第23話:無音の先の鼓動と、心臓部の悲鳴
完全な無音。
分厚い岩盤の向こう側に閉じ込められたリアンを包むのは、息が詰まるほどの静寂だった。
つい先ほどまで自分の耳を心地よく満たしていた温水パイプの脈動も、精霊たちの風切り音も、スライムが水を濾過する微かな音も、ここにはない。
それは、彼が持てる技術のすべてを注ぎ込み、セレスや住人たちと築き上げてきた『インフラという名の絆』が、物理的に切断されたことを意味していた。
「……冗談じゃない」
リアンは暗闇の中で、腰のポーチからタガネを引き抜き、強烈な怒りとともに握り直した。
「俺の現場を、勝手に壊していいルールなんてないぞ」
彼はランタンの魔力光を頼りに、崩落した岩盤の壁へと向かう。
亀裂の走り方と土砂の崩れ方から、応力が抜けている箇所を瞬時に見極める。
「……芯を外して落とせる場所が見えた。叩くのは三点だけでいい」
タガネを壁に当て、ハンマーを振り上げようとした、その時だった。
ドクン……ドクン……。
「……ん?」
リアンはハンマーを止め、岩壁にピタリと耳を押し当てた。
先ほどの大崩落の余波ではない。
もっと深く、もっと重い場所から、まるで巨大な生き物の心臓の拍動みたいな、規則的で不気味な『異常振動』が伝わってくる。
「……地殻変動じゃない。これは、構造体そのものが上げている『悲鳴』だ」
プロの保全士としての直感が、リアンの脳内に危険信号を鳴らす。
この異常振動を放置すれば、先ほどの崩落など比較にならない、迷宮全体の崩壊が起きる。
同時刻、崩落の向こう側の居住区画。
略奪者たちを退けたセレスは、血の滲む手でアリアの『糸の粘度ログ』をしっかりと胸に抱きしめながら破壊された温水パイプのバルブを布で縛り、必死に応急止水を行っていた。
(……あいつら、言っていたわ。上層からの追手じゃない。『下層がぶっ壊れかけてるから、逃げてきたんだ』と)
あの下劣なダークエルフたちはセレスを狙って来たわけではない。
さらに深い階層で起きた、命の危険を感じるほどの『異常事態』から逃げ惑い、偶然この拠点に行き着いただけだったのだ。
ズズン……!
再び、腹の底を這うような重い揺れが拠点を襲う。
天井からパラパラと粉塵が落ち、機織り機のそばでアリアが怯えたように身をすくませた。
「大丈夫よ、アリア。すぐに揺れは収まるわ」
セレスが気丈に振る舞った直後。
ガキンッ!ガガガガガッ!
塞がっていた巨大な瓦礫の山の中央から、強烈な破砕音が響いた。
岩盤に幾筋もの亀裂が走り、一気に崩れ落ちる。
もうもうと舞い上がる土煙の中から、タガネを片手に持ったリアンが煤だらけの顔で姿を現した。
「リアン……っ!」
セレスは弾かれたように立ち上がり、駆け寄った。
リアンの視線が室内の惨状をすばやく舐めるように動く。
蹴り折られたパイプ、叩き割られた計器類。
そして、彼の目は、セレスの血まみれの手のひらと、彼女が胸に抱きしめている羊皮紙の束――ただの紙切れに過ぎない『ログ』で、ピタリと止まった。
「……怪我をしてまで、ただの記録を庇ったのか」
「ただの記録じゃないわ。あなたが、この家を直すために絶対に必要な『設計図』でしょ」
セレスは痛みを隠すように、ふっと柔らかく微笑んでログを差し出した。
「設備は少し傷ついたけど、致命傷じゃない。住人も、データも、私が全部守り抜いたわ。……あとは、あなたの仕事よ」
リアンは差し出された羊皮紙を受け取り、深く、静かに息を吐いた。
「……ああ。上出来すぎる。これでインフラは完璧に再構築できる」
リアンの中でセレスはもはや「庇護すべき避難者」ではなかった。
現場の重要性を完全に理解し体を張ってインフラを守り抜いた、かけがえのない『最高のパートナー』だった。
「だが、修繕は後回しだ」
リアンは鋭い視線を、拠点のさらに奥――下層へと続く暗い縦穴へ向けた。
「セレス。お前を襲った連中、何か言っていなかったか。この揺れのことだ」
「ええ。下層が壊れかけているから、逃げてきたと言っていたわ」
その報告に、リアンは先ほど壁越しに聴き取った異常振動の正体を確信する。
「……やはりな。この揺れは自然現象じゃない。この迷宮の環境と魔力を制御している心臓部――『ダンジョン・コア』が、何らかの理由で致命的なバグを起こし、悲鳴を上げているんだ」
リアンは腰のポーチのバックルをカチッと締め直した。
「お前がこの拠点を守り抜いてくれたおかげで、背後の憂いはなくなった。俺はこれから最深部へ降りて、この迷宮の『根本的な不調』を叩き直す」
「私も行くわ。下層の魔物たちは、完全に狂乱状態になっているはずよ」
セレスの魔族特有の高い再生力が、裂けた掌をすでに内側から塞ぎ始めていた。
迷いなく、血の滲む手で短剣を握り直した。
二人は地鳴りが響き続ける未踏破の縦穴を、恐るべき速度で駆け下りていった。
道中、環境の激変によってパニックに陥った巨大な魔獣たちが次々と襲いかかってきたが、リアンがタガネを振るうことは一度もなかった。
「退きなさいっ!」
セレスが紫色の瞳を鋭く光らせ、舞うような身のこなしで魔獣の急所を的確に斬り裂き、道を切り開いていく。
彼女はリアンを完璧に守り抜いていた。
「職人の手を、戦闘なんかで消耗させるわけにはいかない」という、彼女なりの矜持だった。
やがて二人は、ダンジョンの最深部――むき出しの魔力脈が乱反射する、巨大な『コア・ルーム』へと到達した。
「……あれが、ダンジョン・コア……!」
セレスが息を呑む。
空間の中央にある巨大な台座。
その上に鎮座する直径三メートルほどの巨大な水晶体は、今や赤黒い光を激しく明滅させ、周囲に狂乱した魔力の嵐を撒き散らしていた。
コアの周囲には、侵入者を排除するための防衛ゴーレムたちが何体も起動し、二人に向けて鈍い駆動音を響かせている。
「近づけば殺されるわ、リアン!私がゴーレムを引きつけるから、その隙にコアに攻撃魔法を……!」
セレスが前に出ようとした、その時。
「待て。攻撃は必要ない。あれは敵じゃない」
リアンはセレスの肩を掴んで制止した。
「敵じゃないって……あんなに暴走しているのよ!?」
「暴走じゃない。あれは、耐え難い『激痛』に身悶えしているだけの患者だ」
リアンは防衛ゴーレムの殺気を一切無視して、ゆっくりとコアの正面へと歩み出た。
彼の目には、魔力の嵐も、恐ろしい防衛システムも映っていなかった。
見ているのは、コアを支える台座の構造と、周囲の岩盤の歪みだけ。
リアンは腰のポーチから、武器ではなく、真鍮製の『魔力水平器』と、微細な歪みを読み取る『診断用スキャナー』を静かに取り出した。
「……さあ、診察の時間だ。どこが痛むのか、俺に見せてみろ。セレス、まずは安全マージンを取る。俺がコアに触る前に、あのゴーレムどもの動線を殺してくれ」
「ええ、任せて」
地下迷宮の心臓部。その圧倒的な暴走を前にして、狂気の保全士は、ただ一人「職人の目」をして笑っていた。




