#10 侯爵令嬢の才能と知識欲
まず最初にクリスティーナ嬢に教えたのは、数字の読み方と10進法。
貴族の子供は数字を扱う機会が非常に少ない。なにかを揃える時でも、使用人が全部やってくれるので自分で数える必要がなく、買い物をして自分でお金を払う機会なんて皆無だ。だから、数字が読めなかったり10まで数えられない貴族の子供は結構いるようだ。3つ下のヤリスなんて、まさにそう。
俺だって、算術に関しては7歳になってから専属の家庭教師がついて勉強を始めるそうだ。つまり、貴族にとっての算術はそれほど重要視されていないのだ。
でも、50代の日本人の価値観では、計算は識字と同レベルで重要な素養だと考える。
50代の日本人が娘の真紀に指を使って数え方を教えた記憶を思い出し、それと同じことをやってみた。
「いち、にい、さん。1つずつ増えるのがわかりますか?」
「はい。いち、にい、さん、です」
「そうそう。続いて、よん、ごう、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう。これで指が10本あることが証明されます」
「はい。よん、ごう、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう、です」
「完璧です。では、これは何本ありますか?」
そう言って、右手の指を3本立てて見せた。
「さん、です」
「お、ではこれは?」
次に両手を使って指を7本立てて見せた。
「なな、です」
「あれ?もしかして、算術はすでに勉強をしていましたか?」
「いえ、教えていただくのは初めてです」
凄いな。一発で理解しているぞ。娘の真紀は、何度教えてもなかなか理解してくれなかったんだけどな。真紀を基準にして教えようとすると、かえってレベルが低すぎるのかな。
その後、11から100までの数え方を教えたら、これも一発で理解して覚えてしまったので、足し算と引き算も教えると、これもあっさり理解して、使いこなせるようになってしまった。
ただし、まだ俺自身が算術を習っておらず、この国の算術にはどこまでの概念があるのかが分からなかったので、掛け算や割り算、小数点や分数などは慎重になる必要があるだろう。
また、クリスティーナ嬢に勝手に算術を教えていることが公になれば、どのような問題になるかも分からない。なので、このことはクリスティーナ嬢にも口外しないように念押ししておく必要があった。
「今日はここまでにしましょうか。それにしても、僕が想像していた以上に、クリスティーナ様は優秀です。実際に勉強をしてみて、どうでしたか?」
「トーマス様の教え方がとても分かりやすくて、勉強がこんなにも楽しいものだと、初めて知りました」
「あ、歴史学が好きだと言っていましたが、本当はそれほどでもなかったんですか?」
「あ、いえ、その、歴史学も好きですよ。ですが、トーマス様が教えてくださる算術は、先生が教えてくださる学術とは違いまして・・・その、とにかく楽しいのです」
扇で口元を隠して、困った様子で答えた。
珍しく動揺しているな。
「うふふ。そうですか。でも、このことは内密にお願いします。僕が勝手に算術を教えていたと知られたら、母上たちに叱られてしまうかもしれません」
「畏まりました。トーマス様とわたくしの、二人だけの秘密ですね」
この二人だけの秘密の共有は、クリスティーナ嬢に大きな変化をもたらすことになった。
それまで、5日から10日に一度のペースでお互いの家を行き来していたのが、3日に一度のペースでクリスティーナ嬢がグレイス家に通うようになったのだ。
それはブラン家側からの要望だったのだが、クリスティーナ嬢がブラン夫人にお願いして、頻度を増やしてもらったそうだ。
どうやら、俺との勉強が楽しいと言っていたのは本当のことのようで、クリスティーナ嬢のほうがこれほど積極的になるのは予想外だった。
もしかしたら、娯楽の少ない環境では時間を持て余して退屈にしていたのか。それとも、知識欲が湧いて、勉強そのものを本当に好きになったのか。いずれにせよ、学習意欲が高いのは、知識の吸収にも直結する良いことなので、大歓迎だ。
しかし、俺のほうでは家庭教師による勉強のスケジュールが毎日みっちり詰まっていたので、クリスティーナ嬢を待たせてしまうことも度々あった。
俺から勉強することを持ち掛けて始めたことであり、せっかくクリスティーナ嬢もやる気になってくれていたので申し訳無さを感じていたが、あっさり解決することになった。
なんと、母上とブラン夫人が相談して、俺の授業をクリスティーナ嬢も見学という形で同席が許可されたのだ。しかも、クリスティーナ嬢の勉強が目的ではなく、俺と過ごす時間を増やすことが目的なので、どの授業でも制限なしとなった。
クリスティーナ嬢の理解力なら、見学として講義を聞いているだけでも充分勉強になるだろう。今まで俺一人で教えていたから簡単な算術だけしか教えられなかったが、これからは算術以外にも、哲学や政治学、いずれはこの国の算術や天文学や法律なども専門家から教わることができるというわけだ。この展開は喜ぶべきで、素晴らしい。
ちなみに、俺が教える算術の授業は、足し算と引き算のあと、時刻と暦を教えている。
本当は、お金の勘定を教えたかったが、俺自身がまだトランベル王国の貨幣価値を理解できていなかった。どうやら、金貨、銀貨、銅貨がメインで紙幣は無いらしいが、価値が分からないのでは、教えようがなかった。
そして、この国というか、この世界では、60進法の概念がない。だから、時刻も1日を20刻としており、どの都市にも鐘があって、それで時刻を知らせている。
そして、1週間が7日なのは日本と同じだが、35日で1ヵ月、10カ月で1年となり、1年が350日になる。
この時刻と暦に関しては俺が教えたというよりも、世話係に教わり、それをそのままクリスティーナ嬢に教えたというのが本当のところだが、世話係には特に怪しまれることはなく、むしろ「許嫁の前で物知りなのを見せたくて、恰好をつけたいお年頃」と思われたらしく、その後も俺が色々と教えを乞うと、丁寧に教えてくれるので助かった。
けど、本当に下心ではないからな。




