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盤面を睨むかわいらしい女子中学生は手を止めた。難しい局面を乗り切りたいと集中力を高めた。右手を盤面にスルスルと"飛車"に伸ばした。

夏休みの一日は真剣な眼差しの子供で溢れていた。空調のよく効いた会館の一室は子供のための将棋大会が開催である。


腕に自信の小学生は例外なく将来の名人を夢見て盤面を睨み付ける。


パチン


パチン


勝ち誇るように駒を指す子供。してやったりと満面に笑顔。対しては意外な手を指され窮地になる。


ムッ


いきなり劣勢に陥り手を返す絶妙がないかと真っ赤な顔をする。


パチン


パチン


将棋の参考書にある手を指され待ってましたとトドメの一手!絶妙手を放つ。


パチン!


勝者は最高の笑顔を振り撒いた。どうだい僕は小学生将棋名人にふさわしいんだぞ。


…(ありません)


対局者は王将の逃げ場を失い敗北を認めざるをえない。


負けた子供は目にいっぱい涙をためて悔し涙である。

ここ小学生将棋大会では日常繰り広げられる将棋大会の光景があった。夏休みの会館は暑い暑い戦いの場である。


大会の前に日本将棋連盟北陸東海支部局理事長杉本昌隆7段が挨拶の声を張り上げた。


「皆さん夏休みのお暑い中お集まりになりありがとうございます。出場される小学生の皆さん元気ですか」

細身でダンディな杉本は薄い紺のスーツに身を包み右胸に赤い薔薇の花をデコレーションしている。薔薇は連盟から派遣された理事長の権威を象徴している。


「マメ棋士の皆さんは夏休みの宿題は済んでいらっしゃいますか。我々連盟といたしましては宿題よりも将棋盤に向かっていっぱい頭を使っていただいた方が遥かに嬉しいでございます」

会場を埋め尽くした父兄から笑いが洩れる。子供に勉強はするな。暇があれば将棋を指せと言われては苦笑いである。


連盟の杉本は冗談とも取れぬことらしい。将棋の勉強は学校の勉強より高尚でインテリジェンスである。


「将棋ほど頭を使うゲームはありません。そりゃあパソコンゲームばかりしていては困りますけど。算数や理科も大切でございますが将棋の定石を勉強することもより重要でございます」

教育熱心な父兄は決して笑えない。娯楽のひとつに囲碁や将棋である。生活の中心に据え置かれては困ります。


「本日は第7回全国小学生将棋大会・東海北陸地区予選(主催板谷将棋後援愛知県・名古屋市)にお集まりいただきありがとうございます」


壇上でマイクを持つ杉本理事長は子供らの顔が目に入ると俄然熱弁を奮い出す。

この小学将棋大会の理事長となり主催者となった今自らが多少興奮をしてしまう。


胸に深紅の薔薇の(デコレーション)をつけた細身の男性は杉本昌隆7段。杉本は名古屋出身唯一のプロ将棋棋士。名古屋の雄・板谷門下の出世頭であった。

杉本理事長には将棋普及の使命ともうひとつ重要なことがある。


「この名古屋からいや北陸東海地方から次世代の将棋棋士を育成して行くのが我々東海将棋連盟の祝願でもあります。


皆さんこぞって今大会でその将棋の腕を遺憾なく発揮され頑張ってもらいたいと思います」


杉本理事長は長々と挨拶を続ける。子供が聞いていようが父兄に将棋を勉強しなさいが不評であろうがお構い無しである。


日本将棋連盟は日本各地に本支部がある。その中の杉本が理事長を務める東海将棋連盟があった。


杉本が理事長就任は昨年の暮れ。理事長として着任で一番のイベントがこの小学生将棋大会である。


就任したばかりの新理事長は勢い張り切っていた。この杉本の目の届く範囲で優秀なマメ棋士を見つけたい。


名古屋唯一のプロ棋士のプライドは崇高なものではあれどそろそろ後継者を自らの手で育て上げたい。


「東海地区予選にご参加のマメ棋士は中学生16人。小学生64人でございます」


男女比は8:2。段位の最高位はアマ五段と紹介された。


アマ五段と聞き会場からオッ〜と歓声があがる。アマの有段者は中学生か小学生からわからないが五段位を持つとは大した実力である。


父兄の方々も将棋フアンがいたのでいかに五段が凄いか再認識である。


場内がザワザワとする。しかし新理事長は冷静なものである。アマチュアの高段者がいくらいようがいまいが興味ないのである。


また参加者にある中学生や女児には眼中にすらない。それこそ学校の合間に趣味で将棋を心底楽しんでもらいたいの世界である。


理事長杉本の興味は強い将棋を指す"小学生男児"である。この子供大会で優秀な成績をおさめスカウトしたい。


後は杉本の腕で徹底的に鍛え上げプロの道を見つけてあげたい。名古屋初のプロ棋士育成を考えていた。


如何せん13歳中学生では遅すぎた。


杉本は胸元の赤い薔薇を振るわせマイクを握る。


「それでは本日のルールをご説明致します。中学生棋士さんは4人のリーグ戦が予選になります。勝ち上がりで決勝トーナメント。ベスト4から本格的にということですね」


中学生はリーグ戦。ひとつや2つ予選で負けても気楽な対局。完璧主義を標榜する杉本にはいささか不満もある。


「小学生の棋士さんはトーナメントです。64のマメ棋士さんが争い切磋琢磨ですね。こちらは中学生と異なり一発勝負で決まります。敗退は即退場ですから真剣そのものになります」


無敗で勝ち上がる。杉本には当然な話だと思う。トーナメントが小学生に相応しくないのならば64人を全員対局させてみたいとも思う。


説明が終わると会場から拍手が巻きおこる。パラパラと父兄や愛棋家からである。


「一発勝負だなんて。なんとなく住む世界が違っていますわ。これからの小学生に酷なこと」


プロの棋士になるのならとにかくアマチュアの将棋を楽しむ子供には問題である。2〜3の父兄の意見であった。


杉本は理事長としての挨拶をしめくくる。


「運悪く将棋に負けてしまわれたお子さまは我々棋士が指導対局を致します。皆様の向かって右手に12面盤を用意致しますから」


右手には指導対局と立て札がある。


「対局はプロ棋士が3名です。そのうちのひとりは私ですが。お子さまは遠慮なさらず対局盤に足を運んでいただけたら幸いです」


杉本は大会運営や将棋の勝ち負けなんぞどうでもよかった。


「対局は私の指導も他のプロ棋士も同じようにいたします」


杉本が知りたいのは小学生の強い奴が存在するかどうかである。近い将来鍛えて芽がある将棋を指す奴がいるかどうか。


杉本がマイクを係員に手渡した。いよいよ対局の始まりである。中学生も小学生も緊張をして盤面の駒を眺める。


「係員が対局の選手の皆さんを確認いたします。名前や対局番号を読み上げますから素直に従い対局を行ってください」


杉本は一通り子供らの対局場を見渡す。対局前の緊張感。プロ棋士となった今でもなんとも言えぬ良さがある。


「対局は持ち時間があります。使い切りますと一手何秒という厳しい差し手となります」


係員は大会のルールを説明する。杉本はそうだそうだったとマイクを再び借りる。


「いい忘れました。秒読みに慣れていらっしゃらない方は気をつけてください。毎年トラブルがあります。ちゃんと係員さんの指導に従ってください」


時計の秒が時を刻み出すとパニックとなる。指したい手を考える暇もなく緊張が高まりとんだポカッを連発してしまう。


杉本理事長は会場をくるくる回る。


「今からが僕は楽しみなんだ。いでよ将来の名人たちよ。僕の前で目覚めるような対局を見せてくれ」


係員が杉本に合図を送る。

「時間が来ました。皆さん始めてください」


(全員が一斉に)よろしくお願い致します。


パチン


パチン


会場は一気にヒートアップした。子供らの将棋に懸ける熱気が高まる。


時計を持つ係員が子供らの様子を監視していく。いつも見られる対局の風景である。


パチン


パチン


一斉対局は会場の30面盤である。理事長の杉本は席につくことなく(せわ)しく子供たちを観戦である。会場を歩き出すと杉本はプロ7段の顔になる。プロとして気になる戦法や駒組みを指している小学生が見てみたい。


杉本が赤い薔薇をちらつかせ近くに来る。子供は将棋対局に集中してはいるはずなのだがどうも違う。


チラッ


「近くで杉本プロが将棋を見ていたら緊張しちゃうよ僕」


子供の憧れはプロ棋士である。ゆえに杉本は神様同様である。


「僕は杉本先生の御本を3冊読んで勉強しているんだ。ちゃんとマスターしたよ。だから四間飛車や振り飛車は得意な戦法なんだ」


パチン


「小学校では負けたことないよ。だってみんなが始めて見る戦法だもん。だけど将棋道場だと大人にコテンパン(笑)。まったく勝てない」


パチン


パチン


「杉本先生にちょっと苦情言いたいなあ。言ったら振り飛車のパーフェクト教えてくれるかな」


パチン


そんな子供の思惑も何も知らない杉本がゆっくり歩いて対局をみていく。


「この子は俺の得意な四間飛車を指している。見込みありだな。うん!あらっちょっとちょっと。駒組みが金将と銀将逆だよ。陣形はそのまま正解だけど。アチャアまずいぜ」


対局中の子供がチラッと杉本の赤い薔薇を眺めた。この子は杉本の本を寝る前に必ず読んでいた。


憧れのプロ棋士が杉本。名人のタイトル保持者に憧れはあるがなにせ名古屋の棋士は杉本だけである。父親に手を引かれ連れていかれた将棋道場。真っ先に杉本の著作(初歩の将棋)と棋譜を目の当たりにする。


尾張名古屋は城で持つ。名古屋の将棋は杉本ありきでスタートである。


ゆえに子供は杉本と目を合わせることができない。本の中の偉大な棋士を直に見てしまえばどうかなってしまいそうである。


常に杉本に憧れを懐き将棋道場に通う子供たち。少しでもそのプロ将棋に近寄りたいと願う。


杉本が顧問を務める将棋道場はちょくちょく子供らに顔を見せてはいる。だが憧れの人を前に恥ずかしくなる。遠く離れて覗いてしまう。


パチン


パチン


あっ!


