『声を失った歌姫は、喉の傷跡ごと私を捨てた婚約者に「もう二度と歌わない」と微笑んだ』~前世で音楽家だった私は、この世界で本当に大切な旋律を見つけます~
「その傷、見苦しいから舞台では隠しておけ」
婚約者であり大聖堂の楽長でもあるユリウスは、扇の先で私の喉の傷跡を指してそう言った。
私が――王国一の歌姫リリアーナが、彼を庇って毒の霧を浴び、二度と歌えなくなった、その傷を。
(……は? 私、あなたのために歌えなくなったんですけど?)
心の中でそう乾いたツッコミを入れる。声はもう、出ない。
前世――日本で声楽家だった頃、私は声を守るために全てを捧げてきた。冬でもマフラーを二重に巻き、辛いものを避け、カラオケの誘いさえ断った。それが、こんな形で報われるとは。
転生してこの世界で得た「聖歌の才」。歌に魔力を乗せ、癒やしと祝福をもたらす力。それで王国一と謳われた。この男の婚約者として、大聖堂の祭事の主役を務め続けてきた。
その全てを、彼を庇ったあの一瞬で失った。
「聞いているのか、リリアーナ」
金髪碧眼の華やかな美貌を苛立たせて、ユリウスは続ける。
「歌えぬ歌姫に、価値はない。傷物の令嬢を娶るわけにはいかないのだ。わかるだろう?」
(わかりませんね。命を助けられておいてその言い草、人としてどうかと思いますよ)
――もちろん、口には出せない。出せる声がないので。
私は静かに羽根ペンを取った。かたわらの白紙に、一切震えぬ筆致でこう書く。
『わかりました。もう二度と、あなたのためには歌いません』
ユリウスの顔が、一瞬だけ引きつった。それはそうだろう。彼は「あなたのために歌えない」ではなく「あなたのためには歌わない」という、私の選択としての拒絶を、たった今、読み取ったのだから。
もう一枚、白紙にそう記して、私は微笑んだ。
『――さようなら、楽長様』
喉の傷が、ずきりと疼く。けれど不思議と、心は凪いでいた。
◆
「お姉様……!」
聖堂の柱の陰から、栗色の巻き毛を揺らして駆け寄ってきたのは、ソフィアだった。
私が妹のように可愛がってきた、元見習い聖歌隊員。潤んだ大きな瞳、庇護欲をそそる可憐な顔立ち。
「わたし、聞きました。お姉様が……声を。ああ、なんてこと」
はらはらと涙をこぼしながら、ソフィアは私の手を握る。
「大丈夫です。わたしが……わたしが、お姉様の分まで歌います。だから、どうか安心して」
――ああ、なるほど。
私は前世の勘で、その言葉の裏を一瞬で見抜いた。
涙で潤んだ瞳の奥。ほんの一瞬だけ、この子の目が、光った。勝ち誇った、氷のような光。
(なにこの子、怖い)
それは「慰め」の顔をした「宣戦布告」だった。お姉様の分まで、ではない。お姉様の舞台を、奪います。そういう意味だ。
そしてこのタイミングでの登場。ユリウスが婚約破棄を告げた、まさにその直後。まるで――全て、打ち合わせ済みだったかのように。
「ソフィア」
ユリウスが誇らしげに彼女の肩を抱いた。
「彼女こそ、次代の歌姫だ。リリアーナ、君も祝福してくれるね?」
(いや、しませんけど。……でも、この二人に何を書いても通じない。愚かさは、言葉では治らないもの)
だから私はただ、白紙にこう記した。
『新しい歌姫の門出に、心からの祝福を』
ソフィアの唇の端が、満足げに吊り上がる。
「……ありがとうございます、お姉様」
ユリウスは「わかってくれて嬉しいよ」と微笑む。
二人とも、気づいていない。
私が「祝福を」と書いた文字の、その筆圧が――怒りでも悲しみでもなく、確信で満ちていたことに。
(この子は、模倣しかできない。声だけで魔力を乗せる技量なんて、ない)
(そして、この毒の霧――暗殺未遂。手引きしたのは、誰?)
