第1話:見えない基礎工事と、慢心の勇者たち
未踏破ダンジョン『神の胃袋』の第三層。
その空間を満たす空気は腐りかけた泥とカビの臭いが混ざり合い、呼吸をするたびに肺の奥へねっとりとへばりついてくるようだった。
薄暗い岩肌の広場で保全士のリアンは一人、息を殺して作業をしていた。
野営の要として広場の四隅に打ち込んだ「結界杭」の一つ。
その内部に蓄積した澱んだ魔力を逃がすため、リアンはほんの数秒だけ結界の出力を絞った。
――その瞬間だった。
「げほっ、ごほぉっ……!な、なんだ、急に空気が……っ」
テントの前でくつろいでいた神官のガレスが突如として激しく咳き込み、喉をかきむしった。
同時に魔法使いエルナの美しい純白のローブの裾に、みるみるうちに黒いカビの斑点が浮かび上がる。
さらに結界が薄れたほんの僅かな隙を突き、暗闇の奥からカサカサと不快な音を立てて手のひらほどもある多脚の毒虫たちが大群となってテントの表面にびっしりと張り付いた。
「ひっ!?な、なによこれぇっ!」
エルナが悲鳴を上げた瞬間、リアンは清掃を終えた杭のバルブを叩き込み、一気に自身の魔力を流し込んだ。
ブォン、と青白い波紋が広場を駆け抜ける。
波紋が寸分の狂いもなく岩肌の隅々まで均一に広がるのを確認し、リアンは胸の内で小さく頷いた。
完璧な出力調整だ。
次の瞬間、空気を重くしていた過剰な湿気とカビは一掃されテントに張り付いていた毒虫たちは結界の表面でパチパチと音を立てて焼け落ちた。
数秒前までの地獄が嘘のように広場には再び清涼で適温の空気が満ちる。「……ふう、危ないところだったな」
豪奢な白銀の鎧を着た勇者ゼクスが剣の柄から手を離して鼻で笑った。
「どうやら下の階層に近づくにつれて、ダンジョンの瘴気が強まっているらしい。だが安心しろ。俺たちの高い神聖力とオーラが、こんな下等な虫どもを自動的に弾き返したみたいだぜ」
「ええ、さすがはゼクスですわ。わたくしたちの魔力が満ちている限り、この野営地は安全ね」
エルナも安堵の息を吐きガレスも頷く。
誰一人として、たった今起きた異常が「本来のこのダンジョンの環境」であり、それが一瞬で解決したのが「リアンの過酷な魔力調整とフィルター管理」のおかげであることに気づいていない。
空気がうまいのも虫が来ないのも、すべて「自分たちが特別だから」だと錯覚しているのだ。
リアンは弁明することなく手についた泥を布で拭った。
「おいリアン。お前、さっきからなんで汗一つかいてねぇんだ?」
ふとゼクスが苛立った声を投げかけてきた。
彼らの視線の先には、特殊な「瘴気フィルター付き作業着」を着込み、涼しい顔をしているリアンの姿がある。
「俺たちはさっきのロックワーム戦で命を削って戦って、汗水流してるってのに。お前は一番後ろで突っ立ってただけだろ。そのうえ野営地にきても、たいして動きもせずに涼しい顔をしてやがる。どんだけ楽な仕事なんだよ」
「……」
リアンは沈黙した。
楽なはずがない。
彼らが羽のように軽く剣を振り回し、泥濘の中でも足を取られずにステップを踏めるのは、リアンが常時彼らの防具に「重量軽減」と「防汚コーティング」の魔力を裏から流し込み続けているからだ。
リアン一人が汗をかかないのは、その精密な魔力操作の恩恵を自分自身にも適用しているに過ぎない。
だが、「目に見える派手な魔法」や「攻撃力という数値」でしか物事を測れないゼクスたちにとって、リアンの「見えない労働」は、ただのサボりにしか見えていなかった。
「すいません。……次はもっと機敏に動きます」
そう短く返すリアンの胸の奥で静かで重い怒りの炎が燻り始めていた。
(……なんで俺だけ汗をかいていない、だと?)