陣形に穴が空き敵駒をいきなり打ち込まれた。


ウグッ


さらに自陣の駒同士うまく機能していないと気がつく。敵駒を睨み防戦となる。

もうピンチか!


パチン


パチン


王将を囲い防御をしたいと頑張るがなにせ駒の配置が悪い。すぐに敗色濃厚となる。


杉本は盤面をチラッと見た。金将や銀将の駒に無駄がある。棋力はアマチュア2級ぐらいと即断した。


パチン


パチン


杉本の背後の対局場。おとな顔負けの駒音パチンである。


子供の姿勢がよく好感が持てた。盤面を杉本がチラッと眺める。どんな駒組みか楽しみである。


子供はサッと顔つきが変わる。憧れの杉本先生に将棋を見られて緊張である。


パチン


パチン


力一杯の将棋を披露していく。だが冷や汗もである。気力はあれど空回りをしてしまう。おとなにありがちな"気負い"が感じられた。

駒音も姿勢も良かったがまずい将棋になってしまう。

対局前に父兄から杉本は質問を受けている。


自分の子供をプロ棋士への道に導いてよいものかどうか。


息子は将棋の才能があるのでしょうか。


杉本先生の弟子になるにはどうしたらよいでしょうか!


東海地区予選までやってくる子供の棋力はどのくらいですか


アマチュア棋士のバロメーターの段や級で知りたい。

「棋力ですか。そうだなあ小学生なら平均アマ2段くらいはありますかね。僕が小学生だったら勝ちあがることはまず無理だけど。だってその時代は野球に夢中で将棋なんて真面目にはやらなかった。だから皆さん尊敬します」


会場をゆっくり覗いた杉本の感想であった。


始まりから数十分が経過する。棋力に大差があると勝負は早い。


「(差し手は)ありません」

勝負がポツポツとついてくる。杉本7段の御本を3冊も読んで挑んだ小学生も早々と1回戦負けである。


「あっ負けちゃった。杉本先生の指し手は嘘ばっかりやんかあ」


ベソをかきながら父兄席に向かって走り出す。勉強をしていた四間飛車の戦法でコテンっと負けて悔しい。

「ママ負けちゃった。悔しいよぉ。杉本先生のご本は嘘ばっかりだよ。どうして書いたとおりしても勝てないの」


母親を見たら大粒の涙がポロポロこぼれた。まあまあと母親は白いハンカチを取り出し息子を(なだ)めた。


あまり泣くからハンドバックからチョコレートを取り出した。子供にはこれが効果である。


「泣かない泣かないお兄ちゃん」


チョコレートを一個頬張ったらピタッと泣きやんだ。

一斉対局の序盤。子供が第1局を向かえたと杉本は知る。


「さあさあ負けてしまったお子さんは指導対局にいらっしゃい。じっくり将棋を見てあげましょう。盤は12面もあるのでゆっくりできます」


杉本の好きな時間がやってきた。だが何も7段の俺が一番先に席につくこともあるまい。


「3級と初段のお弟子がまずお相手だな」


会場にいた棋士は杉本7段とその弟子にあたる奨励会会員の初段(18・名古屋出身)と育成会員3級(14歳・名古屋出身・来期奨励会員なる予定)


※4段から日本将棋連盟所属のプロ棋士だから正確に言えば初段〜3段はプロとは呼ばれない。


育成の3級に勝つ子供がいたら初段と指導対局。奨励金の初段も負かす子供ならばいよいよ杉本7段が出て行こうとした。


「お弟子の初段は今が伸び盛り。師匠の僕から見て数年後には4段になれる逸材だ。まず子供は勝てないだろう。となると育成の3級に勝つとこちらに御鉢が回ってくるかなアッハハ」


杉本は指導対局を見ながら貴賓席に戻った。大会挨拶から忙しなく立ち回り少し疲れていた。


杉本が席に着くと係員のお嬢さんがパイナップルジュースを用意してくれた。


「おっとパイナップルだね」


杉本は喉を潤し美味しい美味しいと飲む。


うん?いつもはお茶だぞ


冷やされたパイナップルジュース。これは杉本のひとり娘が大好きなもの。係員は主賓のため高級茶器を用意する。囲碁や将棋にお茶がよく似合うからだ。

理事長杉本の愛娘さんのエピソードはこの名古屋界隈では知らぬ者ないくらい。誕生の際には地元新聞で微笑ましいニュースとして伝えられていた。


係員のお嬢さんは杉本の機嫌を取りたいと思った。


席についた杉本は冷たいパイナップルジュースをゴクンとやる。


「パイナップルかあ。気を使ってもらうなあ」


お盆で運んでくれたお嬢さんに軽く会釈をした杉本である。


パイナップルジュースを飲みながらひとり娘の笑顔が浮かぶ。久しぶりに名古屋の自宅に帰ったらお風呂に入れてやろうかと思う。


「あのぅすいません杉本先生」


貴賓席の杉本が一息つくと暇にしていたと思われたか小学生の父兄が声をかけて来た。


杉本の四間飛車戦法で1回戦負けの小学生の母親だった。


「うちの子供は杉本先生の大ファンでございます。大変申し訳ございません。こちらの御本に杉本先生のサインをいただけたら幸いでございます」


杉本が見上げたら和服のよく似合う清楚な女性である。上品な感じのお母さんだった。


目の前に杉本の著作品が提出された。サインを言われた杉本は内心嬉しくなる。

「嬉しいですねお母さん」

お母さんと呼んでしまったがかなり若い感じ(20歳台後半)で杉本より歳下である。


「僕の著作を読んでいただいてありがとうございます。すぐサイン致します」


赤い薔薇の横からサインペンを取り出す杉本。


サインをしようかとした著作の将棋本。


ほぉ〜


杉本は目を見張った。


「ところでお子さまはどちらの方にいらっしゃいますか」


サインをしようとした3冊はかなり子供は読みこんでいる。表紙こそ丁寧に扱っていたが赤い線や青い線が書いてある。


「律儀なお子供さんだな。赤い線はなんだろう。青いのは意味があるのかな」


杉本が本の中を見ながらサインをしている。若い母親は子供を連れて来た。


「先生っこちらが息子でございます」


母親に挨拶しなさいと促された子供は目を真っ赤に腫らしている。先ほど負けた悔しさが顔に残っていた。

母親からもらったチョコレートで少し泣きやんだ顔はまだまだ晴れやかになっていなかった。


子供の名札と胸の整理番号を見て杉本はにっこりとする。もう一度見てみたい将棋の子供のひとりであった。


「あっきみかぁ。こんにちは。あの第15番ブースで対局していたんだね」


手元にある小学生トーナメント表を確認する。第15ブースは誰と誰が対局か。名前と学年・棋力を確認した。


「きみは四間飛車戦法で対局されていたんだね。よく頑張ったじゃあないか」


杉本としては自分の得意な戦法を小学生が指して嬉しかった。


スラスラと著作にサインをし子供に一冊手渡し頭を撫でる。残り二冊は母親に手渡す。母親には頭を撫でない。


丁寧にも親子に手渡されたので和服の母親は喜びだった。


「ありがとうございます」

和服の好きな杉本はあまりの美人さに気後れを感じる。


「杉本先生ありがとうございます。お兄ちゃんよかったね。だってお兄ちゃんの大好きな杉本先生ですものね。先生ウチの子は杉本7段の大将棋ファンでございます」


丁寧に母親は深く頭を下げた。なんでもこの子供さんは父親と祖父が名古屋で開業をする産婦人科医院の御子息。そして親子三代で将棋が趣味で強い家系らしい。


「父親が小さい時からちょくちょく将棋を教えてはいたんですが。なんせ個人経営の医院がございます。人手が少なく忙しくなりまして」


父親が相手できないからと母親は将棋の本を買い与えた。


「杉本先生の初歩将棋を読みましたら強くなって参りました」


やがて将棋教室に通いメキメキ頭角を現すだった。 

そのいくつか買い与えた将棋本の中に杉本の著作があり子供は気になって読んでくれたらしい。


礼儀正しい母親の横の子供はじっと黙っている。親子三代医師の家系の息子さん。


杉本はにっこりした。医者であろうが愛棋家は大切なフアンである。


「僕の本を読んでいただき光栄です」


将棋教室で実力を蓄えると杉本7段の戦法四間飛車を心から尊敬していく。初心者向けのものは飽きたらず有段者向け(上級者)著作の3冊に目を通した。


教室の棋譜並べで杉本将棋を実感した。そうしたら毎日毎晩寝る前に必ず著作を読み漁ならければ落ち着かない。いつしか杉本の大ファンになっていた。


その子供が杉本の前というのにプッと脹れ黙っている。


杉本としては負け将棋だったから悔しいのだろうと察した。


「僕の本を読まれてどうですか。四間飛車は体得できましたか。振り飛車が好きなんですね。こりゃあ将来楽しみだ」

杉本7段の本音である。子供時代から居飛車ばかりでは面白くはない。様々にバラエティーに富む将棋を満喫してもらいたい。


「時間があれば栄の板谷将棋道場に来てもらいたいぐらいですね。僕も時間があれば指導します」


子供の住所から栄は近いと知った。ぜひ来てもらいたいものだ。


対局中の子供の四間飛車の駒組みが頭に浮かぶ。杉本は一瞬にして盤面が浮かんだ。


「四間飛車戦法で駒の金将と銀将を逆に組んでしまったね」


杉本はだんだん鮮明に思い出す。しかし子供が無反応でいることにハッとした。

…まずかったかな。自分のミスに気がついていたかな。


杉本に話し掛けられた子供は和服の母親にしがみついて後ろに隠れてしまった。

※杉本が痛いミスを指摘しプライドを傷つけたせいである。


弱ったなあ。


母親はわけがわからずどうしたのと子供の頭を撫でた。たぶん恥ずかしいのだろう。


「杉本先生。ウチの息子を指導していただけませんか。指導対局をお願いいたします」


杉本は指導対局の盤を見渡した。知らぬうちに12盤面ある対局盤。半分が子供で埋まっていた。


「あれいつの間に対局は増えたの。"負けた"子供があんなにも多いんだろう」


指導将棋は杉本の弟子の初段と3級が真っ赤な顔をして座っていた。育成会のプロの卵3級は2面差しである。対局の相手は中学生アマ5段であった。育成会3級も中学生であり棋力はアマ5段と差がない。


