第4話:メンテナンス停止、そして崩壊の始まり
リアンを追放した直後、勇者ゼクスはテントに戻り奪い取った防寒具から高価な魔石を乱暴に引き抜いた。
「見ろ、これだけの魔力ソースがあれば、エルナの最大魔法が三発は余分に撃てる。やはりあいつは、俺たちの血税を不当に食いつぶす寄生虫だったんだ」
ゼクスは得意げに笑い、エルナとガレスも安心したように頷いた。
不要なコストを削減し、パーティーはより戦闘に特化した「真の勇者一行」になったのだと、彼らは本気で信じていた。
だがその薄っぺらな勝利の余韻は、三十分も持たなかった。
最初に異変が生じたのは「空気」だった。
リアンが去って一時間。
テントの中で休息を取ろうとしていたガレスが、突如として激しく咳き込み始めた。
「げほっ、ごほぉっ……!お、おかしいですね……急に呼吸が、重く……」
ガレスが喉をかきむしるのも無理はなかった。
リアンの魔力循環システムが停止したことで、ダンジョン第三層の『致死レベルの湿度』と『有毒なカビの胞子』が、容赦なく野営地に流れ込んできたのだ。
テントの布地はあっという間に結露し、じっとりと冷たい水滴がポタポタと顔に落ちてくる。
「きゃあっ!なによこれ、私のローブが……!」
エルナが悲鳴を上げた。
彼女の純白のローブには、ほんの数十分前までは存在しなかった黒いカビの斑点が、まるで生き物のようにじわじわと広がり始めていた。
サラサラだった金髪は湿気で重く肌にへばりつき、不快極まりない。
「落ち着け!ただ地下の冷気が強まっただけだ。俺たちのオーラで弾き返せる!」
ゼクスが苛立ち交じりに怒鳴るが、彼自身の額にも脂汗が浮かんでいた。
肺に吸い込む空気が泥のように重く、ただ座っているだけで体力をゴリゴリと削り取られていくのを感じる。
そして三時間後。
リアンが告げた「数字」は、寸分の狂いもなく二つ目の絶望をもたらした。
『――カサカサカサカサッ!』
岩肌を這う無数の不快な摩擦音。
広場の四隅に打ち込まれていた結界杭の根元から、黒い水がじわりと滲み出す。
空気が一瞬だけ無音になり、不気味な静寂が落ちた。
次の瞬間、青白い光が不規則な明滅へと変わった。
闇の奥から、手のひらほどもある巨大な毒ムカデや、腐臭を放つ甲虫の群れが、温かい獲物の体温を求めて野営地に雪崩れ込んできた。
「ひぃぃぃぃっ!来るなっ、こっちに来るなぁっ!」
エルナが半狂乱になって炎の魔法を放つ。
数匹の毒虫が焼けるが、焼け焦げた虫の異臭がさらに別の虫を引き寄せる悪循環に陥った。
「ええいっ、鬱陶しい!神の威光を思い知れ!」
ガレスがメイスを振り回して虫を叩き潰すが、飛び散った体液が顔にかかり、あまりの不快さに吐き気を催している。
ゼクスも聖剣の鞘で虫を払い落としながら血走った目で暗闇を睨みつけた。
(なんだって急にこんなことに……!そうか、あの無能な保全士め。去り際にダンジョンの『呪い』を呼び込むような嫌がらせをしていきやがったな!)
