第12話:迷い込んだ泥まみれの訪問者
地下迷宮『神の胃袋』の第六層。
リアンはセレスの助言に従い、シェルターの南東に伸びる『枯れ谷』のルートを利用して換気・排水ダクトの拡張工事を開始していた。
「……確かに、ここは驚くほど掘りやすい。かつての水流が岩を脆くしているうえに、応力もうまく逃げている。これなら魔力消費も最小限で済むな」
リアンは魔力駆動のツルハシを振るいながら、セレスの的確な地質案内に改めて感心していた。
かつてのように「誰も理解してくれない孤独な現場」ではなく、地質を知り尽くしたパートナーが背中を預けてくれる現場。
作業効率は劇的に上がっており、ダクト工事は予定を大幅に前倒しで進んでいた。
セレスはといえば、リアンが敷き詰めた床暖房の毛皮の上でくつろぎつつも、中ボスとしての鋭い感覚を張り巡らせ、周辺の索敵を怠っていない。
互いの役割が完璧に機能し、冷たい迷宮の底に、確かな「日常」が形成されつつあった。
「リアン、手を止めて」
不意に、セレスの低く、緊張を帯びた声がシェルターに響いた。
リアンはツルハシの駆動を止め振り返る。
セレスはすでに立ち上がり、鋭い目つきで未開の暗い通路の奥を睨みつけていた。
「何かが来るわ。動きは遅いけれど……ひどい瘴気と悪臭を纏っている。魔獣よ」
彼女の言葉とほぼ同時にリアンの鼻腔にも強烈な腐臭が届いた。
それは生ゴミとカビ、そして古い泥が混ざり合ったような、胃液がせり上がってくるほどのドギツイ悪臭だった。
「……チッ、せっかく換気ダクトが機能し始めたってのに」
リアンは眉をひそめ、腰のポーチから防護用の瘴気フィルターを取り出して口元を覆った。
セレスの周囲にはすでに迎撃のための赤黒い炎の魔法陣が展開されている。
ズル……、ズルル……。暗闇の奥から、重く粘り気のある音を立てて『それ』が姿を現した。
「あれは……」
現れたのは、巨大な粘菌の塊のような魔物だった。
全身がどす黒い汚泥にまみれ、這いずるたびに、リアンが綺麗に均したばかりの岩肌に、ドロドロとした悪臭を放つヘドロの跡を残していく。
「『マッドスライム』ね。触れるだけで皮膚を爛れさせる猛毒の塊よ。昔、あれの飛沫を浴びた部下の顔が、一瞬で骨まで溶け落ちたのを見たわ。どうやら、このシェルターの温かさに引き寄せられてきたみたいね」
セレスは冷酷に言い放つと、指先に禍々しい炎を集中させた。
「私が焼くわ。あんな汚物をこの家に入れたら、一瞬で居住環境が崩壊する」
「待て、セレス。炎は出すな」
リアンはセレスの前に腕を出し、制止した。
「なんで止めるの?あんな汚物、一刻も早く処分しないと――」
「よく見ろ。あいつの体の中心にある『核』の明滅が、不規則で今にも消えそうだ。体表の粘性にもムラがあり、異常な泡立ちを起こしている。威嚇もしていないし、捕食用の触手も伸ばしていない。……ただ、苦しくてのたうち回っているだけだ」
リアンは魔力ルーペを左目に装着し、プロの保全士としての冷徹な目でそのマッドスライムの内部構造を観察し始めた。
「……表面張力が異常に低下している。それに、体内の魔力循環が完全に滞っているな」
リアンはスライムの生態を「倒すべき魔法生物」としてではなく、「環境維持システムの一部」として診断していた。
「セレス、こいつは元からこういう毒の塊じゃない。本来は『自律型フィルター』だ」
「フィルター?じゃあ、なんであんなに泥だらけになっているのよ」
「処理能力の限界を超えたんだ」
リアンは、勇者ゼクスたちと歩いた迷宮の上層の劣悪な環境を思い出した。
腐食した柱、淀んだ空気、完全に詰まった地脈。
ダンジョン全体の魔力バランスが崩れ、ヘドロや瘴気が異常発生しているのはリアン自身が一番よく知っている。
「上から流れてくる致死量のヘドロや毒素を、こいつは本能のままに一生懸命飲み込んで、分解しようとした。
だが汚れの量が多すぎて処理が追いつかず、ついには自分の体内に毒素を溜め込んで『配管詰まり』を起こしているんだ。……いわば、重度の消化不良と過労だ」
リアンの言葉に、セレスは呆気にとられた。
這いずり回る魔物に対して「過労」という言葉を使う人間など、今まで生きてきて見たことがなかったからだ。
リアンは、苦しそうに震えるスライムを見つめながら、静かに息を吐いた。(……過酷な現場で、誰からも感謝されずに汚れ仕事を押し付けられ、限界を超えて機能停止しかける。……笑えないな)
彼にはこの泥まみれのスライムが勇者パーティーでボロボロになるまで働かされ、コストカットという名目で捨てられた『かつての自分』と痛いほど重なって見えたのだ。
放っておけない。
絶対に。
「セレス、炎はしまえ。こいつは外敵じゃない。ダンジョンの環境を守るために身を粉にして働いていた、立派な『清掃業者』だ」
リアンはツルハシを置き、泥まみれのスライムに向かってゆっくりと歩み寄った。
「やめなさい、リアン!いくら元が水スライムでも、今は猛毒の塊よ!触れたらただじゃ済まないわ!」
セレスが悲痛な声を上げる。
彼女の言う通り、スライムの表面は触れれば骨まで溶かす強酸性の汚泥だ。
情けや優しさだけで近づけば間違いなく命を落とす。
だが、リアンが前に出たのは「優しさ」からではない。
壊れた構造体を前にした、純粋な「職能」によるアプローチだった。
腐臭が鼻を突き刺す。
だが、リアンは顔をしかめることなく、自作の耐酸性コーティングを施した防護手袋越しに、そのドロドロの表面にそっと触れた。
「……おい、あんた。働きすぎてフィルターが完全に詰まってるんだな。苦しいだろう」
リアンの低い声に反応したのか、スライムはピクッと震え、半拍遅れて、核の光をわずかに明滅させた。
「俺も同業みたいなもんだ。あんたの現場の苦労はよくわかる。……ここは退治じゃなく、治療といこうじゃないか」
リアンは立ち上がり、振り返ってセレスに力強い指示を飛ばした。
「セレス!ダクト掘削は一時中断だ。これから『全自動ろ過装置』の仮設工事に入る。こいつの体内から泥と毒素を完全に抜き取って、オーバーホールしてやる」
「お、オーバーホールって……本気なの!?魔物を『修理』する気!?」
「当たり前だ。俺は保全士だぞ。壊れたインフラを放置して見過ごすなんて、プロのやることじゃない」
リアンの目には、静かでしかし並々ならぬ職人としての熱が宿っていた。「……まずは循環路だ。あの水脈を、借りるぞ」
巨大な社会問題に立ち向かうわけでも、世界を救うわけでもない。
ただ目の前にいる、汚れ仕事に疲れ果てた「小さな同業者」を救うための、狂気的で合理的な施工が始まろうとしていた。