杉本がちらっと3級の弟子を見る。鳴り物入りで小学校から杉本の門下生となり指導をしている。


師匠から見たらアマチュアに少し棋力がついた程度の棋力である。この子供大会では3級の弟子がひとつの試金石になると踏んでいた。


3級から見たら年齢が高い奨励会初段は4面差しである。初段の肩書きは見事なもの。こちらは駒落ちでアマチュア5段に余裕である。


育成会3級と奨励会初段。指導対局の盤周りに順番を待つ子供が取り囲んで大盛況となる。


「先生お願い致します。盤面が6面も空いてるから対局してください」


盤面が空いてるのなら。


貴賓席の杉本は母親の申し出を受諾する。


「よろしいですよ私が指導いたしましょう。行こうか。四間飛車で対局したいなアッハハ」


杉本はパイナップルジュースをグイと飲み干し対局盤に向かう。


指導の盤面が混雑していたのは子供が我も我もと来たためである。


杉本理事長は対局試合に負けた者を指導したいと思ったが。


今見たら子供はわんさかである。対局まで時間がある子供は指導対局で腕試しをし本番に備えたいと思う。

「だって棋士さんと将棋できるなんて初めてだもん。できたら3級(育成会)初段(奨励会)7段(プロ棋士)と全部平手でやりたい」


(小さな声で)勝ってみたい

会場にいる子供たち。ほぼ全員が平手の将棋を希望しひとりぐらいは棋士を負かす気力であった。


「なるほどね。指導対局は私の弟子たち。どんどん頑張って負かせてくださいアッハハ」


杉本は真っ赤な薔薇を揺らし対局盤面に正座する。


「3級は2面指し。初段は4面だね。7段の私はうーん6面だ。よしみんなかかってこい」


スーツ姿の杉本7段が座る。指導対局盤面の空気が一変する。


子供たちの憧れはプロの棋士である。例え杉本の名前も顔も知らなくても将棋7段の肩書きは後光(ごこう)が差す。


対局で座る子供の目の輝きは俄然光る。


杉本は駒を並べながら指導対局の順番を待つ子供らを見る。


「並んでもらいごめんなさいね。最初にこちらの子から指導したい。こちらの子は私の得意な四間飛車戦法での攻め将棋を得意にしている。皆さん御手本になさってください」


杉本に手招きをされた医者の子供。真剣な面持ちで着席をする。先程まで泣いたりはにかんだりしたあの幼い顔はなかった。


ただあるのは尊敬する杉本7段に対してうまく四間飛車を指しこなせるかだけだった。


「四間飛車戦法は大好きなんだ。あれだけ杉本先生の御本を読みマスターしたのに。だけど負けたんだから。勝負だもん仕方ないや」

でも杉本先生と対局できて嬉しいと幼い顔に書いてあった。


指導対局は二枚落ち。子供が希望をしたので飛車・角行は駒台に置かれた。


杉本と子供は頭をさげてよろしくお願いいたします。

パチン


パチン


憧れのプロ棋士と対局である。プロ棋士杉本とはその著作を通じて棋譜を熟知し憧れである。


パチン


パチン


一手一手がビシビシと駒音を立てマメ棋士は杉本の著作にある四間飛車戦法を着実に実践する。


パシッ


マメ棋士は小学校から医院に帰る。付属小学校からはお抱え運転手の黒塗り自動車。医院お抱えの運転手は囲碁も将棋も有段者である。


お坊ちゃんは運転手と将棋タイトルについてあれこれ話して楽しいのである。


「お坊ちゃんも早く小学生名人になられてください。私なんかヘボ将棋。簡単に負かせなくちゃ」


お坊ちゃんはウンウンと有段者の言葉を聞く。将棋を愛す者。有段の者には尊敬である。


医院に着くと学校の勉強など眼中になし。ランドセルをベッドに投げつける。付属小学校に入学した際に祖父の院長が孫に買い与えたものである。


院長はしっかり勉強をして欲しい。大学医学部へ進学して医院の跡継ぎにと願っていたに違いない。


間違ってもプロ棋士になりなさいはない。


部屋に入ったら制服をパッパと脱ぎ捨て半袖と短パンに。身軽となりパソコンの前に座る。


おやつなどそっちのけ。毎日対局のある日本将棋連盟のプロ対局棋譜をダウンロードしてみる。


※プロ棋士棋譜閲覧は有料サイト。祖父や父親も暇があれば閲覧をしていく。


お手伝いさんが後から部屋にやってくる。


トントン


ジュースとショートケーキを運ぶ。大切なお坊ちゃんに楽しんでもらいたい。お坊ちゃんの笑顔が嬉しいのである。


今日のおやつはお好みのグレープフルーツとイチゴのケーキである。


医院のお坊ちゃんはお手伝いさんが部屋にくるのを嫌う。一刻も早く棋譜を眺めたい。


将棋を勉強したい。将棋に埋没したい。将棋に集中してみたい。


「お坊ちゃんケーキは冷たい方が美味しいですよ」


パソコンの前にお坊ちゃんが座れば何をしても無駄である。お手伝いさんは机にケーキを置くと部屋を出る。その場に置けばいつか食べてくれる。


お手伝いさんはベッドのランドセルを置き直し脱いだ制服を整頓して洗濯機に持ち返り部屋を出た。


バタン


お坊ちゃんはジュースもケーキも大好きである。だが今は将棋が大好きである。

付属学校の将棋部には高中小学生と所属をしている。大学もあるが学校の敷地が離れている。


小学生のお坊ちゃんはメキメキ将棋の腕をあげ中学生や高校生にも平手で勝つ実力にある。アマチュア2〜3段ぐらい。


学校に敵がないとなると街の将棋教室/クラブに行く。


A級棋士の棋譜はパソコンの横に盤を置いて駒で学習する。生活の中心が将棋である。


祖父は医学学生将棋大会に優勝の実力。父親も医学学生大会優勝と大学将棋選手権ベスト8である。


パチン


パチン


マメ棋士の頭に名人戦の棋譜がチラっと浮かんだ。杉本の駒を見て試してみたくなる。


指すなら今だ!


パチン


パチン


杉本の自陣の駒組みが終わる。目の前でマメ棋士が杉本7段が編み出したオリジナル振り飛車陣形を完成させている。


杉本としては自分の研究の成果を見せてもらい恥ずかしい気持ちになる。


いかに著作を読み込み研究してくれているか手に取るようである。


マメ棋士は最後の駒組みを果たす。杉本の教則本の内容のとおり指した。


次に銀将を歩兵の前に出す。名人のつもりでの手になる。


パシッ


うん?


杉本はあれと思う。その手筋は当然知っていた。アマチュアが指し回せば悪手になりがちな類いである。


どうですか杉本先生。名人の妙手ですよ。


お坊ちゃんは得意満面に指先を離した。先生の御本にあった駒を組んで最後に銀将を突いてみました。


子供は改めて盤面を見た。なんと強靭な布陣ではないか。杉本がそこにいるかのごとく。


お坊ちゃんは得意になった。この世で最強な杉本戦法振り飛車を使い"本家・杉本"と戦うのである。


パチン


パチン


駒組みが完成すると盤面は序盤から中盤に至る。お坊ちゃんは得意な陣形に駒を運び幸せなことに杉本の王将陣営に攻め込む。


パチン


憧れの杉本先生の陣中に駒が踏み込まれた。


傍らで観戦する母親は思わず身を乗り出した。将棋には疎い母親。和服のまま背伸びをして子供の攻め駒を睨んだ。


パチン


パチン


がどうしたことか!


一枚の敵陣進入の駒が立ち往生である。杉本陣地に入ったはいいが身動きが取れない。前にも後退め立ち行かない。


杉本がわざと仕掛けたトラップに陥っている。アマチュアの対局者はプロ棋士杉本がミスをし自陣の守りを薄くしたと勘違いである。

手薄な局面を作る。相手を油断させる。杉本にはなんら苦もない作業である。


パチン


パチン


子供からの攻め駒は進展なし。杉本の教える振り飛車の活躍しそうな局面は皆目なしである。


杉本の振り飛車戦法だと銀将や桂馬を束ねて攻撃的に敵陣を破るのである。杉本フアンになるのはこれがあるからである。


がお坊ちゃんが指し手での杉本戦法はどうしても攻められない。


パチン


お坊ちゃんの考えがまとまらない。妙手が駒を持って元気に指すことをしなくなる。


攻めの手筋に困難がある。これ以上まごまごしていると堅牢な自陣の囲いが破られてしまう。


パチン


お坊ちゃんの顔つきがだんだん険しくなる。攻め手にことを欠いている。かといって防戦に駒を使いたくない。


攻めたい


攻めろ


行かなくては…


将棋教室で連勝していた時に味わったことのない不思議な威圧感を感じてしまう。


パチン


パチン


はっ!


杉本が大駒の飛車を狙いにやってくる。杉本が一手指すと首をしめられていく錯覚。


パチン


強烈な杉本の攻撃でみるみる自陣の守りは壊滅である。


パシッ


杉本は容赦なく飛車を狙い奪う。


あっ!