自分の足元を支えていた見えないインフラの価値を、彼はまだ理解できない。
すべては自分を妬むリアンの呪いのせいだという、歪んだ自己正当化にすがりつくしかなかった。
結局彼らは虫の襲来と異常な湿度のせいで一睡もできず、体力と精神力を極限まで削り取られたまま、翌朝の進軍を強行せざるを得なくなった。
王都から突きつけられた「三日以内のボス討伐」という期限が、ゼクスの背中を焦燥という名の鞭で叩き続けている。
「行くぞ!今日中に第五層まで降りて、ボスを叩き斬る!」
睡眠不足で目を血走らせたゼクスが立ち上がり、重いミスリル製の胸当てを身につけた。
――その瞬間、ズシンッと重い金属が泥に深く沈み込む鈍い音が鳴り、ゼクスの足が「ガクン」と不様に崩れた。
「……な、なんだ!?」
立ち上がろうとするが、体が鉛のように重い。
いや、体ではない。
身につけている『防具』が異常なまでの重量を持って彼を押さえつけているのだ。
「ゼクス、私も……っ。ローブが水を吸って、一歩も歩けませんわ……!」
エルナもまた、泥に足を取られて立ち上がれずにいた。
ガレスに至っては、自らのメイスの重さに耐えかねて杖代わりにすかっている始末だ。
リアンが去って半日が経過し、防具に施されていた「重量軽減」と「防汚コーティング」の魔力が完全に剥離したのである。
これまで彼らが分厚い金属鎧を着たまま羽のように軽く跳躍し、泥濘の中でも足を取られずに戦えていたのは、彼らの身体能力が高いからではない。
すべてリアンが徹夜でミリ単位の魔力調整を行い、彼らの装備に強力なバフをかけ続けていたからだ。
そのバフが切れた今、彼らは「ただ重い金属の塊」を着込み「泥水を吸って数十キロになった布」を引きずって歩く、ただの貧弱な人間に成り下がっていた。
「くそっ……!なんでだ、なんでこんなに重い……っ!」
ゼクスは泥だらけになりながら、必死の形相で立ち上がった。
呼吸は乱れ、心臓が早鐘のように打っている。
まだ一度も戦闘をしていないのに疲労はすでに限界を超えようとしていた。
(呪いだ……絶対に、あのリアンが俺たちにかけた呪いのせいだ!ボスさえ倒せば、こんな呪いすぐに解けるはずだ!)
ゼクスは歯を食いしばり先を急いだ。
道中、第三層の雑魚魔獣であるロックワームが姿を現した。
ゼクスは苛立ちをぶつけるように腰から自慢の「聖剣」を抜き放った。
「雑魚がっ!俺の聖剣のサビにしてやる!」
渾身の力で、ロックワームの甲殻めがけて剣を振り下ろす。
ガキンッ!
「……がっ!?」
両手に伝わってきたのは、岩をバターのように切り裂くいつもの感触ではなく骨が砕けるような強烈な痺れと反発だった。
ゼクスは悲鳴を上げて聖剣を取り落とした。
泥に落ちた剣身を見ると、かつての眩い輝きは完全に失われ表面には赤茶けたサビが浮き、刃の真ん中には信じられないほど大きな「刃こぼれ」が生じていた。
ゼクスの指先がガタガタと震え、一瞬だけ呼吸が完全に止まった。
リアンの『二度目の全力の斬撃で砕け散る』という警告が、ゼクスの脳裏に冷たく蘇る。
いや、そんなはずはない。
この剣は伝説の武器だ。
俺は選ばれた勇者だ。
こんなところで折れるはずがない。
「……ただの手入れ不足だ!帰ったら、最高の鍛冶師に研がせれば元通りになる!」
ゼクスは恐怖から目を逸らすように喚き、刃こぼれした剣を無理やり鞘に押し込んだ。
劣悪な環境、睡眠不足、鉛のような装備、そして限界を迎えた武器。
何一つとしてまともな状態ではない。
戦う前から彼らのパーティーとしての機能は完全に崩壊していた。
それでも王都からの圧力に怯えるゼクスは、引き返すという選択肢を持てなかった。
泥濘に足を取られ、虫に刺され、咳き込みながら彼らは死地である第五層のボス部屋へと向かってずるずると這いずっていく。
彼らはまだ知らなかった。
これから向かう先に待っているのが、栄光などではなく慢心しきった彼らの尊厳を塵芥の底まで打ち砕く、圧倒的な絶望であるということを。




