#08 貴族の婚約
ある日の歴史学の授業で、家庭教師のアンダーソン先生が貴族同士の婚約と婚姻に関する講義を始めた。
「いいですか、トーマス様。貴族同士の婚姻とは、二つの家が血縁として繋がることです。それは貴族にとってとても重要な契約であり、助け合う責任が伴います」
「はい」
言っていることは分る。貴族同士の婚姻がどれほど重要で、政治的な意味合いが強いことは想像できる。要は、恋愛ではなく貴族同士が同盟を結ぶことだろう。日本だって江戸時代までの大名同士はそうやって協力関係を構築していたし、近代になっても政治家や財閥などの政財界でもありがちな話だ。
しかし、跡継ぎとはいえ、6歳の子供になにを教えようとしているのだ?
「そして、婚約も同じです。持参金と生活保障などの契約内容の取り交わしが行われ、内容が守られなかったり、破棄するようなことがあれば重大な契約違反となります。つまり、トランベル王国法で裁かれるのです」
「法律で守られているのですね」
「ええ、そういうことです。そして、法律で裁かれるだけではありません。重大な契約違反は、家名を汚し、信用を失い、大きな政治問題になるのです」
「つまり、社交界すべてを敵にまわして、居場所がなくなってしまうということですか?」
「そうです。さすがトーマス様はご理解が早い。そしてわたくしが言いたいのは、いずれトーマス様が婚約をなされた際には、このことを肝に銘じて、どんなことがあろうとも両家の繋がりを守り、約束を違えないことです」
「わかりました。肝に銘じます」
貴族同士の婚約は、思っていた以上に強固で重要な繋がりなのか。
お見合い婆が「いい人いるんだけど、あんたそろそろ身を固めたらどうだい?」とは次元が違うのか。近代日本だと、婚約は口約束程度だからな。
婚約破棄でも法律で裁かれるとは知らなかった。近代日本だと、どちらかに犯罪や浮気などの過失があって婚約破棄になる場合に慰謝料が発生するが、それはあくまで民法で保障されている損害賠償だからな。トランベル王国法だと刑事罰に当たるのだろう。
じゃあ、日本のアニメや乙女ゲームで流行っていた悪役令嬢と婚約破棄する王太子って、ありえない話ということか。そりゃそうだよな。もし俺がそんなことをしたら、父上どころか母上にも殺されかねない。それが王族だったら、暴動や内乱が起きてもおかしくないだろう。
それにしても、貴族の子息として知っておかなくてはいけない常識だというのは分かるが、なぜ歴史学のアンダーソン先生が教えているのだ。今日は、王国統一時代の講義を楽しみにしていたのに。
と、不思議に思っていたら、その日から言語学、哲学、政治学、そして作法や伝統など躾担当の家庭教師まで、連日おなじような授業が続けられた。
どうやら、俺に対して家庭教師陣が一丸となって、寸分たがわず正しく確実に叩き込みたいらしい。それほど重要だということか。
まぁ、社交界の常識や貴族のしきたりの中に身を置いていると、恋愛なんてする気も起きない。それに、脳内の50代中年男子の俺は、仕事ばかりで家庭を顧みなかったせいで、妻の幸子に浮気された挙句に離婚されて、恋愛なんて懲り懲りという気持ちも強い。
だから、グレイス家の跡継ぎとして政略結婚が必要と言われれば、相手がどのような人であっても、ただ受け入れて役目を果たすのみ。それがトーマス・グレイスとしての俺の宿命だ。
それから半月あまり経って、なぜ家庭教師陣が一斉に婚姻や婚約の講義を始めたのか、理由が判明した。
ある日、夕食を終えると父上の書斎に呼ばれて、そこで俺の婚約が内定したことを告げられた。
同席していた母上の話では、正式な婚約の調印は7歳からと法律で定められているので、契約書の取り交わしはまだ先になるそうだが、それまで待つことなく婚約に関して両家が同意したということらしい。
つまり、婚約ではあるのだけど、イメージ的には許嫁に近いのかもしれない。
そしてその婚約者とは、ブラン侯爵家の長女、クリスティーナ嬢だった。
侯爵家同士で家格が同等で、年齢は1つしか違わない。まさに貴族同士の婚姻としては、好条件が揃っている。
また、この時に教えられたのだが、グレイス家とブラン家は政界では同じ派閥に属しており、有力者同士で盟友らしく、父上とブラン侯爵は昔からの友人でもあったらしい。
自室に戻ると、クリスティーナ嬢のことを考えた。
子供とは思えないほどの落ち着きと完璧な礼儀作法を身に着けた、まさに貴族令嬢のお手本のような人物。そして、それだけでなく、大人顔負けの気配りや気遣いができる。
そんな完璧令嬢が俺の婚約者なのか。
大丈夫かな、俺・・・結婚しても愛想をつかされたりしたらどうしよう。
相手がクリスティーナ嬢だと知ると、一度結婚生活に失敗した記憶が、俺の自信を抉ってくる。
婚約内定が告げられた三日後。ブラン侯爵夫人に連れられて、クリスティーナ嬢が面会にやってきた。
まだ正式な婚約ではなくても、これからはこうやって頻繁にお互いの家を行き来して、顔を合わせる機会を増やすらしい。
「トーマス様、ごきげんよう。本日はお会いできること、楽しみにして参りました」
「ごきげんよう。白いドレスがお似合いで、とても可愛らしいですね」
いつものように社交辞令の挨拶を交わすと、頬を赤らめ扇で顔を隠し、クリスティーナ嬢には珍しく動揺していた。
その様子を見て、さすがに察した。結婚生活に失敗したとはいえ、それなりに女性経験の記憶がある。
これは婚約の影響なのか、俺の事を異性として、めちゃくちゃ意識しているな。
でも、いつもと違うその様子がかえってギャップになるのか、妙に可愛らしい。
いや、5歳の女の子なら誰だって可愛いのだけど。
そんなクリスティーナ嬢の様子を見て、結婚への不安が軽くなった気がした俺は、片膝をついて胸に手を当てて、クリスティーナ嬢の表情を真っすぐ見つめた。
「この先ずっと、この命が尽きるまで、クリスティーナ様のことをお守りします。どうか僕の誓いのキスを、受けてください」
男トーマス・グレイス。男らしく恰好をつけてみた。
すると、その様子を見ていた母上とブラン侯爵夫人が「あらあらあら!まぁこの子ったら!」「クリスティーナ!恥ずかしがっている場合ではありませんよ!」と興奮気味にはやし立てた。
そして、クリスティーナ嬢が差し出してくれた右手に両手を添えると、手の甲に誓いのキスをした。
その右手は、小さくて柔らかかった。