思わず声を出してしまう。

そっそんなぁ〜


四間飛車戦法なのに飛車を取られてしまっては。


パチン


声もない。再び泣けてしまいそう。大局は一気に決してしまう。杉本の駒台には飛車や金将など攻め駒に充分足りる数が乗っていた。

子供の背後から眺めた母親も唖然としてしまう。


まさかうちの息子が…


負けたなんて


敗着が決すると杉本はゆっくり指導助言を与える。


・まずは駒組の序盤。陣地を固めていくことはよいが敵陣の様子を必ずみること。敵駒がどこから攻め入りを狙うかを把握しておく。

・振り飛車の使い方が自分のものになっていない。杉本の教則本では自由自在にのびのび飛車は走るがそれは飛車のみでなし。陣形の駒などとの連携を重視して欲しい。


その他駒の使い方に杉本としては助言はあったが子供のことである。グッと堪えておく。


「来年も大会に出場してください。もっと勉強をして強い棋士になることを楽しみにしています」


指導対局が済むと母親はお礼をした。母親として自慢の息子は医者にさせるか棋士にさせるか悩むこともあった。


なんとなく吹っ切れた気分で母親は大会会場を後にした。


私が医院に嫁いだのは


大会運行は順調に午前を終了する。長い将棋はあまりなくどうやら一方的な勝負が多かった。


中学生リーグは各自2局を消化した。


杉本は中学生リーグ戦の結果を眺める。4人リーグ戦だから2敗を喫してしまうと勝ち上がりはかなり厳しくなる。


傑出した子供がいない。また連敗を喫する子供もいない。


「リーグ戦は実力伯仲ということか」


小学生トーナメントは順調に1回戦2回戦こなされていく。なるべく対局は見ておきたい。杉本は改めて子供の名前を暗記する。


「杉本理事長先生いががでしょうか。ひとつ提案がございます。ブース(対局席)が空いて参りました。敗者復活(コンソレーション)を組み入れてはいかがでしょうか」


大会係員の要望である。敗者が指導対局にわんさか押し寄せても限界がある。コンソレーションはよい練習の場になる。


対局の場を子供らに提供することはよいと思う。


「復活戦ですか。盤が余っているのでしたら有効活用ですね。いいですね。わかりました。やりましょう。トーナメントと同じルールは考えもの。そうだ手合いは持ち時間10分。秒読みは一手30秒でお願い致します」 


パチン


パチン


昼食を挟んみ子供たちは熱を入れて対局である。1局や2局をこなすと頭の方も将棋脳となるようで盤面は妙手や名手がばんばん指されていく。


杉本はこまめに会場を回る。実力伯仲の対局は好勝負の証拠である。個人的にも嬉しくて堪らない。杉本自身の勝負師の血が騒いでくる。


対局が進みマメ棋士全員が一斉に対局する。会場控えにいる父兄は我が子よ頑張ってと力が入る。


マメ棋士は夏休みの宿題をこなすより真剣な眼差し。

マメ棋士はゲームをカチャカチャやるよりも真剣に盤面を睨みつける。


例え仲良しの子供同士の対局になったとしても無駄話などをする者はひとりとしていなかった。


杉本は将棋の緊張感が堪らなく快感である。子供のうちから将棋の真剣さを体感してもらえることは理事長冥利に尽きるのである。 

会場隅の指導対局ブース。子供の対局を担当する初段・3級も同様に熱が入る。

「杉本先生助けてください。子供たち強いやあ。午前中で3/15局もやられてしまいました」


育成会3級の弟子が鮭弁当を食べながらぼやく。子供の将棋はバラエティーに富む。定石や基本的な指し手を知る子供はなんとかあしらえる。育成会でみっちり教えてもらうところである。


「定石も基本的な将棋も無視した子供がいます。でたらめな差し手で攻めてきます。どう対処したらと考えたら負けたぁ」


3級は悔しいなあとおどけた。


3級に勝った子供は次に初段を破ってやりたいと息が荒い。


「(初段の)先生も手強い相手に苦労でしょうか」


その場にいた初段はギクッと顔がひきしまる。奨励会を駈け上がる会員のプライド。そんなアマチュアの子供にこてんこてん負けては名が泣く。


初段が緊張して黙っていたので杉本は笑い出した。


「アハハッいやあっなんとも。妙手を指す子供がいたら負けてやることも大切だよ。なあ負けてやれよ。自信に繋がるじゃあないか」

3級はわざと負けるのと実力無くて負けるのは違いますよと言いたかった。


中学生予選リーグは2時過ぎに終わる。4人リーグからの勝ち上がりはトップのみの4人。


杉本はどの子とどの子かなと覇者の顔を眺めた。中学生3年アマ5段が勝ち上がっていた。順当な勝ち上がりと思える。


「このメンバーを見ると5段が中学生クラスは優勝するかな」


杉本は4人の顔触れを確認する。3人がアマの段位だった。5段・3段・2段。いずれも将棋教室/将棋クラブで名前を知るアマチュアトップクラスである。


うん?


4番目にひとり無段な勝ち上がりがある。


「このお子さんは女の子だね。どんなお嬢さんかな」

杉本は中学生出場者のリストを探した。女の子がトーナメントにまであがるこっは珍しいからである。


中学3年生伊緒・段級無記名


それが杉本と女流棋士伊緒との出逢いである。


中学トーナメント(準々決勝)は2局同時。子供たちの注目度はかなり高く特別対局ブースの周りに人が集まる。


人だかりは父兄だけでなく午後から増えた将棋フアンである。


「さすが中学3年の5段は強いね。居飛車で穴熊か。往年の名人さんを尊敬しているらしい。陣形がしっかりして予選は敵駒は一度も攻め込まれたことがないんだって。まさに横綱さんだね」


中学3年生のアマ5段は人気であった。東京から名古屋への転校生で東海地区大会は初出場である。


※東京地区予選は中2でベスト8の記録


盤面を見つめる姿は名人の風格。たぶん優勝するのではないかと観客から期待された。棋譜を見ている杉本もたぶんこの5段がいくのかなと思える。


神々しき5段は名人将棋を展開していく。ゆったりとした指し回し。尊敬する名人の再来であろうか。


その隣に段位無記名の女の子伊緒である。見える姿に将棋の猛者の風格はない。見るからに細身で覇気がなくごく普通のお嬢さんである。


「あの女の子が強いのかい。まあ決勝トーナメントまであがるんだから強いんだけど」


会場に集まる将棋フアンに女の子は珍しい。小学生でも中学生でも。


中学生の伊緒は白いブラウスが清楚でかわいいタイプ。そのままマイクを持ちアイドルとしてデビューをしてもおかしくはない。


「参加者一覧を見たら驚いてしまった。あの女の子は無段なんだね。えっ!段級位の認定を受けていないんだ。段位がないから実力は未知なところなんだろうけど」


この東海予選は小中学生なら誰でも参加できるものではない。日本将棋連盟に所属する将棋教室の推薦と杉本理事長の許可が必要である。


「あれっおかしくないか。無段で参加しているの疑問符だな。この大会は将棋教室の師匠さんの推薦が必要だよ。女の子は関係ないのかな」


伊緒は将棋教室/クラブに所属していない。参加者一覧には無段位で中学校の名前が明記されていただけである。


将棋フアンに話題沸騰である。女の子は独学で将棋を覚え強くなったのか。それとも親御さんが有段者で熱心なんだろうか。


会場にいる係員に詳しく聞きたがるフアンもいた。


「気になったからさ。女の子の予選リーグの棋譜を見せてもらったよ。なんと表現したらいいかな。これっと言った特徴が指し手にないんだ。振り飛車戦法ではあるけどさ。強いて言えばフニャフニャ将棋かな」


フニャッとした将棋。飛車がふらふらして盤面を縦横無尽に動き回る。


将棋有段者は係員をつかまえ伊緒の棋譜を分けてもらう。口で言うより棋譜が見たい。


会場の片隅に腰を掛けじっくり眺める。有段のフアンが中学生の将棋に興味を持つことは大変珍しい。


「うーん振り飛車は振りなんだな。序盤の駒組みは杉本先生の影響があるように見える。あれっ違うかな。独学でやっているのかな」


アマチュア3段や4段が棋譜を見て首を傾げて悩む。許されるならば駒を並べて検討をしたい。


伊緒の予選リーグ3局の棋譜。確かに勝つには勝つが戦法に決め手がない戦いぶりである。知らぬ間に気がついたら勝ちを拾う感じである。


「女の子の飛車は変だぞ。棋譜見てよ。アッチフラフラこっちフラフラ動くんだ。空に浮かぶアドバルーン風船みたいな感じかなあ」

飛車の指し回しが抜群にうまい女の子である。知らぬ間に有段の中学生を退けて勝ち上がってきた。


将棋フアンは女の子の話題である。決勝トーナメントに勝ち上がってかわいいお嬢さんだと気がつく。


中学生の女の子は小学生の弟さんも大会に参加していた。嬉しいことに姉弟とも勝ち上がりである。


伊緒の弟さんは将棋教室で活躍し強豪の称号を持つ。小学生の弟を母親は教室に連れていく際に姉の伊緒も伴う。


弟が将棋をやるなら姉もやってみたい。有段位の父親の手ほどきを受けることになる。


姉は弟の順調な勝ち上がりを大会の係員から聞かされた。将棋の猛者なる弟は昨年小学生ベスト8まで勝っている。


「弟も(3回戦を)勝ちましたか。嬉しいなあ。でもお姉ちゃんはもっと頑張ったぞ」


会場は負けた子供がどんどん中学の特別ブース準決勝に集まってくる。女の子が珍しいことと名人の風格がある5段はことのほか人気である。


「5段の中学生はプロ棋士みたいだ。どっしりとして落ち着きがある。ああ言うのが横綱かなあ。いや将棋だから名人だな」


5段は見るからに強そうな顔つきをしている。将棋フアンは一手一手指す駒回しを安心して見ていられる。

「だが隣の女の子はフラフラしている将棋だよ。飛車がヒョイって飛んで引っ掻き回すんだぜ。あれっあれって飛車を見ていたら攻め込まれて投了なんだなあ。ふたりが決勝で当たれば本格派と技巧派対決か」


