#07 一般人の仮説と方針
誕生日パーティーの日から三日間、混濁した記憶の整理と、自分の脳の中で何が起きているのか考え続け、『多重人格』もしくは『魂の重複』という仮説を立てていた。
どちらもドラマや映画などではありそうな話だが、ああいうのはあくまでフィクション。二重人格ならば現実にいるかもしれないが、もし家族や隣人が「私は二重人格」と言い出しても誰も信じないし、そんな嘘までついて注目されたいの?程度の扱いだろう。ましてや、「魂の重複なのです」などと言い出したら、怪しい宗教にでも入信したのだろうか?と疑われかねない。
しかし、トーマス・グレイスの人格と記憶を持つ俺の脳の中に、ドラマや映画などと言い出す日本人の50代男性の記憶もあるのは、事実だと言わざるを得ない。そして、その50代の記憶があるせいで、思考や価値観まで50代男性に引っ張られる傾向が強い。
要は、体と脳は子供なのに、考え方が中年男性になっているということだ。
荒唐無稽な話だが、三日も過ごせば嫌でも理解するし、今の俺の思考はどう考えても5歳児のものではない。
そして、もう1つ気になることがあった。
それは、言語だ。
トランベル王国は英語でもスペイン語でもない。ましてや日本語でもなく、独自の言語体系があり、この国で生まれ育った俺は、5歳の子供なりに理解して会話も読み書きもできる。
なのに、脳内の思考は完全に日本語に変わってしまった。例えば、先ほど脳内に浮かんだドラマも映画も、トランベル語には存在しない単語だ。でも、そのことにすぐには気づけないほど、自然に脳内言語が切り替わっていた。
そもそも、俺の脳内にある日本語だとか英語やスペイン語の世界とはなんなのだ?
家庭教師にそれとなく尋ねてみたが、そのような国も言語も知らなかった。おかげで、「どこでそのようなものを教わったのですか?」と白い目で見られてしまう始末。
日ごろからまじめに勉強をしていたから、それ以上は追求されずに済んだが、この脳内にある世界の話は、絶対に口外するべきではないだろう。矯正教育行きなんて、まっぴらごめんだ。
ただ、仮説を立ててある程度整理ができてくると、先々のことも考えるようになった。
とにかく一番は、健康的な体作り。家庭を顧みずに仕事ばかりで、おまけにヘビースモーカーだった男は、晩年、末期癌の闘病生活に苦しんでいた。あのような人生の結末は、迎えたくない。
今のうちから運動の習慣を身につけ、若いからと言って不摂生をせずに、生活習慣の改善を心がけよう。
ただ、栄養バランスを考えた食事も気を付けたいところだが、すべての食材や食事は使用人たちが管理しているので、こればかりは俺の裁量ではどうにもできない。
栄養バランスは、もっと大人になって、食事に関する裁量権を持てるようになってからか。
それから、さらに1か月も経つころには、順応していた。
トランベル語で会話して読み書きして、日本語の中年男性の価値観で思考して、5歳の体で運動する。
使用人や家庭教師とのやり取りでは、5歳のトーマスとして自然に振舞えるようになっていたし、うっかり日本語で話してしまうこともなかった。
そのおかげか、父上や母上、家庭教師や使用人たちからは、俺のことを「5歳になって、グレイス家の跡取りとしての責任を自覚して、貴族らしい落ち着きを身につけた」と言われるようになった。
自分ではわからないが、おそらく、以前はもっと子供らしかったのだろう。トーマスとして振舞うように心がけていても、50代の中年男性が5歳児のフリをしているようなものだから、子供らしさに限界があるのも仕方ない。
でも、5歳という貴族の子息にとっては節目の歳だったおかげで、多少子供らしくなくとも、貴族としては『出来の良い子』と見てくれるので、上手くごまかせているようだ。
また、5歳の誕生日を境に、母上に連れられてお茶会に出席する機会が増えた。
貴族には独特のコミニュティーがあるようだ。当主だけでなく、その婦人同士のネットワークを形成するのが目的なのだろう。
貴族社会は駆け引きの世界。つまり、なによりも情報が重要。ネットや電話などの通信システムが構築されていないこの世界では、直接情報交換をする必要がある。それが夫人同士のお茶会というわけだ。
特に、侯爵であるグレイス家やブラン家は上位貴族であるためか、主催することが多かった。そうなると、自然とクリスティーナ嬢と会う機会も増えた。
彼女は、とにかく優秀だった。
侯爵令嬢としての礼儀作法だけでなく、言葉の節々に知性が滲み出ていた。
なによりも驚かされたのは、観察力と理解力。
常に一歩引いて観察して、相手が求めるものを理解し、それ以上の答えを用意する。とても子供とは思えないほどの資質を持っていた。
こういう人物が近代の日本にいたら、きっと政治家や起業家として成功しているだろう。
惜しむべきは、貴族社会では女性が表立って活躍することは厳しい。
そして、お茶会が切っ掛けで、俺にも友人ができた。
ゾーイ伯爵家の次男であるアベル。
俺より1つ年下で、クリスティーナ嬢と同じ年齢だが、とにかくお喋り好きな子供で、ゾーイ夫人の前では大人しくしていても、居なくなった途端にマシンガントークを始める。
それがまた、子供ながらに物知りで、話を聞いているだけでも飽きないし、憎めない親しみのある男だった。
◇
それからのトーマスは、運動をはじめとした体力作りと健康管理に、貴族教育や歴史学、言語学、哲学、政治学などの学問に励んだ。
現代日本で言えば幼稚園に通う年齢だが、トーマスは若くて健康な体を動かすことが楽しくてしかたなかった。それは勉学も同じで、学べば学ぶほど知識を吸収できる若い脳を持ったことで、知識欲に際限がなくなっていた。
また、そんなトーマスを見ていたグレイス侯爵は、トーマスの才能を伸ばすために、優秀な人材を探しては家庭教師として採用した。
そんな生活が1年ほど経過したころ、1つの転機が訪れた。