喉の傷が、また疼いた。
この傷は、ただの傷じゃない。私はそれに、うっすらと気づき始めていた。
◆
大聖堂を去った私が真っ先に向かったのは、街一番の楽器職人の工房だった。
白髭のゴットフリート爺さんは、私が差し出した一枚の楽譜を見るなり、しばらく黙り込んだ。
「……お嬢さん。あんた、声を失ったって噂じゃなかったか」
私は頷いて、羽根ペンを走らせる。
『はい。もう歌えません。でも、それは問題ではないんです』
「あぁ?」
『聖歌の力の本質は、喉ではありません。魔力を旋律に乗せる――その“設計”です。音の高さ、間、和音の重なり。それを正確に組めば、楽器でも同じことができるはずなんです』
前世の作曲理論。音大で叩き込まれた楽典と和声学。この世界の歌姫たちは「才能」と「喉」で歌ってきたけれど、私は“理論”で音を分解できる。
歌わずに、聖魔法を鳴らす。
ゴットフリート爺さんは、皺だらけの指で楽譜をなぞった。そして、ふっと笑った。
「……なるほどな。この和音の積み方、聖歌隊じゃ誰もやっとらん。理屈で祈りを組み立てやがった」
爺さんは楽譜を机に叩きつけ、しわがれ声で言った。
「声を失っただァ? 馬鹿言うな。お前さんの音楽は、まだ死んどらんよ」
胸の奥が、じんと熱くなった。
『……ありがとうございます』
「礼はいい。それより仕事だ。このオルガン、共鳴筒をいじって魔力の通りを良くしてやる。……ふん、面白ぇ仕事だぜ、久々にな」
こうして私たちは、「歌わない聖楽団」を旗揚げした。
筆談とオルガンで、市井の人々に治癒魔法を振りまく。熱の下がらぬ子どもに、癒やしの旋律を。傷の癒えぬ老人に、祝福の和音を。
民衆は、瞬く間に私を支持した。声なき歌姫の奇跡は、口伝えに王都中へ広がっていく。
そして――もうひとつ。
私は、喉の傷跡を鏡でじっと見つめていた。
毒に焼かれた、赤い紋様。それはただの火傷ではなかった。特定の紋章魔法の残滓が、皮膚に焼き付いている。
(この形……見覚えがある。貴族の紋章魔法だ)
毒の出所が、この傷に刻まれている。
『隠しておけ』と、ユリウスは言った。
――残念でした。この傷こそ、あなたたちを終わらせる証拠なんですよ。
◆
その男が工房を訪ねてきたとき、ゴットフリート爺さんは思わず金槌を取り落とした。
頭ひとつ抜けた長身。黒髪に鋼色の瞳。顔には古傷。近衛騎士団長アルヴィス・ドラクマール。周囲から『喋る岩壁』と恐れられる、無口な大男。
「……リリアーナ・ヴェルフェンハイト嬢」
低く、地の底から響くような声。私は身構えた。ユリウスの差し金だろうか、と。
ところが。
「……あの日。俺は、あなたを守れなかった」
アルヴィスは深く、深く頭を下げた。強面の巨体が、ぎこちなく折れ曲がる。
「近衛でありながら、毒の霧を防げなかった。あなたが……あなたが楽長を庇って前に出たとき、俺は間に合わなかった。ずっと、悔いている」
『……いえ。あなたのせいでは』
私が書くより早く、彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには――私の喉の傷跡と、まったく同じ紋様が、精密に写し取られていた。
「あなたの傷に残る紋章。これを、密かに解析していた。……これは、メルヴィーン派の貴族が用いる暗殺用の紋章魔法だ。証拠を、集めている」
『……あなたが?』
「あなたの声を奪った者を、許せなかった」
無表情のまま、そう言い切る。けれどよく見れば、鋼色の瞳が、うっすらと潤んでいた。
(この人――涙もろいのか)
「あなたの声がなくても」アルヴィスは、朴訥に続けた。「あなたの旋律は、聞こえる。街で、あなたのオルガンを聴いた。……あれは、祈りだった」
胸を突かれた。声を失ってから、誰もそんなふうには言ってくれなかった。
私は少しだけ迷って、白紙にこう書いた。
『歌えない歌姫の演奏を、聴きに来てくれますか』
すると彼は、驚くほど真剣な顔で、こう答えた。
「行く。……歌えないなら、じゃあ、俺が拍手係になる」
『……は?』
「あなたが演奏を終えたら、俺が一番大きく拍手する。それが、俺の役目だ」
真顔だった。冗談ではなく、本気でそう思っている顔だった。