5段の棋譜は磐石な将棋である。定石をしっかり学び優秀な指導を受けていることがよくわかる。腰を据え将棋を勉強した形跡がある。


参加者一覧に憧れの名人の名前が明記されている。名人の棋譜を憧れて自分のものとしていた。言わば将棋の基礎を踏まえた王道将棋の5段と言える。


対象的にフラフラ風船戦法の女の子である。ふたりが勝ち上がれば中学生の決勝は異色の対局となる。


大会を観戦する父兄や将棋フアンはその対局を望むことになる。


「ありません」


5段の対局相手が投了をする。まったく危なげのない横綱将棋で簡単に決勝戦勝ち上がりを決めていた。


勝ちを収めた5段は少し不満である。自身の駒組みが気に入らぬ箇所があったようだ。より完璧を求めていく5段である。


「ヒィ〜まっ負けました」

伊緒の対局相手が悔し泣きで投了をした。ヒョイヒョイ飛車が盤面を移動されて引っ掻き回された。


まさかあんなに飛車が走り回るとは。今まで見たことも聞いたこともない展開である。


伊緒をチラッと見て頭を下げた。腹から捻り出すように声を出し負けました。


目から悔し涙がこぼれてしまう。将棋が好きで将棋教室に通う。師匠について初段をもらったらのめり込み2段・3段と順調なステップ。


それがまさか女の子に敗着する。無段位の見たことも聞いたこともないわけのわからぬ女の子に。


負けた特別対局席から退座をしトイレに行く。ガチャンと内鍵を落としたら閉じ籠もりウワァ〜と泣き崩れてしまった。


理事長杉本は子供の指導対局の場で決勝戦の名前を聞く。


ピシッ


「へぇ〜女の子が勝ちましたか。凄いですね。対局相手は昨年は決勝進出した子でしたね。どんな棋譜だったんですか。信じられないなあ」


驚きながら係員に伊緒の棋譜を頼む。


バシィ


杉本の指導対局は6面手一杯。対局している子供は全員真っ赤な顔で盤面を睨む。二枚落ちでもなんでも勝ち目がない。


「まさかあの女の子が勝ち上がってくるなんて。対局の男の子はアマ3段や2段だったはず。2段は僕が板谷教室で2〜3回指導した。あの子供らを破り決勝に来るとはどうしたもんか。早く棋譜が見てみたい」


杉本は6面をザア〜と流すように歩く。


パチン


パチン


杉本の指す一手に対局相手6人は誰ひとり身動きしなかった。強烈な攻め駒が打ち込まれた瞬間である。


係員は対局の終わった伊緒の棋譜を指導対局の最中の杉本理事長に届ける。


「先生これでございます。たった今しがた棋譜を打ち込んだばかりでございます」


綺麗に印字されたデータ棋譜だった。杉本が見たい棋譜はふらふらする風船の飛車である。


「えっとどんな将棋をやるんだあの女の子は」


杉本は6面指しの歩みをしながら棋譜を眺めた。


パチン


パチン


対局中の子供2人が頭をさげた。


「先生ありません」


項垂れて敗着をする。


残り4面指し。杉本は涼しげな顔つきで棋譜を読みながら多面対局をする。


パチン


パチン


「先生ありません。ご指導ありがとうございました」

またひとりが負け頭をさげた。


パチン


パチン


杉本はものの5分ですべて片づけた。6面指した相手はすべてきれいに詰ませてしまう。


「先生(勝ちは)ありません。悔しいです」


最後のひとりは杉本が手加減をしなかった。いきなり厳しい王手となった。攻撃の手筋を与えられず負けた。悔しいことから泣いてしまった。


杉本は6面指しを終え中学生の将棋にを観戦しようかと思う。


特別対局席横に杉本理事長が盤面解説をする席もつくられていた。


「中学生なんて正直見ていなかった。まして女の子が決勝にいるなんて。女の子の棋譜を見る限りかなり指し慣れている。対局の経験がかなりあるように感じられる」


係員に伊緒のデータをもらう。何度みても同じことである。


「将棋教室に所属しないんだ。将棋の先生は誰かになるんだが。となると親御さんや家族が指導だろう。有段位の親御さんだろう」


杉本は棋譜を眺める。伊緒の振り飛車戦法は定石が崩され随所にオリジナルが見える。序盤から中盤の駒の流れは見事だとしか言い様がない。


「振り飛車戦法は僕のオリジナルを変形させ利用している。いや適当に動き回るだけみたいかな」


終盤の振りに杉本は思わず唸った。なんとうまい駒回しなんだろうか。オリジナル溢れた駒回しは天性ある才能ではないか。


「振り飛車は幾つか振り飛車戦法がある。しかしなんだろうか。この女の子の駒の動きは。妙に動きまくるじゃあないか。無駄な動きで不必要だと感じられる。


棋譜を見た子供がふらふら空に飛ぶ風船だと言ったな。うーん確かにフラフラしている。だがその飛び上がった飛車の着地が見事なものだ」


プロの杉本が見てもわけのわからない飛車の動きである。右にふらふら。左にふらふら。


杉本は棋譜を読みながら体を右に左に揺すってしまう。


「僕まで風船をやることはないか」


休憩を挟んで中学生の決勝戦は始まった。振り駒により先手は5段である。


5段は親しい友達に文句を言う。


「みんなだらしないぜ。あんな女の子に負けたんか。女の子のスカートが短いからどんなだろうなんて考えたんじゃあないだろうなアハハ」


東京育ちの5段は伊緒をみて決して美人ではないと言い切る。可愛いらしいブラウスだからそれなりに見えるだけ。普通の女子中学生で珍しいこともない。東京の中学生が垢抜けてセンスもある。伊緒の手荷物にキティちゃんがペッタンされていた。

「よろしくお願いします」

先手5段はバシッと指す。受ける伊緒は物静かなもの。両膝を揃えハンカチをギュと握りしめていた。


パチン


パチン


対局が始まる。手順が数手進むと杉本理事長がやってくる。


ふぅ〜


6面指し指導対局を全て勝ち貴賓席でパイナップルジュースをキュッと飲んでからやってきたのである。


「パイナップルを飲むと娘を思い出す。でも正直に冷たいお茶が欲しいなあ」


決勝の特別対局席に赤い薔薇の杉本理事長が現れた。まわりにいる係員が頭をさげる中をゆっくり盤面解説席に座る。


対局席の5段も伊緒も杉本が見ることに気がつく。5段は顔いろひとつ変わらない。いつもの平常心であり勝負師である。


「やだぁ〜杉本先生が見ていらっしゃる。悪手を指したら叱られちゃうかな」


女の子は畏まって緊張である。丁寧に折られたハンカチはだんだんクシャクシャになっていく。


対しての5段は違っていた。緊張感など微塵もなくである。


「杉本先生見てください。僕の"5段"はアマチュアですが実力は伊達ではないと見せてあげます」


パチン


5段は杉本の見る前で飛車を中に置いた。今までの対局は居飛車戦法ばかり。


尊敬をする杉本の著作にあった中飛車戦法をひとつやってやろうかと構えた。


中飛車に駒が動くと杉本は顔がヒクッとした。


パチン


パチン


対局は進み35〜40手順となる。観客は杉本の解説を聞きながら対局を楽しむ。

「どちらも陣形は悪くはないですね。駒の動きはまずまずというところですかね」


杉本の互角であるの解説に将棋フアンはどよめく。


「杉本先生は簡単に互角とおっしゃるけど。5段の穴熊は完璧だぜ」


対して伊緒の陣形はスカスカである。王将の頭を金将がちょこんと守るくらい。どこから攻められても対処がないように見えた。


パチン


パチン


中盤となると中学生の5段は顔いろが悪くなっていく。


「おいどうしたんだ。5段の自慢する中飛車はなかなか走らないぜ。攻め駒が窮屈な形になってしまった気がする」


5段の指す手指す手は妙手から平凡なものになってしまう。女の子は5段の攻め駒を巧妙に防御して勢いを無くしてしまうのである。

「なんだこれ。この駒はなんだい。堅い守りでもないくせに攻め切れない」


5段は定石の将棋本を見たくなる。谷川名人の将棋読本にあったかなっと思い出す。


「知らぬうちに金将と銀将がスクラムを組んで強烈な守り駒になっているなんて。飛車は飛車でフワフワしながら風船みたいにアッチコッチだ。初めて見る光景だ」


中飛車の強烈な中央突破戦法が不発。強烈な妙手にならなくなってしまう。


5段は新宿将棋クラブで大人の有段者とかなり対局をしている。同じ中学生としては経験も豊富と自負をしていた。かなり対局の場数は踏んでいたが初めての経験だった。


解説する杉本はじっくり両者をみたくなる。余裕のあるのはどちらか。


「まもなく持ち時間を使い切るな。秒読みになるわけだ。この決勝という舞台で焦ったら負けだ」


中盤は女の子が駒組み有利かと思ったが終盤は終盤。ドラマが待っている。


「お知らせ致します。両者持ち時間を使い切りました。これより秒読みに入ります。よろしくお願い致します」


中学生5段はグッと口唇を噛み右手にあるペットボトルから冷水をガブリと飲んだ。大好きなグレープフルーツジュースだった。ガブリと飲んだがまったく味覚は感じてはいなかった。


