第3話:保全停止と、壊れた工具箱
未踏破ダンジョン『神の胃袋』第三層。
安全地帯に指定された岩肌の広場は、偽りの平穏と快適な温度に包まれていた。
パーティーの誰よりも早く目覚めたリアンは、広場の四隅に打ち込んだ結界杭の前にしゃがみ込み静かに魔力炉の調整を行っていた。
階層が下るにつれてダンジョンが放つ瘴気と冷気は指数関数的に跳ね上がっている。
野営地を快適な状態に保つためには、常に瘴気を中和し、結界を張り直すための莫大なエネルギーが必要だった。
リアンは手持ちの魔石を砕き、その魔力を触媒にしてミリ単位の精度で結界の出力バランスを整えていく。
しかし、その顔に達成感はない。
昨夜ゼクスに工具箱を蹴り飛ばされた瞬間から、リアンの中でこのパーティーに対する表面上の情は、完全に凍りついていた。
彼がいま結界を維持しているのは、単に「保全士としての最後の契約期間中だから」という、ただそれだけの理由だった。
やがてテントからゼクスたちが起きてきた。
彼らは結界がもたらす澄んだ空気と適温を「自分たちのオーラのおかげだ」と信じて疑わず、当たり前のように伸びをしている。しかし、ゼクスの顔色だけは土気色に沈んでいた。目の下には濃い隈が刻まれ、苛立たしげに親指の爪をガリガリと噛んでいる。王都の役人から突きつけられた「三日以内のボス討伐」という絶対的な期限が、彼の精神を確実にすり減らしていた。
「……これより、パーティーの再編成を行う」
朝食の冷めたスープを飲み終えた直後、ゼクスが重々しい口調で切り出した。
その言葉に、エルナとガレスが顔を強張らせる。
「王都からの期限は三日。俺たちは這ってでも結果を出さなきゃならない。だが、手持ちの魔石と物資の在庫は、すでに底をつきかけている」
ゼクスはゆっくりと顔を上げ、血走った目をリアンに向けた。
「わかるか、リアン。この極限状態にあって最前線で剣も振れず、ろくな攻撃魔法も使えないお前が毎日どれだけの魔石を消費しているか。お前がチマチマと野営の火を熾したり、過剰な防虫の結界を張ったりするために使っている魔石をすべて戦闘に回せば、俺たちの継戦能力は跳ね上がるんだ」
それは重圧と恐怖によって歪められた「合理化」だった。
目に見える成果(魔獣の討伐数)しか評価されない状況下で、目に見えないインフラの維持費は、彼にとってただの「魔石の無駄遣い」でしかなかった。
本当は自分の聖剣が限界を迎えている恐怖から目を逸らしたいだけなのだが、ゼクスは討伐が遅れている原因をすべて「裏方が無駄なコストを食っているせいだ」とすり替えたのだ。
「俺だって、こんなことは言いたくない。だが、俺はリーダーとして、このパーティーを……仲間を守らなきゃならないんだ。お荷物を抱えたまま共倒れになるわけにはいかない」
悲壮な決意を気取るゼクス。その自己正当化の言葉を聞いても、リアンの心は一ミリも揺れなかった。
「……つまり、コストカットのために俺を解雇(追放)するということだな」
「そうだ。これはパーティーを存続させるための、苦渋の決断だ」
ゼクスは冷酷に顎をしゃくった。
「だが、そのまま帰すわけにはいかない。お前が着ている厚手の防寒具も、その瘴気フィルター付きの作業着も、予備の魔石も、すべて王都の予算で買ったパーティーの備品だ。それは置いていけ。これからの激戦で俺たちの役に立ってもらう」
その要求は、あまりにも常軌を逸していた。
極寒と有毒な瘴気が渦巻くダンジョンの深層で、防寒具とフィルターを奪う。それは事実上、「ここで野垂れ死ね」と言っているのに等しい。
さすがにエルナが微かに息を呑んだ。だが、ゼクスの狂気じみた眼力に怯え、すぐに目を伏せる。
「そ、そうですわね。あなたの分の魔石をわたくしの攻撃魔法に回せば、ボスも一撃で倒せますわ」
「ええ。リアン、これも神の与えた試練です。あなたも自力で地上へ戻る努力をしなさい」
ガレスもまた、己の保身のために沈黙を破り、ゼクスの暴挙に同調した。
彼らもまたインフラの価値を全く理解していなかった。
リアンの着ている作業着がただの服ではなく、彼が徹夜で魔力繊維を編み込んで作り上げた特別な物であることなど想像すらしていないのだ。
「……わかった」
リアンは一言も抗議しなかった。
怒鳴ることも命乞いをすることもなく、淡々と腰のポーチを外し防寒コートを脱ぎ、口元を覆っていたフィルターのバックルを外した。
薄手のシャツ一枚になったリアンの体を結界の隙間から漏れ出た冷気が容赦なく撫でる。
肺に吸い込んだ空気はカビと腐臭にまみれ、むせ返りそうになる。
だが、リアンの心はそれ以上に冷たく透き通っていた。
リアンは泥の床に散らばったままになっていた「革の工具箱」の前にしゃがみ込んだ。
昨夜ゼクスに蹴り飛ばされ、真鍮の留め具がひしゃげてしまった箱。
中に収まっていたはずの工具はいくつか欠けており、彼が調合した高価なスライムパテや研磨液は泥に染み込んで黒いシミに変わっていた。
(……直せ、だと?)