ゴットフリート爺さんが、堪えきれずに噴き出す。
「ぶはっ……!」
私は――思わず、声にならない笑いをこぼしてしまった。
『……よろしくお願いします、拍手係様』
アルヴィスの顔が、みるみる赤くなった。強面の大男が、耳まで真っ赤にして、ぷいと横を向く。
(なにこの人。……ちょっと、いい)
喉の傷が、今日はあまり痛まなかった。
◆
王国最大の祭事の日。
大聖堂には王侯貴族が居並び、新歌姫ソフィアの初舞台に注目が集まっていた。
ソフィアは白い聖衣をまとい、可憐な微笑みで祭壇に立つ。ユリウスが誇らしげに指揮棒を掲げる。
そして――ソフィアが、歌い出した。
澄んだ、美しい歌声。だが。
(……ああ、やっぱり)
私は民衆の群れの中で、確信した。
ソフィアの歌は、ただの模倣だ。私が幼い頃、遊びで教えてやった発声技法の、劣化コピー。音は綺麗でも、そこに“魔力を乗せる設計”がまるでない。
聖歌が、聖歌になっていない。
案の定だった。
本来なら聖堂を満たすはずの祝福の光が、まるで灯らない。ざわめきが広がる。ソフィアの声が上ずり、音を外す。
「な……なぜ、光が灯らない……!」
ユリウスの顔から血の気が引いていく。彼にとって聖歌とは「美しい声」でしかなかった。だから彼は、本質のない歌姫を選んでしまった。
「あ……っ、ど、どうして……!」
祭壇の前で、ソフィアは完全にパニックに陥り、歌を止めた。
聖堂は、凍りついた沈黙に包まれる。
その、沈黙を破ったのは――重厚なオルガンの、荘厳な一音だった。
聖堂の大扉が開く。
民衆に担がれ、ゴットフリート爺さんの改良した共鳴楽器を携えた「歌わない聖楽団」が、堂々と入場してくる。
その先頭に立つのは、私。
リリアーナ・ヴェルフェンハイト。声なき歌姫。
「リリアーナ様だ!」「本物の歌姫が来たぞ!」
民衆の歓声が、聖堂を揺らす。
私はゆっくりと祭壇へ歩を進めた。喉の傷跡を――ユリウスが「隠しておけ」と言った、あの傷を、あえて何も隠さず、堂々と晒して。
そしてオルガンに向かい、指を鍵盤に置いた。
一音、鳴らす。
瞬間――聖堂が、黄金の光で満ちた。
「光が……! 聖堂が、黄金の光に満ちていく……!」
祝福の魔力が、天井から降り注ぐように広がっていく。人々が息を呑み、涙する。ソフィアがいくら歌っても灯らなかった光が、私の“歌わぬ演奏”で、こんなにも簡単に。
祭壇の上で、ユリウスが呆然と立ち尽くしていた。
「ば、馬鹿な……歌ってすら、いないのに……」
(失って気づく? 遅いのよ)
私は、彼にだけ見えるように微笑んだ。
◆
演奏を終え、聖堂を光で満たしきった私は、ゆっくりと一枚の白布を掲げた。
そこには、大きく、こう書かれていた。
『この傷は、あなたを庇った証。そして――あなたの罪の証です』
聖堂がどよめく。
私は喉の傷跡に、そっと指を添えた。
そして、次の白布を掲げる。
『毒の紋章魔法は、傷に残滓を焼き付けます。私の喉には、暗殺を企てた者の紋章が刻まれています』
「なっ……そ、そんなものは、こじつけだ……!」ユリウスの声が裏返った。
その時、聖堂の奥から、鎧の足音が響いた。
近衛騎士団長アルヴィス。彼は王国騎士団を率い、私の傍らに立った。手には、傷の紋章を写し取った羊皮紙と、鑑定書。
「王国騎士団による鑑定の結果を報告する」
地を這うような低い声が、聖堂に響き渡る。
「リリアーナ嬢の喉に残る紋章は――メルヴィーン家に連なる貴族の暗殺用魔法と、完全に一致した。あの日の毒の霧は、大聖堂楽長ユリウス・カンタレラを標的とした暗殺計画であり」
アルヴィスの鋼色の瞳が、祭壇のソフィアを射抜く。
「その手引きをしたのは――新歌姫ソフィア・メルヴィーン。結託した貴族と共に、計画を主導していた」
「ち、違います! わたしは、わたしはただ……!」
ソフィアの可憐な仮面が、崩れ落ちる。
「ユリウス様! あなたも共犯でしょう! わたしを歌姫にすると――!」
「な、何を言う! 私は知らない! 私は騙されたのだ!」
祭壇の上で、醜い言い争いが始まる。かつて誇り高く舞台に立っていた二人が、王侯貴族の前で、罪をなすりつけ合う。
(……見苦しい、とはこういうことを言うのでは?)