ボトルは右の御盆にあったから元に戻しておくべきだった。


「あのぅすいません。飲み物は膝の上に置かないでくれますか。元の位置に戻してくれますか」


注意を受けた。神々しき名人の風格と言われた5段。興奮していたのであろか。

迂濶(うかつ)にもちょこんっと膝に挟んでしまった。はしたない格好であった。

「あっ!すいません癖です。直します」


膝にボトルを挟んで気楽に将棋をやっていたらしい。

秒読み将棋は終盤に差し掛かる。観客は息を呑む。次の一手かそこらか。詰みか詰まされるかの攻防が繰り広げられる。


杉本は盤面を眺めながら生5段の寄せがどうしてか弱気だなと感じた。


「詰みを読み切らないまま駒を動かす感じだ。陣形を崩されたらどうにもならずガタガタにされてしまうタイプだな」


解説では一進一退の五分と言い置いた。5段が動揺してはいけないと配慮である。


「対して女の子は積極的な指し回しだ。手厳しい指し手を繰り広げている。見ていて気持ちいいな」


パチン


パチン


5段は銀将で王手を仕掛ける。王将が下に逃げたら3手詰み。5段は他力本願で詰みを読んだ。


「決まってくれ。投了してくれ」


祈ってしまった。この王手をうまく逃れたら逆王手が待っていた。


「攻めしか生きる道がないんだ」


持ち駒には銀将2枚。王手を銀将でかけてやりたい。王手の途切れは負けになる。


「やらなければ負けだ」


頼むから王よ逃げよ。貴女は負けたんだ。


女の子は冷静である。慌てはしない。秒読みの声に合わせ細い右手を出した。


パチン


銀将をちょいっとつかみ王で簡単に取る。守りの隙ができ風通しがよくなった。

中学生5段は顔面蒼白になる。弱気が災いをし負けた一瞬だった。


「(指す手が)ありません」

小さな声で負けを宣言した。女の子の顔がまったく見えていない。


会場は静粛さがガラリとかわり拍手が巻きあがる。


解説の杉本理事長もつい熱が入ってしまう。


「おめでとうございます。銀将をよく閃いたね。よく頑張った。めでたいや優勝だ。中学生の女の子が優勝は何年振りかな。ちょっと調べなくちゃ」


女の子は恥ずかしそうに対局場ではにかんだ。手にしたハンカチは汗でクチャクチャである。


「嬉しいです。杉本先生の前で優勝ができるなんて。嬉しいです。本当に私は嬉しい」


キティのバッグから真新しい白いハンカチを出し目をちょっと押さえた。


負けた5段はいたたまれない。大会の優勝は自信があったから会場から逃げて出てしまう。悔しさは勝負師の背中にくっきりとあった。


詰みがなくなり負けの瞬間から顔は蒼白となり涙もあった。父兄席から御婦人が駆け出した。心配顔で息子の後を追い掛けた。母親の顔は5段とよく似ていた。

杉本理事長は腕組みして対局後の棋譜を見つめた。決勝にふさわしい対局だったと満足である。


「中学生の5段はアマ5段なんだけどね。どうして自分の将棋を貫いてくれないのか。指し切れなかったかな。序盤から中盤にかけては磐石。だけど敵駒に対応して指すことや定石にとらわれない棋風を目指して欲しいものだ」


杉本も改めて不思議な感覚を抱く。実力があるが発揮しない。


「どんな世界も負けたら悔しい。勝者と敗者がはっきりとする。拍手は勝者に万来するが敗者には何もない。勝負の世界に必ずいる両者。それでも泣けるなんて純真じゃあないか。素晴らしいと思う」


杉本は負けた5段にも拍手をしたかった。


「僕も来週の順位戦で負け将棋したらオイオイ泣こうかな。いやバカだと笑われるがオチだなアッハハ」


優勝を飾った女の子は父兄席に行く。父親と母親に優勝の報告である。


「よかったね伊織ちゃん。杉本先生の前で優勝したなんて幸せ。杉本先生はあの対局を忘れないよ。伊織を覚えておくれなさるよ」


女の子はエヘヘッと笑って照れを隠した。伊緒も杉本のフアン。著作本を読み研究していた。


ただ杉本の得意な四間飛車戦法は指してみたいと思うが実際に一度も指したことはなかった。


「お母さん弟の対局が残っているね。やったねベスト8まで勝ちあがりだね。中学生決勝が終わったら次に小学生対局を一気にバアっとやるみたい」


伊緒の弟は小学6年である。昨年も出場してベスト8まで辿り着いていた。


はしゃぐ伊緒と母親は欲張りになる。


「お姉さんが中学生で優勝。弟も小学生で優勝となりたいね」


伊緒は母親から冷たい麦茶をもらって美味しい美味しいと飲んだ。対局中にも何度か喉を潤してはいたが味覚はまったくなかった。


小学生対局は準々決勝4局と敗者復活の対局が組まれていた。


「伊緒お姉さんが勝ったんだから僕だって頑張っていくよ」


小学生対局の壇上に弟は上がる。昨年も壇上にあがったと姉は思い出す。


「私は一般の観客として弟の対局を見ていた。一年後に私が中学生で優勝を飾るなんて」


壇上の弟は落ち着かないようすだと見えた。おどおどし自信がなさそうである。

「姉弟で優勝だなんて夢見たい。弟はリラックスして優勝させたいなあ」


壇上の対局席は観客も近くに観戦することができる。

「応援にいくわ。お父さんもお母さんも行きましょう」


母親に麦茶のボトルを返して壇上近くに行こうかとしたら声を掛けられた。


「こんにちは。私は日本将棋連盟です。伊緒ちゃんにインタビューがしたいです。お時間をくださますか」

将棋取材記者につかまってしまった。記者は将棋の強い姉弟を知らなかった。


「えっインタビューですか」


記者の伊緒へのインタビューは長くなる。彼女の生い立ちから将棋との出合いを話す程度だったが手間がかかってしまう。


「記者さんのインタビューは嬉しいけど。弟の対局が見えないで終わってしまうわ。勝ったらいいけど」


記者に伊緒は繰り返し同じことを聞かれて写真をバチッと撮影される。


「インタビューは写真を撮っておしまいです」


やれやれインタビューから開放されそうねっとにっこり笑ったら撮影された。


やっと長い長いトンネルから抜け出たようだ。


「長かったなあ。急いで会場に行かなくちゃ」


対局場は残念ながら弟や他の対局も終局した。姉はどうだったと心配ながらトーナメント表を探す。


弟に勝ち星がペタンとついていた。


ふぅ〜ありがとう


「勝ったわねベスト4入りか」


昨年の記録をクリアしたなあと実感する。


「残りは準決勝と決勝。小学生の戦いは長いわ」


父兄席に戻った伊緒。姉がインタビューされたと知ると弟がニコニコ顔だった。

「お姉ちゃんどこにいたの。へぇ〜インタビューだったの。優勝インタビューなんて格好いいね。写真が雑誌に掲載されるのかなあ」

弟は母親に飲み物をおねだりする。


「お姉ちゃん僕ねっ準々で勝ったよっ。中盤でヘマして危なかったけどさ勝ったんだ。昨年負けた相手だったから頑張ってみたんだ」

弟はカップを持ちながら興奮気味である。


「同じ相手に二度と負けたくないもん。今年は勝てたんだ。杉本先生の四間飛車を使い勝てたんだ」


母親から冷たい麦茶をもらいゴクゴクと飲んだ。小学生はうまそうに飲んだ。勝利の味は格別である。


「弟くんは準決勝進出出来たんだ。さらにリベンジできたんだ。喜びは二重だね。偉いぞ我が弟くん。よくやりましたよく頑張ってくれました」


姉は弟の頭を撫で撫でとした。強い小学生は嬉しい顔をしてみせた。


休憩を挟み準決勝。この段階までくるとさすがわんぱくな小学生でも疲れてくる。


本番の全国小学生将棋大会は子供の疲労を考えて日を改めNHKスタジオで対局をさせる。


「対局数が多いからタフになりますわ」


準決勝の対局者は順次名前を呼ばれ壇上に上がる。呼ばれた小学生は強い4人。

小学生は64人参加だから60人が敗退をしてしまったことになる。


「会場にいる64人は強い小学生ばかりだもん。勝ち残りでも偉いぜ弟くん。しっかり頑張ってね」


対局者の名前は杉本理事長が読み上げた。ひとりひとり簡単なインタビューを挟む。


「準決勝まで勝ち上がりましたね。よく頑張ったね。もうひと踏ん張りだ」


杉本としてはこの4人あたり将来のプロ棋士が誕生すればいいと思う。


子供の名前と顔を覚えたい杉本。いや雰囲気は逆に杉本を知ってもらいたいようだ。


「この子らを棋士にさせるにはそれなりの指導をしてやらなくてはならない。それは僕ら棋士の指導に掛かる」


勝ち上がりの4人が壇上に上がる。杉本会長はニコニコである。まるで愛娘の彼氏を見つけるような笑顔。

「では準決勝を行います。その際に。対局の組み合わせなんですが」


杉本は手元から『詰め将棋』を取り出すと4人に配る。


「解けた方は手をあげてください。A対局とB対局を詰め将棋にて決めていきます」


会場はざわめいた。提示された詰め将棋は難問であった。腕に自信の将棋フアンもいっしょに頭を捻る。


4人の準決勝進出マメ棋士はじっくり詰め将棋に目を落とす。


考え中〜


考え中〜


4人とも頭を傾げ熟慮に熟慮を重ねた。詰め将棋の苦手な子供は辛かった。見ようによっては泣きそうな顔である。


約2分後伊緒の弟がサッと手を挙げた。会場はオオッ〜とざわめいた。出題した杉本も目を見張った。


「2分で解法出来たのか。アマ5段くらいの実力はあるかな」


弟は杉本の許に行き解法を伝えた。杉本は胸の赤い薔薇をちょっと直して解法を聞く。


「宜しいでしょ。偉いね正解だ」


杉本はニコニコしながら小学生の頭を撫でた。愛娘のお婿さんは決まったかな。


弟はA対局の上座に決まり着席をする。どことなく得意気な顔をしてしまう。


「あの子供凄いね。よく解けるな。俺はアマ2段だがさっぱりわかんない」


会場に詰め掛けた将棋マニア。5分経過しても解法に至らなかった。


二番手の子供は3分ぐらいで解法をする。残りの2人は解法に至らずとなる。


「皆さんご苦労様です。それではただいまから小学生トーナメント準決勝を始めます」


杉本理事長の頭には準決勝〜決勝に来る子供が楽しみである。


「開始致します。上座に座った方は先手になります。準決勝は持ち時間20分。使いきりましたら一手30秒読みとなります。始めます」

豆棋士は頭を下げてお願い致しますと声を張り上げた。


一度盤面を向いたらそこに小学生はいなくなる。真剣に盤を見つめるは勝負師だった。


杉本理事長は係員からそっと耳打ちをされた。


「先生A対局のあの子供さんですね」


中学生優勝の女の子伊緒の弟だと知る。


「なるほど。伊緒ちゃんの弟さんですか」


姉の棋譜と将棋が似てなくもないかと納得をする。


「あの子供さんは私の得意な四間飛車戦法を仕掛けてくれましたね。なんとか優勝して全国小学生大会に東海から駒を進めてもらいたいものです。姉も弟もは欲張りさんかな」


その杉本の期待に弟は応えたのか。開始30分あたりで対局相手は匙を投げた。攻め手に事欠きイライラ。気がついたら詰まされたようだ。


「(打つ手は何も)ありません」


A対局は終局をする。振り飛車を使い圧勝した。戦法は杉本の得意な四間飛車である。


勝者は得意げに顔をあげ杉本を見た。目が合う杉本もにっこりと返した。


観客はざわざわとする。勝ち将棋が杉本のそれに似ている。


「あの子供は杉本先生の弟子だろうか。四間飛車を抜群にうまく捌いた感じだ。スカッときれいに決まっていたぜ。駒の動きが子供のレベルを遥かに越えたよ」

アマ2段や3段も同じ意見である。棋譜を見たら危ない局面や無駄な差し回しがなかった。


杉本の表現する絵に描いたような横綱将棋で勝ち将棋である。いや王さま将棋であった。


弟は緒戦からずっと四間飛車戦法を仕掛けていく。小学生の対戦相手は対処方法がわからないまま完敗を喫した。これは杉本7段の得意な戦法。日本将棋連盟でも杉本の代名詞になっているほどである。


