―第55話― 三つの無意識
――規則的な走行音とその振動が全身を通して伝わってくる。
周囲すべての音を飲み込むように、それは観衆の目の前を通り過ぎた。貫くように響くブレーキ音。徐々にスピードを落とし電車は、最寄り駅である笹枝総合病院前に停車した。同時に踏切信号機の音は止み、遮断機が上がる。
コトハは辺りが静かになるのを確認すると、菊袖の問いに答えた。
「はい。正確には、駅の時刻表の時間帯ですが、この場合イコールと考えていいでしょう。これこそが第三の心理『条件反射』」
「条件反射って、あの?」風間刑事がおもむろに尋ねた。
「はい」
「でも電車の通過が条件反射と何の関係があるんだい?」
「そうですね……有名所だと、パブロフの犬の実験など知っていますか?」
パブロフの犬の話は条件反射の事例としてよく挙げられている。犬にエサを与える際、その合図としてベルを鳴らすようにしたところ、やがて犬はベルを鳴らしただけで唾液を出すようになるという実験だ。
本来、反射行動というものは生物が生まれながらに持つ本能行動、すなわち先天的なものに対して使われることが多いが、この場合は経験や習慣などから後天的に獲得される反応とされている。
「……そうやって数日間もの間繰り返されている習慣は、時として自分の意志とは無関係に体を反応させる力があります。今回の場合はそれが踏切信号機。特にその音に大きな影響があるみたいですね」
コトハは解説を続けた。確かに、あの信号の点滅音はどこか耳に残る印象だ。
「その点滅と音は電車の接近を知らせる効果、つまりは危険の知らせです。その音が解除された時、被害者は反応してしまったんです。横断可能だとね。それが例え横断歩道だったとしても」
その場で聞いていて驚かれる思いだった。この横断歩道、別名心霊歩道は、こちら側から渡ろうとすると必然的に踏切が目に入る位置にある。たとえそれを見なくとも、その音はたとえ耳をふさいでいたとしても聞こえくるだろう。たった今、それとわかっているオレでさえ自然と体が動き出すような錯覚を覚えた。
「これら三つの無意識のうち、始めに言ったように『同調効果』と『ストループ効果』は被害者の視覚操作、そして『条件反射』は聴覚操作をしたことになります」
人が一般的にもつ感覚は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚と言われている。この五感のうち、視覚と聴覚、その役割がはたすところがどんなに大きいかは、ここにいる誰もがわかっているだろう。
もし、コトハの言う三つの無意識を同時に操作されるようなことがあったなら……。
「では二つの時間帯をレイヤーとして重ねてみましょう」
コトハはそう言うと再び画面をタップする。重なった時間帯は電車が踏切を通過する時間帯と、被害者が事故に合った時間帯。驚くことに、電車が通過する時間帯の中に被害者が事故に合った時間帯がすっぽり収まるような形をとっていた。
そろそろじれったくなるのはオレだけではないはず。ここまでのコトハの推理、肝心なところがいまだ明確にされてはいない。被害者は事故ではなく事件に巻き込まれた。そしてそこにはありとあらゆる心理的トリックが存在した。そうなるとおのずと一つの像が浮き彫りにされていく。
それは無論、『犯人の存在』だ。
「となると、皆さんが考えているのは『いったい誰が犯人か』ということですよね?」
オレの心を読み解くかのようなタイミングでコトハは口を開いた。前にも彼女に心を読まれたような錯覚があったが、人間とは良くも悪くも慣れるものだ。
ただそれだけに、周囲の人間が今どんな心境なのか、オレにも手に取るようにわかる。かつてのオレがそうだったように。
彼女は続けて口を開いた。
「そう、いったい誰が犯人なのか。……当然のことですが今、この舞台の主人公としてこの場所に来ていただいています」