私は羽根ペンで、そう書いて微笑んだ。もちろん、二人には見せない。私だけの、静かなツッコミだ。
騎士たちが、ユリウスとソフィアを取り押さえる。ユリウスは楽長の地位を剥奪され、共犯の疑いで拘束。ソフィアは暗殺主導の罪で断罪された。
「隠しておけ」と言われた傷が、二人を断頭台へと導いた。
因果応報。
私は、光に満ちた聖堂を見渡した。民衆が、私の名を呼び、涙を流し、祝福を捧げている。
声を失った歌姫は、声を使わずに、この王国で最も遠くまで響く旋律を鳴らしてみせた。
(失って気づく? 遅いのよ)
もう一度、心の中でそう呟いて。私は、静かに頭を垂れた。
◆
祭事の騒動から、数ヶ月が過ぎた。
「歌わない聖楽団」は、王国公認の楽団となった。私はもう、大聖堂の飾り物の歌姫ではない。理論で祈りを組み立て、民のために音を鳴らす――前世と今世、両方の私を丸ごと使える、本当の音楽家になった。
ゴットフリート爺さんは相変わらず口が悪いが、新しい共鳴楽器を作るたびに「ふん、まあまあの出来だ」と満更でもない顔をする。
そして、拍手係の彼は。
「……今日の演奏も、よかった」
アルヴィスは、私の演奏が終わるたびに、聖堂の一番後ろで、誰よりも大きく、真剣な顔で拍手をする。約束通りに。
強面の近衛騎士団長が、毎回律儀に拍手をしにくるものだから、団員たちの間ではすっかり名物になっていた。
「団長、今日も拍手のためだけに来たんですか」
「……業務だ」
「絶対違うでしょ」
真っ赤になって黙り込むアルヴィスを、私はいつも笑ってしまう。
そして――ひとつ、報告があった。
治癒の魔法を、自分自身の喉に、少しずつ。理論で組んだ癒やしの旋律を、毎日、毎日。
完全には戻らない。それでも。
その夜、演奏を終えて二人きりになったとき。私は羽根ペンを置いて、アルヴィスの袖を、そっと引いた。
「……どうした?」
彼が、不思議そうに屈み込む。
私は、ずっと動かなかった喉に、そっと息を通して。
かすれた、けれど確かな声で、ほんの小さく、囁いた。
「……ありがとう」
アルヴィスの、鋼色の瞳が、大きく見開かれた。
そして――強面の大男は、くしゃりと顔を歪め、堪えきれずに、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……っ、あなたの、声だ……。こんな……こんな日が、来るなんて……」
「泣かないでください、拍手係様」
もう一度、掠れた声で、私は笑った。
失ったものは、戻らないかもしれない。それでも私は、本当に大切な旋律を、この世界で見つけた。
喉の傷は、まだ少し疼く。
でも、それは私が誰かを庇える人間だったという、誇りの証だ。
――さて。声を取り戻したこの喉で、次は、どんな旋律を鳴らそうか。
目の前で泣きじゃくる大男の頭を眺めながら、私は静かに、そう思うのだった。