「四間飛車は確かに杉本の業。僕の技ですよ。徹底的に究めたいとライフワークにしていますからね。積極的に戦法を使ってもらい光栄の至りですよ」


勝ち上がりの弟さんは他の戦法もじっくり見てみたい気がする。


「中学生優勝の伊緒ちゃんもそうだが飛車や角行の使い方が格段にうまい。姉弟ともだから父親さんか親族が指導されているんだろう。えっ弟さんは教室に所属ですか。自宅はどこかな。近くの将棋教室なら僕も顔を出すから知らないはずはないんだが」


杉本は奨励会に熱心に振り飛車戦法を指導するが街の将棋教室ではまず指導はしなかった。


「教室のお子さんは基本をマスターして将棋を楽しんでいただきたい。それからの話が杉本の振り飛車なんだ」


杉本は父兄席に伊緒の父親が来ていたら話が聞きたいと思った。


大会係員が杉本に耳打ちし教えてくれた。


「あの父兄席右側にいらっしゃる赤いセーターの方がお父さんですわ。緑のブラウスがお母さんでございます。お父さんは伊緒ちゃんに似ています」


杉本は貴賓席から父親を遠目に眺めた。凛々しい男の顔がそこにあった。


休憩を挟み小学生決勝戦となる。


準決勝を勝ち上がるは杉本の期待した子供であった。

「こりゃあ面白い決勝になったぞ。小学生64人の頂点を極める優勝にふさわしい顔だ」


決勝対局まで実力がなければ到達しない。たとえくじ運やマグレがあろうとも。

杉本は貴賓席から立ち上がる。決勝戦の寸評を述べるつもりだ。胸の赤い薔薇をちょっと直して壇上にあがる。


杉本が最も待ち望んだ小学生決勝である。愛娘の婿を決めるがごときの決勝である。


「お待たせいたしました。ただいまから小学生の部決勝を始めたいと思います」

会場はシ〜ンと鎮まりマイク片手の杉本に注目が集まる。


「この小学生決勝は僕自身最も注目してきました。実力伯仲のハラハラドキドキの連続でしたからね」


トーナメント一覧表を眺め杉本はつい本音が出てしまう。


中学生は興味がない。奨励会に中学生から行くよりも伸びしろが期待される小学生がよいと本音を言ってしまった。


決勝の子供が壇上に呼ばれる。杉本はニコニコして子供の名前を読み上げた。呼ぶ名前と顔は棋譜とともに理解していた。たぶんに将来が楽しみな子供さんである。

「決勝はこのおふたりのマメ棋士で対局でございます」


杉本は決勝に上がった子供の顔をみた。準決勝でもちゃんと顔は見ていたはずだったがはてっと思う。


うん?


誰かに似ているような気がする。


名前を確認してみる。名字には見覚えはない。


「気のせいなのか。どことなく往年の名人に似ているような気がしたんだけどね」


名前が呼ばれ二人の小学生は壇上の対局席にあがる。二人とも堂々として壇上である。


杉本理事長はマイクを持ちインタビューをする。


「勝ちあがってきましたね。決勝進出はおめでとうございます。今日は調子がよかったのかな」


マメ棋士はハイッと答えた。インタビューに慣れている受け応えである。


杉本は対局前のふたりに小学校での話を聞く。なるべくリラックスをさせてやりたい。親切な親心である。


好きな科目


好きなスポーツ


好きな将棋の棋士。


「僕は算数と野球が好きです。将棋はですね」


伊緒の弟がハキハキ答える。悦に入った受け応えは清々しさがある。


「好きな将棋は杉本先生です。振り飛車戦法はいつも本とお父さんから勉強しています」


マイクを持つ杉本がニヤリとして照れた。さも参ったなあっという顔だった。


会場に笑いが洩れ場がしばし和んでいく。こうまで露骨に杉本シンパを宣言されては困ってしまう。


「僕を指名していただきありがとう」


杉本は嬉しくてたまらない。根が正直な男である。顔に真心が出てしまう。


「君に対局後になにかプレゼントをしたいなあ」


観客はドッ笑い弟はエヘヘッと下を向いてはにかんだ。


僕は決勝戦も杉本先生の得意戦法"四間飛車"でいくよ。優勝して杉本先生に褒めてもらいたいもん。


杉本がマメ棋士にマイクを向ける。観客がざわめき会場全体が和んだ後である。

「僕は好きな科目は理科です。スポーツは特にありません。観たくもありません」


ピシャリと答えた。対局相手はにこりともしない。クールにポーズを決めスポーツなどやる気も見る気もまったくないと不快感である。


「将棋は名人が好きです」

子供はその風貌がどことなく似ている名人を挙げた。

おおっあの名人が憧れなのか。会場は別の意味でざわめきである。


「名人と似ているな。お孫さんか。名人には息子さんと娘さんがいたよなあ」


対局は始まった。真剣勝負師は頭をペコリとさげ盤面を睨みつける。


「よろしくお願い致します」


パチン


壇上での対局は始まる。ふたりは緊張はしていない様子。ごく普通の将棋を指す姿勢である。


序盤の駒組みが進み弟は杉本の本の通り四間飛車を差した。飛車がスルスルと定位置に収まる。


会場から将棋フアンを中心にホォっ〜と声が洩れた。

「この子は全対局を四間飛車で戦うぜ。よほど勉強して自信があるんだろうな」

飛車駒がピタッと定まり敵陣を睨む。飛車を回す指先は力をため威力があった。

飛車の動きとともに杉本をチラッと気になってしまう。振り飛車は自信に溢れた戦法であり決勝の勝負にふさわしいしかるべきものと過信をした。


対して名人は顔いろひとつ変えずである。自陣の駒組みを淡々と指し飛車が睨みつけようが居飛車であろうがマイペースである。


観戦する杉本はこの落ちている子供が言った好きな名人の将棋に引っ掛かりを覚える。


「あの名人が生きていらっしゃったら何歳ぐらいだろうか。風貌が似ていらっしゃるから親戚の子供さんという可能性もある。出身地は名古屋に縁がないが娘さんならお嫁さんに来ていらっしゃるかもしれない」