リアンはテントの設営状況を確認しながら心中で毒づいた。
(当たり前だ。俺が汗をかいて魔力を乱せば、お前らの装備にかかっている繊細なバフが吹き飛ぶからだ。……それにしても、ここは本当に最悪の現場だ)
リアンは、ダンジョンの岩壁をプロの職人としての冷徹な目で見つめた。
(岩盤の魔力伝導率がまるで均一じゃない。換気ダクトに相当する地脈も完全に詰まっている。基礎となる柱は腐食し、熱も冷気も偏って淀んでいる。こんな欠陥だらけの迷宮、どこの三流の神が設計したんだ。建築関連の法があったら一発で使用停止命令だぞ)
勇者たちは魔獣の強さばかりを気にしているが、リアンからすればこのダンジョンそのものの「劣悪な構造」こそが最大の敵だった。
(こんな狂った基礎構造の現場で、どうやって上物の安全を保てって言うんだ。俺がいくら表面だけを補修し続けても、いずれ限界が来る……)
その夜。
ゼクスたちが心地よいテントでいびきをかいて眠る中、リアンは一人冷たい岩盤の上に座ってゼクスの聖剣をメンテナンスしていた。
「……やっぱりな」
魔力ルーペで刀身を覗き込んだリアンは舌打ちをした。
ゼクスが「俺の剣術のキレが上がった」と豪語していたが、実際は力任せに岩の甲殻を叩き割っているだけだ。
リアンが毎晩スライムの粘液とミスリル粉末を混ぜた衝撃吸収パテをミクロン単位で塗り込んでいるから折れないだけで、剣の芯にはすでに無数の見えない亀裂が走っていた。
「ゼクス、起きてるか」
リアンはテントの入り口越しに声をかけた。
いびきが止まり、不機嫌そうなゼクスが顔を出す。
「なんだよ、人の安眠を邪魔しやがって」
「剣の芯が金属疲労を起こしてる。明日の第四層はさらに硬い甲殻を持つ魔獣が出るはずだ。これ以上、力任せに振り回す戦い方は避けてくれ。折れるぞ」
リアンの忠告を聞いた瞬間、ゼクスの顔が怒りに染まった。
「てめぇ、俺の聖剣にケチをつける気か!?俺の剣術に限界などない!だいたい、王都からの伝令がどれだけうるさいか分かってるのか!?」
ゼクスは血走った目でリアンを睨みつけた。
「『巨額の支援に見合うだけの成果が遅い』とな!次の報告までに階層ボスを突破できなきゃ、支援を打ち切られるかもしれないんだぞ!俺だって、お前ら仲間を守るために必死なんだよ!これ以上モタモタしていられるか!」
「だが、装備の限界は――」
「素人が口出しするな!お前は黙って、俺の言う通りにテントを張ってりゃいいんだよ!……次、俺の戦いに文句をつけたら、本当にパーティーから叩き出すからな!」
ゼクスはそう吐き捨てると乱暴にテントの幕を閉めた。
後に残されたリアンは、ひび割れた聖剣を見つめながら、ゆっくりと息を吐き出した。
「……あいつら、本当に何もわかっちゃいない」
自分がどれだけ薄氷の上を歩かされているのか。
この快適な環境が誰の犠牲の上に成り立っているのか。
理解しようともしない施主(勇者)と、今にも崩壊しそうな欠陥現場。
「……俺がいなくなったら、こいつらがどうなるか。少しは想像しろってんだ」
リアンは小さく呟き、再び黙々と聖剣にパテを塗り込み始めた。
彼らがその「見えない基礎工事」の価値を骨の髄まで思い知らされる日は、すぐそこまで迫っていた。
お読みいただきありがとうございます!
保全士リアンの献身的な仕事ぶりが、全く理解されないどころか疎まれる姿は、書いている私も胸が痛みます。
目に見えない「基礎」を支える職人の凄さと、それを無知ゆえに捨てる愚かさをこれから描いていきます。
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