子供の気持ちとなった。


心配をする母親の顔をみたら気持ちが落ち着いてくる。


「伊緒ちゃん。荷物をまとめて名古屋に帰りましょうね。お父さんが心配しているわ」


母親は簡単に荷物をまとめ旅館に戻りたい。


とんとん


医務室に来客を迎えた。


「伊緒さん。お体はいかがですか。もう大丈夫かしら。今日に名古屋にお帰りになられますのかしら」


来客は蛸島女流理事である。伊緒の顔色を確かめて失礼しますと椅子に座る。


手短かに来意を説明する。

えっ!


伊緒はプロの将棋と聞いて驚いてしまう。


「私がそんなプロ棋士(育成会)になるなんて。まだまだ下手な将棋です。そんな強い人ばかりの世界に行くなんて。


なんとなく住む世界が違う気持ちです。私は何処にでもいる普通の女の子ですからお門違いですわ」


伊緒も母親も育成会は固持をしたい。いきなりプロの世界へと言われても戸惑うばかりである。


蛸島は後に杉本先生と相談をして欲しいと頼んだ。


「育成会に足を踏み入れていただきたいわ。私が理事でいる間に来て欲しいわ」

杉本は医務室の外で一部始終を聞いてしまう。


「わかったわかった。女流理事さん。僕からも育成会は推薦をしましょう」


杉本は大きく頷いた。


リーンリーン


杉本の携帯が鳴った。


翌朝一番の新幹線で名古屋に伊緒と母親は戻る。


「名古屋に帰ったらお医者さんに精密検査をしてもらわなくちゃね。夏休みは杉本将棋ばかりで潰れてしまっもの。残りの数日は下呂温泉にでも行きたいわ」


名古屋駅に到着をする。名古屋の人混みが現れるとなぜかホッとしてくる。


新幹線口を出てみると父親が出迎えてくれた。


「お帰りなさい。よく頑張ったなあ。俺よりすっかり強い将棋屋さんになってしまったな」


その父親の背後に子供を連れたご婦人がいた。父親はニコニコしている。


伊緒には見慣れぬ女性となる。頭をさげて帰省をねぎらう。


「ご苦労様でした。大会は大変なことでございましたわね」


父親はあれっ?と怪訝な顔をした。伊緒は知らないのかな。


「あのぅ初めまして。私っ杉本の妻でございます。主人から出迎えるように言いつけられております」


伊緒は将棋連盟愛知支部に行き杉本の内弟子を届け出る。


よーし私頑張ってみる。杉本先生の期待に応えられるような棋士になってみせる。


かわいい女流棋士が名古屋で産声をあげていた。ことでございましたわね」


父親はあれっ?と怪訝な顔をした。


「あのぅ初めまして。私っ杉本の妻でございます。主人から出迎えるように言いつけられております」


穏やかな美しい婦人だった。連れていたお子さんも静かである。


伊緒親子は一通り棋士の世界を奥さんから聞いてみる。勝負の世界に生きる主人は厳格で辛いもの。


だからこそ唯一の味方家庭が大切で温かく見守っていかなくてはならない。


数日後。


将棋連盟愛知支部に杉本と伊緒の姿があった。


「杉本先生のお弟子さんですね。では届を提出してください」


届け出に必要な書類を前に事務員は確認をする。


「はい結構でございます」

連盟に受理された。中学生の伊緒はプロ棋士という世界に足を一歩踏み入れた。

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