リアンは泥にまみれたタガネを拾い上げながら心中で嘲笑した。
この箱は、かつてゼクスが不器用な笑顔でプレゼントしてくれたものだった。職人としての「魂」であり、彼らとの信頼の証だった。それを自らの足で踏みにじった男に、これ以上何を言っても無駄だ。
リアンはその壊れた箱を両手でそっと拾い上げ、胸に抱えた。
奪われた防寒具よりも、この壊れた箱のほうが彼にとってはるかに守るべき価値があった。
「じゃあな。今まで世話になったな、コスト」
ゼクスが冷たく言い放つ。
彼らはすでに防寒具から抜き取った魔石をどう分配するかで頭がいっぱいのようだった。
「ゼクス。最後に前任の保全士として引き継ぎ事項を伝えておく」
立ち去る直前、リアンは静かな声で口を開いた。
そこには怒りも恨みもなく、ただプロとしての無機質な事実だけがあった。
「この階層の環境は、お前たちが思っている以上に腐っている。俺の魔力循環が切れれば、一時間でこの広場の湿度は致死レベルに達する。四隅の結界は三時間で完全に破綻し、第三層の毒虫が押し寄せる。そして、お前たちの防具に施した衝撃吸収のコーティングは、十二時間以内にすべて剥離する」
リアンは、ゼクスの腰にある剣を見据えた。
「ゼクス、お前の聖剣はすでに芯が死んでいる。二度目の全力の斬撃で、破断する確率は限界域に入っている。……以上だ」
「はっ、負け犬の遠吠えか?」
ゼクスは鼻で笑った。
「俺たちには神の加護と強大なオーラがあるんだ。そんな小細工がなくても、魔獣の一匹や二匹、俺の聖剣で叩き割ってやるさ」
限界を告げるデータと時間を提示されてもなお、彼らは現実を直視しようとしなかった。
「……そうか。なら、俺から言うことはもう何もない」
リアンは踵を返した。
このパーティーという欠陥現場は、今ここで完全に崩壊したのだ。
「了解した。……保全停止は、今この瞬間をもって実行する」
その宣告と同時にリアンは指先を微かに鳴らした。
ブツン、という耳鳴りのような音が響き野営地を覆っていた四隅の結界杭からリアンの魔力パスが完全に切断された。
目に見えない青白い防壁がフッと消え去り、外の暗闇から重く湿った死の冷気が足元を這うように流れ込んでくる。
ゼクスは去りゆくリアンの背中を見送る一瞬、微かに拳を握りしめ、何かを言いかけて――しかし己のちっぽけなプライドを守るためにぐっと言葉を飲み込み、再び強情な顔を作った。
リアンは薄着のまま壊れた革の工具箱だけを抱え、薄暗い迷宮の奥へと歩き出した。振り返ることは、一度もなかった。彼の背中が闇に溶けたその直後。
テントのそばに立っていたエルナの美しい金髪が、急激な湿気を含んでぺたりと重く垂れ下がり、神官ガレスが「げほっ」と乾いた咳を一つこぼした。
見えない恩恵に胡座をかき続けてきた勇者たちに対する「真の試練」のカウントダウンが、静かに、そして無慈悲に時を刻み始めた。
ついにリアンが「保全停止」を宣告し、闇へ消えました。
結界が消え、外の瘴気と冷気が流れ込む野営地……。
インフラを軽視した代償は、想像以上に早く彼らを襲います。
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