第14話:静寂を求める狼:風切り音のノイローゼ
クリスタルスライムが配管の「専属清掃スタッフ」として加わってから、シェルター内の生活環境はさらに劇的な向上を見せていた。
循環する水は汚れを含まない極上のミネラルウォーターとなり、それを沸かして淹れたセレスのハーブティーは、以前とは比べ物にならないほど澄んだ香りを放っている。
「……美味しい。水脈の澱みが消えただけで、これほど味が変わるなんてね」
セレスは木彫りのカップを両手で包み込みながら、ほうっと至福の吐息を漏らした。
リアンもまた、自身が構築したインフラが完璧に機能していることに静かな満足感を覚えながら、次の拡張工事に向けた図面に木炭ペンを走らせていた。
だが、その穏やかな時間は、突如として破られた。
「……リアン、壁際に寄って」
セレスの声から、先ほどまでのくつろいだ響きが一瞬で消え失せた。
彼女は音もなく立ち上がり、カップを置くと同時に、虚空から二振りの黒い短剣を取り出して身構えた。
「どうした?」
「……強い気配が近づいてくる。さっきの泥スライムとは格が違うわ。純粋で、凶悪で、圧倒的な暴力の気配……上位の魔獣よ」
セレスの紫色の瞳が、針のように細く鋭く研ぎ澄まされる。
彼女の警告を裏付けるように、シェルターの外の暗い通路から、ズシン、ズシンと重い足音が響いてきた。
リアンは図面を置き、腰のポーチから魔力ハンマーを引き抜いて身を低くした。
やがて、薄明かりの中に『それ』が姿を現した。
体長は優に三メートルを超え、全身を鋼糸のような銀色の体毛で覆われた巨大な半人半狼――『ワーウルフ』だった。
岩盤すらバターのように切り裂くといわれる鋭い爪と、血の匂いを纏った巨大な顎。
まともに戦えば、かつての勇者パーティーですら無傷では済まないクラスの凶悪な魔獣だ。
セレスが短剣に魔法の炎を纏わせ迎撃の姿勢をとった。
――しかし。
「……グルル……ァ、アァァァァ……」
シェルターの入り口に現れたワーウルフは、セレスたちに向かって飛びかかってくる気配を見せなかった。
それどころか彼は足元をふらつかせ、まるでひどい頭痛に耐えるかのように両手で自らの「耳」をきつく塞いでいた。
「……罠かしら」
セレスが警戒を緩めずに呟く。
だが、リアンは魔力ルーペを装着し、プロの観察眼でワーウルフの顔を凝視した。
「いや、戦闘態勢じゃない。筋肉が完全に弛緩しているし、何より……あの目を見ろ。瞳孔は開きっぱなしで、瞬きの間隔が異常に短い」
銀色の毛並みに覆われたワーウルフの眼窩は落ち窪み、瞳の周りにはくっきりとどす黒い「隈」が刻まれていた。
血走った目は焦点があっていない。
「殺気じゃない。……ああ、完全に『寝不足』だ」
その瞬間、ワーウルフは膝から崩れ落ち、シェルターの壁のすぐ外側でうずくまった。
巨大な体を丸め、耳を塞いだまま、ぶるぶると小刻みに震えている。
「寝不足……?迷宮の捕食者であるワーウルフが?」
「ああ。何かが原因で、長期間まともな睡眠をとれていないんだろう。神経が過敏になり、完全にノイローゼを起こしている状態だ。この温かさと清浄な空気に引き寄せられて、フラフラと迷い込んできたにすぎない」
リアンはハンマーを下ろし、静かに目を閉じてシェルターの周囲の「環境音」に意識を集中させた。
ダンジョンの最深部。
リアンが換気ダクトを開通させたことにより、この階層には微かな空気の流れが生まれていた。
その風が迷宮の複雑な岩の隙間や空洞を通り抜ける際、『ヒュオォォォ』という微かな低音を鳴らしている。
人間やダークエルフの耳にはただの風の音。
生活の邪魔になるレベルではない。
しかし。
「……そうか。低周波騒音か」
リアンは目を開き納得したように頷いた。
「セレス、犬科の魔獣の聴覚は人間の数万倍だと言われているな?」
「ええ、そのはずよ。私たちの心音すら遠くから聞き分けることができるわ」
「原因はそれだ。ダンジョンの構造的な空洞が、気圧の変化で巨大な『笛』になっているんだ。俺たちにはそよ風の音でも、聴覚が鋭敏すぎるあいつにとっては、四六時中、耳元で工事現場のドリルを鳴らされているような耐え難い『騒音』なんだ」
上層の環境悪化により、ダンジョン全体の気圧や地脈のバランスが狂っている。
そのしわ寄せが、目に見えない「音害」となって、このワーウルフを狂気の一歩手前まで追い詰めていたのだ。
スライムの配管詰まりと同じだ。
彼もまた、欠陥だらけのインフラ(迷宮構造)が生み出した「被害者」だった。
「……おい、でかぶつ」
リアンはシェルターの入り口まで歩み寄り、うずくまる銀色の狼に向かって声をかけた。
「やめなさい、リアン!いくら弱っていても、あれは凶暴なワーウルフよ。突然暴れ出したら一溜まりもないわ!」
セレスの警告にもリアンの足は止まらなかった。
彼はワーウルフのすぐそばまで行くと、その巨大な頭を見下ろした。
ワーウルフがビクッと体を震わせ、うつろな目でリアンを睨み上げる。
一触即発の緊張感。
だがリアンは武器を構えるでもなく、ただ現場監督としての淡々とした声で告げた。
「ここは俺が管理する現場だ。騒音問題なら、保全士である俺が解決してやる」
リアンの確固たる声にワーウルフの目からわずかに敵意が薄れ、すがるような光が宿る。
リアンは振り返りセレスに指示を飛ばした。
「セレス。ダンジョンの生態系に詳しいお前に聞きたい。この近くに、魔力をよく吸収する『多孔質』の植物や素材はないか?」
セレスは一瞬ためらった後、頭の中の地図を引き出した。
「……少し下層の湿地帯に、『静寂苔』と呼ばれる特殊な苔が群生している場所があるわ。魔力と音の振動を食べて、分厚く育つ性質を持っている」
「完璧だ。最高の『吸音材』になる」
リアンはニヤリと笑うと腰から再び魔力ツルハシを抜き放った。
「セレス、お前は至急その苔を刈り集めてきてくれ。俺はこいつのために、シェルターの奥にもう一つ空間を掘り抜く」
「空間を掘るって……まさか」
「ああ。空洞の共鳴を断ち切る。こいつのために、完璧な『無響静圧室』を施工する」
ただ敵を力でねじ伏せる勇者には決して導き出せない解決策。
環境のバグによって狂いかけた命を建築の論理と技術で救い上げる。
保全士リアンによる狂気の狼のための優しきリノベーションが幕を開けた。