会場の観客席の年配アマ高段者から棋譜に似たものがあると意見が飛ぶ。


「あの名人が好きなだけあるな。棋譜がどことなく似通(にかよ)う。あの小学生は名人の孫になるのかな。顔を見るとそんな風貌している」


ざわざわと名人の話題が広がる。観客から杉本理事長に聞いたら真偽のほどがわかるかと囁かれた。


パチン


パチン


熱戦となる決勝戦。互いに序盤は譲らず互角である。

パチン


パチン


中盤戦には長考も見られ難しい局面が待っていた。


パチン


パチン


「お伝えいたします。ただいま持ち時間を使い切りました。これより秒読みに入ります。よろしくお願い致します」


持ち時間を同じく使い切るふたりである。


フゥ〜


ふたり揃って大きく肩で息をした。秒読みとなる。観客はいよいよ終盤に向かい激突が始まるぞとワクワクした。


杉本も熱い戦いに期待をする。アマの観客と同じ気持ちで対局を眺める。


「中盤戦まではまったくの互角だ。四間飛車は僕の戦法そのものを真似している。かなり本を読んだらしいな。あの駒組みは僕が佐藤棋聖に初めて使い勝ちを収めた戦法だ」


佐藤に勝ちを収めたのは杉本が4段か5段の時代のことだった。まさかこんな小学生の対局でお目にかかるとは驚きである。


「対局は終盤戦に向かい互角のまま睨みあい。秒読みになると焦った方が負けだ。緊張しないで落ち着き払ってくれ」


杉本の懐かしい戦法を使ってもらいついこの子供に加担してしまう。公平さに欠ける理事長になった。


「熱戦の将棋を最後まで期待している。頑張ってくれ将来のマメ棋士よ」


杉本は壇上から貴賓席に戻ると腕組みをする。目の前にパイナップルジュースが半分飲み掛けで置かれていた。チラッと見て愛娘を思う。


愛娘の婿さんはまだまだ見ることはない方がいいなあ。


決勝の盤面は壇上に掲げられた。パソコンに取り込まれた棋譜は大画面に映し出され会場の観客は息を潜めて観戦をする。


拮抗する対局である。将棋マニアは居ても立ってもいられない。膠着状態を打破させてやりたい。難しい局面は随所にありまるで名人戦かタイトル戦の様相を見せていく。


「杉本先生。この先どうなるんですか。強い棋士と強い棋士の対局ですな。私は見ているだけで喉がカラカラですよ」


杉本の前のパイナップルジュースでも召し上がろうかと思うくらいカラカラである。


年輩にはパイナップルなどはお子さまの飲み物で手はつけない。


「あの中飛車が今後どう走るんですかね。強引に敵陣中に飛び込みするのかと気が気ですよ。先生の四間飛車ならばあの後はどうされたらよいんですか」


フアンは貴賓席の杉本まで聞きにくる。いたって熱心であり将棋に夢中だった。

「今のところまったくの互角ですね。あの四間飛車がこの局面で有利かどうか。専門の私にも判断は難しいですよ。そろそろ飛車を捌きあげないと不利な展開とも言えますけど」


杉本がフアンに大画面を指差しながら盤面の説明を始める。


「先生私にも解説してください。子供だと思って観戦していましたがどうしてどうして。次々難しい手ですわ」


瞬く間に杉本は年輩フアンに囲まれていた。アマチュアの愛棋家に四間飛車戦法は憧れであり指し回しは夢である。


「わかりました。ゆっくり(四間飛車を)ご説明致します。後手番の飛車ですが」

秒読みの対局は終盤戦に入る。お互いの駒は膠着のまま。これからは思うように捌けた方が有利である。


駒が激しくぶつかり合い勝つか負けるか一瞬も目が離せぬ時がやってきた。


対局の小学生はピンチであろうがお互い背筋をピンッと伸ばしている。その凛とした姿勢は観客に評判がよかった。


近い将来の名人戦を彷彿させるふたりの姿である。


「ねぇあなた。あの子供って対局が礼儀正しいわ。あんなに長い時間対局しても凛とした姿。将来棋士さんになってもらいたいなあ」

将棋には詳しくない御婦人たち。局面はさっぱりだが子供の勝負師の姿勢には好感である。


「だけどあの子供さん誰かに似ていないかしら。私さっきから考えているんだけど。思い出せないなあ。誰に似ているかなあと思っているんだけど」


父兄の席で子供に似た棋士が話題になる。


「似てる?誰にだろ。俺は何とも思わないぞ。それよりも将棋を見ていろよ。横でガチャガチャ言わないでくれ。気が散るじゃあないか」


アマ2段の父親に風貌など無関心である。勝負の行方に興味で頭の中はチンチンである。


だが付き添いの母親は将棋そのものに興味とはいかない。せっかく楽しみができたとプイッと横を向いてしまう。


隣り合わせの奥さんも気になっていたようだ。


「あのぅ奥様。実は私も誰かに似ているなあと思ってますの。名人になられたあの棋士さんに似てますわ」


同じく旦那にこれまた叱られた立場の母親であった。

「あらっ奥様もそう思いますの。似てますわよねぇ」

将棋シロウトの母親同士。将棋にチンプンカンプン同士は話題が合う。


対局は終盤からいよいよ終局を迎える。伊緒の弟は詰みを読み銀将を敵陣にぶっつけた。


戦闘開始である。勝ちを見て攻め将棋を展開である。

「杉本先生見てください。僕はこの将棋を勝ちます」

パチン


「昨年の大会。小5で負けたあの悔しさはもう二度と味わいたくはないです。この一年間杉本先生の本をどれだけ読んだことか。僕が四間飛車(戦法)で負けたら杉本先生の本のせいだ」


パチン


四間飛車戦法という鬼の攻め将棋。対局をする名人には初体験である。将棋クラブではたまに見掛ける程度の認識だった。


駒の連係や動きがどうしても把握できず対処に苦労している。


「駒のぶつかり合いだ。この中央の銀将打ちはまったく無意味な手だろう。何を(たくら)んでぶつかりにきたのか意味がわからない。ちくしょう秒読みが早くて手が読み切れない」


10秒・・5秒4秒


パチン


名人は不気味さが募りすぐさま銀将を歩兵で取る。わけのわからぬ一手。その差した手はブルブルと震え止まらない。歩兵を捌いた名人は蒼白である。


囮で打ち込んだ銀将を歩兵で取られた弟はキリリ。嬉しい顔をし拳を握りしめ内心はニヤリである。


パチン


「しめた。作戦通りに銀将を取ってくれた。縦横のバランスが崩れてくれた。このまま一気に攻めてやる」

パチン


「王将を囲むやぐらなんか一気に崩してやる。優勝はもらうぞ。中学生優勝はお姉さん。小学生優勝は弟の僕。姉弟でいただくんだ」

パチン


怒濤の攻めが始まった。銀将の犠牲で僅かにバランスが崩れた縦のライン。ここぞとばかり王将取りに攻めの将棋は邁進をする。


詰めろ詰めろ。このまま攻めて勝利に一直線と行きたい。


パチン


対する名人は旗色が悪くなるばかりである。将棋クラブでは攻めて攻めての防戦の経験がない小学生である。


10秒・・5秒4秒


パチン


秒読みの早さに気が散る名人。将棋を指す姿勢も背中はグニャリと曲がり将棋永世名人の面影もなくなってしまう。


ピンチである。攻められてしまい防戦一方となる。小学生の棋士は涙が出てしまう。


「お母さん助けて。負けちゃうよ。このままでは負けちゃう。守るだけでなく攻めなくては負ける」


10秒・・5秒4秒


パチン


将棋に集中できない。


10秒・・5秒4秒


パチン


時間が欲しい。守るための駒をどうするか。悩みながら指先は駒を指す。


パチン


ついに誤手を指す。


アッ!しまった


名人の右手が少し震え駒から離れた。一瞬にして誤手だったと気がつく。


名人はこの手で負けたと思い白目を見せた。勝利は逃げたと天井を眺め泣きたくなった。


10秒・・5秒4秒


対しての弟である。悩み出してしまう。


「杉本先生。この手はなんですか。守るべき駒を手放して打ち込みしたのはなんでしょうか」


貴賓席は貴賓席で盛り上がっていく。杉本は興奮からパイナップルジュースを盛んに飲んだ。


終盤は緊張をするから早く仕掛けてくれ。杉本は自局の将棋と思い手が拳となっていた。


仕掛けた後はどちらが先に王手を掛けるかである。


詰めろ


詰めろ


杉本は冷静でなくなっていた。


パチン


大画面を見ながら杉本は普通の将棋フアンに成り下がる。


名人が手を震わせ誤手をした。考えが纏まらず後悔している。


だが杉本は気がつかない。誤手を誤手と認めることができない。これだけの盤面を終盤まで展開する実力は名人クラスではないか。


アマチュア高段者に匹敵する実力がたまさか誤手をするとは微塵にも疑わない。

「反撃の手でしょうね。ずいぶんと思い切った手ですよ」


観客のアマ有段者は唸った。考えもつかない手を閃いた。さすがプロは見る目が違うなあっと関心する。


さらに杉本は熱弁をしてしまう。一口飲んだパイナップルジュースは甘味の覚えも冷たさもなかった。


「なかなか思い付かない斬新さがあります」


名人の悔やむ誤手に解説を加えていた。


10秒・・5秒4秒


パチン


弟も放たれた駒が誤手だとは思っていない。なにが目的なのか悩む。


「なんだこれは」


10秒・・5秒4秒


わけがわからない。守るべき駒が守られず自陣の王将をキリッと睨んでいる。


正直に駒の睨みは困ってしまう。敵将の将棋が攻めろの意図わからない。ひたすら(あせ)ってしまう。


10秒・・5秒4秒


「これでやられてしまうのか。悔しい時間が少ない」

パチン


※そのまま銀将を無視して攻め立てれば勝ち将棋である。


秒読みの慌ただしさ。強い対局者と決勝対局であるという雰囲気が焦る気持ちを呼んでしまう。


10秒・・5秒4秒


パチン


「しっしまった」


今度は弟が誤手である。攻めたい気持ちと嫌々ながら守る気持ちがとんでもない手を指してしまった。


貴賓席の杉本は誤手に気がつく。


「あちゃ(弟さんは誤手を)やってしまったな」


果敢に攻めたい手に水を差してしまう。杉本はこれで逆襲を受けて決まりだと思った。


貴賓席の観客にも誤手は理解できた。


「あわてて指したんでしょうね。残念なことだがしくじってしまいましたね」


指先を離すと盤面が視野に入る。ことの重大さがだんだんとわかり配色濃厚を悟る。


10秒・・5秒4秒


手が駒を持つことができない。そのまま秒読みが続き時間切れになる。


「(打つ手は)ありません」

弟は深々と頭を下げ負けを受け入れる。


会場に勝負決着の拍手が起こる。


パチパチ


パチパチ


父兄の席では優勝した名人の父親が席を立ち回りに頭をさげていた。


決勝は呆気ない幕切れとなった。中盤まで力の拮抗するハラハラドキドキのいい将棋。実力のある対局だっただけに誤手の一手はいただけなかった。


負けた者は盤面を眺めて放心状態である。誤手が生じたのは他人が駒を指したのではないかと勘繰る。


敗者は戦場を退きたくなる。お尻をもぞもぞさせて立ち上がろうかとしたら杉本が大会主催者として壇上にあがる。


ニコニコしながらマイクを握ると大会の寸評を軽くコメントをする。


「大会は熱戦でした。レベルの高い対局ばかりで僕ら棋士も驚きです。毎年好対局が増えているようです」

優勝した小学生にトロフィを授与する杉本。準優勝の小学生にも記念の盾である。


「決勝はよい将棋でした。手に汗握る対局でした」


しめっくくりの挨拶をする杉本。胸の赤い薔薇はどうしたことか潰れて枯れていた。


優勝した小学生と中学生は次週に東京で開催される全国大会に駒を進めることになる。


「全国大会は頑張ってもらいます。東海地区代表として小学生も中学生も優勝を願っています」


会場からの拍手は実に温かい。優勝した子供は実力充分であり全国大会でも活躍が期待されそうである。


大会は盛況のうちに閉幕をし杉本理事長は大役を無事に果たした。


伊緒は車の後部座席で中学生優勝のトロフィを膝にしていた。


「伊緒ちゃん優勝はよかったね。今度は東京か。千駄ヶ谷の将棋会館らしいな。お父さんは仕事があるから応援には行かれない。残念だがいけない。娘が全国大会で将棋を指しますから休ませてくださいとはいかないかならなあ」


母親は優しく笑う。


その横で不貞腐れた弟がいた。もう少しで念願の優勝の将棋であった。


姉の優勝を横目に車窓から景色ばかりを覗きつまらない帰り道だった。

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