第19話:絡まる糸と引きこもりのアラクネ
暴走した精霊たちを「二重反転式循環システム」に組み込んでから数日。
拠点の住環境は、劇的と言っていいほどの進化を遂げていた。
気温も湿度も、居住区にいる全員にとって最も快適な状態に『一度のブレも許さず』維持され続けている。
呼吸をするだけで癒やされるような清浄な空気の中で、セレスは手元の布地をいじりながら小さくため息をついた。
「……どうした、セレス」
作業台で次の拡張図面を引いていたリアンが木炭ペンを止めて顔を上げる。「あ、ごめんなさい。別に不満があるわけじゃないの。ただ……」
セレスは、自分が身につけている『魔獣の被膜で作った湯着』や、普段着ている『防具代わりの革鎧』をつまんで見せた。
「水も空気も、温度も完璧。おまけにご飯も美味しい。生活の基盤としてはこれ以上ないくらい最高なんだけど……少しだけ、『肌触りのいい柔らかい服』が恋しくなってしまって」
リアンはセレスの言葉に、小さく頷いた。
人間や魔族が文化的な生活を送る上で、「衣食住」は密接に絡み合っている。
住環境と食事が最高レベルに達した今、魔獣のゴワゴワした毛皮や硬い被膜だけでは、生活の質(QOL)に限界が来ているのは明らかだった。
「なるほど。耐久性や断熱性ばかりを優先して、着心地や『文化的な豊かさ』を見落としていた。……善処しよう。素材探しの範囲を広げてみるか」
その日の午後。リアンとセレスは、新たな素材の可能性を求めて、拠点から少し離れた第六層の未踏破エリアへと足を踏み入れていた。
ワーウルフには拠点の留守番(警備)を任せている。
「この先は、魔力溜まりが淀んでいるわ。強い瘴気も残っているから気をつけて」
セレスが鼻先を覆いながら警告した直後、二人の行く手を遮るように、通路全体を覆い尽くす『巨大な網』が現れた。
「……ん?」
リアンが一歩踏み出した瞬間、ベチャッ、と靴底が重く持っていかれた。
足元を見ると、どす黒い糸がまるで強烈な糊のように粘りつき、嫌な音を立てて伸びている。
「蜘蛛の巣か。だが、ひどい悪臭と粘度だ」
「アラクネ(蜘蛛女)の巣ね。でも、普通のアラクネの糸はもっと綺麗で強靭なはずよ。こんなヘドロみたいなベタ糸、見たことがないわ」
セレスが短剣を構え警戒を強める。
その時網の中心部にあたる暗がりの奥から、グスッ、ヒック、という微かな『すすり泣き』の声が聞こえてきた。
「誰かいるのか?」
リアンが魔力ルーペの暗視モードを起動して目を凝らすと、巨大などす黒い巣の中心で、一人の少女がうずくまっていた。
上半身はうら若い人間の女性、下半身は巨大な蜘蛛の姿をした魔物――アラクネだ。
しかし彼女は獲物を待ち構える恐ろしい捕食者ではなく、自らが吐き出した強烈な粘着糸にぐるぐる巻きに絡まり、身動きが取れなくなって泣いていたのだ。
「……おい、自分で出した糸に絡まってるのか?」
リアンの呆れたような声にアラクネの少女はビクッと肩を震わせ、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして叫んだ。
「み、見ないでぇっ!こんな不格好で汚いところ、誰にも見られたくないのぉ!」
「セレス、警戒を解いていい。あいつは自滅しているだけだ」
リアンは魔力ハンマーの柄の先に『特殊な魔力溶剤』を塗りつけると、ズカズカと巣の中へ入っていった。
強烈な粘着糸も、リアンの溶剤に触れるとスライムのようにドロドロと溶け落ちていく。
数分後、リアンは糸に縛られていたアラクネを切り離し安全な岩場へと引きずり出した。
「うぅぅ……助けてくれてありがとう。私、アリアっていうの……」
アラクネの少女・アリアは、ドロドロになった自分の髪や腕を見つめながら、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「でも、助けてもらったところで、どうせまたすぐに絡まっちゃうんだわ……。私、もう生きていけない……」
「なぜだ。アラクネの糸は、本来なら粘着性を自由にコントロールできるはずだろう。巣を張る糸と、移動用の糸、獲物を絡め取る糸。それを使い分けられないのか?」
リアンが論理的に尋ねると、アリアは首を横に振った。
「昔はできたの。私、こう見えても手先が器用で、昔は自分の糸で綺麗な服を編んだり、可愛いレースを作ったりするのが大好きだったのよ。……でも、数年前から急に、吐き出す糸が全部こんな『汚くてベタベタな粘着糸』になっちゃったの」
アリアは絶望したように両手で顔を覆った。
「自分の糸で可愛い服を作るどころか、巣を歩くことすらできなくなっちゃって……。他の魔物たちからも『臭い』『近寄るな』って言われて、ずっとこの奥に引きこもっていたのよ」
セレスは同情するような目でアリアを見つめた。
「上層の環境悪化のせいね。この階層にまで有害な瘴気やヘドロが流れ込んできたせいで、この子、ひどい病気にかかっているんだわ」
だがリアンは違った。
彼はアリアを「病気で可哀想な少女」としてではなく、極めて冷静な職人の目で診断していた。
「……病気なんかじゃない。詰まってるだけだ」
「えっ……?」
「お前は、この淀んだ空気と汚染された地下水を長期間摂取し続けた。その結果、中がヘドロで詰まって、ベタ糸しか出なくなってるんだよ。マッドスライムの配管詰まりと全く同じ理屈だ」
リアンの断言に、アリアはぽかんと口を開けた。
「だ、だから……病気じゃないの?」
「ああ。体の中の生産ラインが狂っているなら、インフラ(環境と栄養)を整えてやればいい」
リアンはニヤリと、悪だくみをするような職人の笑みを浮かべた。
「俺たちの拠点には今、極上の空気と、純度百パーセントの水と、完璧な温度管理システムがある。そこで俺が調合した『栄養剤(食事療法)』を数日摂れば、お前の体質は完全に元に戻る。いや、以前よりもはるかに高純度の『極上のシルク』を吐き出せるようにしてやる」
「ほ、ほんとに!?私、また綺麗な糸を出せるの!?」
アリアの目に、希望の光がパァッと宿る。
「ただし、条件がある」
リアンは腰から木炭ペンを取り出し、虚空にササッと図面を描くような仕草をした。
「お前が極上のシルクを出せるようになったら、俺がこの迷宮の素材をフル活用して、お前専用の『最高精度を誇る機織り機』を施工してやる。その代わり……」
リアンは横に立つセレスを指差した。
「俺たちのために、最高に肌触りのいい『極上の服』を作れ。それがお前の家賃(インフラ代)だ」
セレスがハッとしてリアンを見る。
リアンは「衣食住」の「衣」の不満を、こんな形で最上級のインフラとして解決しようとしているのだ。
「……やるわ!私、絶対に最高の服を作ってみせる!」
アリアは満面の笑みで、八本の蜘蛛の足を嬉しそうにパタパタと動かした。
暗く澱んだ通路の奥で泣いていた引きこもりの少女は、魔法の呪いや同情によってではなく、職人の圧倒的な「論理(インフラ改善)」によってすくい上げられた。
「よし。契約成立だ」
リアンは手元の図面の端に、『アリア:隔離洗浄/食事ログ/糸の粘度測定』と、さっそく三つの初期タスクを書き込んだ。
地下迷宮の拠点に、新たな「衣のインフラ」を立ち上げるための緻密な試験工程が、静かに動き始めたのだった。




