―第38話― 交渉
「実は先ほどA組の担任、梅山ナツコ先生とバッタリ会いまして。ちょっと鎌かけたらあっさりと認めてくれましたよ、松平先生との関係を」
オレは今まで、こんなに動揺している松平クニヒロを見たことがなかった。少し酔っていたようだが、その酔いも醒めているのではないだろうかと思えるほどに。松平は目を反らしながら会話に応じていた。
「……脅しのつもりか?」
「いえ。これは交渉です」
「なにが目的だ」
海堂は松平に背を向けて言う。
「捕まった同志たちの解放……及び修学旅行中すべての自由」
「ちょっとまて海堂。それはさすがに……な? 解放はともかく、自由に動かれては先生たちも困る」
「冗談ですよ。消灯時間の自由くらいに負けてあげます」
「わかったよ。でもPTAには内緒でな」
「交渉成立ですね」
――もはや海堂の思い描いたシナリオ通りの展開だった。まさかこんな形で消灯後の自由を約束されるとは。しかし、後ろめたいことをこっそりやることを醍醐味だと思っていたオレにとっては、腑に落ちない展開だった。松平が去った後、オレたち三人はソファーに腰かけている。
「下手に出たふりして大層な交渉ね。消灯時間の自由だなんて」コトハはあきれた顔で言った。
「まぁ、対して意味ないかもしれませんけど」
「なんでだよ。明日からの消灯は自由だろ?」
オレは自動販売機で買ったお茶を飲みながら海堂に尋ねる。
「まぁ、明日になってみればわかりますよ」
「……ところで海堂。A組の梅山先生と松平ってそういう関係だったのか?」
「職業がら、そういう事には敏感なもんで、見てたらわかります」
「梅山先生には何て鎌かけたんだよ?」
海堂は唖然とした顔をすると、今度はコトハに視線を向けた。コトハは目をつむったまま首を横に振っている。
「ああ、あれ嘘ですよ。梅山先生には会ってません。結果的には、松平先生に鎌かけたんです」
「え? あ、そういうこと」
どうやらコトハは気が付いていたようだが、松平先生も気付かなかったんだ。酔って動揺していた松平先生も……。
なんだか自分という人間がみじめに思えた。
「――さて。明日の朝も早いんで、僕はこのへんで失礼します。また会うこともあるでしょうから」
海堂はそう言って自分の部屋へと帰って行った。彼にとってはほんの暇つぶしだったのだろう。しかし、また会うこともあるでしょうという表現を、同じクラスの人間に使うのはおかしいだろう普通なら。コトハにしても海堂にしても、もはや普通じゃないからしょうがないか。喉の乾きも満たされたことだし、そろそろ戻るとするか。
「じゃあ、オレはそろそろ戻るよコトハ」
オレは彼女に別れを告げて本来戻るべきである自分たちの男部屋へと帰ろうとした。
「え……ちょっと待ってよシゲルくん! 私の用を済ませたいんだけど……」
「はぁ? 用ってなんだよ」
「……シゲルくん、あなたモテないでしょ?」
結局オレは、ただ怖くて一人でトイレにも行けない妹分のコトハに付き添い、再び二階へと戻ることになる。松平先生、保護者も大変なんですね、と心の中で一人つぶやく自分いた。
――翌日、『消灯時間の自由』の噂はオレたち学生の間でたちまち広がった。最初のうちは皆が喜びの色を隠せないでいたにも関わらず、どういうわけか消灯時間にはちゃんと就寝していた。オレも初日ほど遅くまで起きている気力はない。なるほど、海堂が言っていた、『明日になれば分かる』とはこのことだったのか。結局はしおりに対する反抗心がオレたちの動力源にすぎなかったのだ。松平がこの結末を仕組んだのか、はたまた海堂が仕組んだのかその真相はわからない。ただ、コトハもまた、こうなることを知っていたのだろう。
******修学旅行編・完