―第10話― 放課後のプール
やがてゆっくりと動き出すものの、その不自然さからさすがに察する事ができた。彼女、姫ヶ谷コトハは――泳げなかった。
見たところ水面に顔を付ける事は出来るようだが、いくらバタ足をしても前に進むことなく沈んでゆくその姿は、ある意味夕日よりも鮮やかだった。なんてことを考えていた。
「って、泳げなかったのかよ」
考えてみれば水泳の特訓初日も、姫ヶ谷だけタイムを計っていなかった。その裏にはこんな理由があったとは。今思えばカナツジを見ていたあの観察眼も、どうすれば泳げるようになるのかを自分なりに研究していたのかもしれない。そう考えているうちに、沈んだ姫ヶ谷が浮いてこない事に気づく。『潜水でもしているのだろうか』、という考えが一瞬浮かびはしたものの、状況が事の深刻さを説明していた。
「おい、姫ヶ谷!」
彼女は本気で溺れていた。――気がつけばオレは既に教室を抜け、プールサイドまでダッシュしている。
「姫ヶ谷! おい、姫ヶ谷コトハ! くそっ!」
制服を着たままプールに飛び込む。もはや考えるよりも先に体が動いていた。やや水嵩がましたプールの水は、いつもより重たく感じる。ぼやけた視界で姫ヶ谷を捕らえると、その手を取り強く引き寄せた。自分よりも先に水面上に彼女を押し出す。
「ゲホゲホッ! はぁはぁ……」
「おい姫ヶ谷っ! 深呼吸だ、深呼吸しろ」
プールの浮力を受けている事を視野に入れても、小柄で華奢な姫ヶ谷の体は思っていたよりも軽かった。そのままプールサイドまで引き上げる。溺れてからすぐに引き上げた事が幸いし、意識はあるようだ。
「おい、大丈夫か?」
「…………」
姫ヶ谷は蹲ると、しばらくその呼吸を整えていた。
「お前なぁ、泳げないなら最初からそう言えよ。心配しただろ」
「…………」
姫ヶ谷は沈黙を続ける。オレは蹲る彼女に目線の高さに合わせると、両肩に手を置きその顔を覗きこんだ。黒髪からつうと滴れ落ちる雫は、雨水かプールの水だろう。その隙間から窺える表情より、頬をなぞるように零れ落ちたそれは、きっとそのどちらでもなかったように思う。オレはただそこに立ち尽くした。
「……今日はもう帰ろう」
そう言って、ベンチの上に置いてあったタオルを姫ヶ谷の肩にかけ、女子更衣室の前まで送った。オレはびしょびしょになった制服を絞り、ズボンの裾を捲くり上げ、教室まで移動するとジャージに着替える。幸い今日の放課後、水泳特訓で使う予定だったタオルを持ってきていた。
やがて制服に着替えた姫ヶ谷が、口元をタオルで押さえたまま教室へと戻って来た。
「――……ゴメンなさい」
それが彼女の第一声だった。
「大丈夫か」と尋ねるオレに、姫ヶ谷コトハは黙って頷いた。いつも勝気な彼女がこんなに弱々しい一面を見たのは初めてで、オレは少し戸惑っていた。
「今日はもう帰って休んだ方がいい。 一人で帰れそうかい?」
「うん、ありがとう」
姫ヶ谷はそう言って教室を後にする。
「よし、オレも帰るかな」
彼女の後を追うような形で、玄関まで下りてきたオレは一つの問題点を思い出した。
『しまった』――傘を持ってきてないんだった。玄関で立ち往生するオレを横目に、姫ヶ谷コトハは折りたたみ傘を広げると、こうつぶやいた。
「……入っていく?」