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 千代がくれた最後の報酬は、本来の倍以上もあり、手のひらに乗せるとずしりと重みを感じるほどだった。その思いがけない金額に、錆小路の子どもたちは千代との別れを惜しみながらも心が浮き立ち、「新しい服を買いたい」と自然に盛り上がっていった。

 だが、子どもだけで表の町へ行くのは危ない。錆小路に住む者は、表の人々からあからさまに距離を置かれ、時には理由もなくひどい扱いを受けることがあるのだ。

 以前、幼い女の子がたった一人で表の町へ出かけ、石を投げられたと顔を腫らして戻ってきたことがある。それ以来、表の町へ行くときは必ず数人で行動するのが、皆の中で自然と決まりになっていた。

 今回も、千代に憧れておしゃれに興味が出てきた少女三人と、守り役として葱次郎ともう一人の少年が付き添うことになった。

 そうして一行は、これまでの報酬を手に表の町へ向かった。案の定、整備された石畳を踏むたびに周囲の視線がじりじりと刺さる。町の人々は葱次郎たちを見ると、まるで汚物でも避けるように道の端へと退き、少し離れた場所から嫌そうに様子を窺っていた。

「うわ、見ろよ」

「なんでこんなところにいるの」

 そんなひそひそ声は、もう聞き慣れたものだ。表の町に来れば、いつも同じような視線や言葉が飛んでくる。葱次郎にとって、それらはもはや背景の雑音のようなもので、気にしても意味がないと分かっている。

 だが、その中に混じったひとつの言葉が、雑音の層を突き破ってまっすぐ耳に刺さった。

「ねえ、あそこの……えっと、千代ちゃんだっけ?」

 その名に、葱次郎は思わず足を止めた。反射的に、声のした方向へと顔を向ける。まさか、この場所で千代の名前を聞くとは思いもしなかった。

 視線の先では、店先の軒下で女二人が世間話に夢中になっていた。野菜の入った籠を手に笑い合い、こちらの存在にはまったく気づいていない。

「そうそう。蔵持さんのところ、商いがうまくいかなくてね、借金が山みたいにあったんだとか」

「それで娘さんを売るなんて。本当に気の毒ね」

 売る。その言葉は、胸の奥を冷たい刃で横に裂かれたように感じた。

 ――売った? なにを? 誰を?

 頭が混乱して、うまく考えがまとまらない。

 千代の笑顔が、まるで目の前に浮かび上がるようにはっきりと蘇った。半年間、三日に一度だけの短い時間だったはずなのに、そのどの瞬間も鮮やかに思い出せる。それらが、誰かに無理やり引きはがされるように遠ざかっていくような感覚に襲われ、葱次郎は思わず息をのんだ。

「旦那が、どうにも商売下手だってね。それに博打も好きなんだって」

「ええ……本当なの。最悪じゃないの」

「まったくね。お金を持つと気が大きくなるのか、使い方が荒くなるのよ」

 聞けば聞くほど胸の奥がざわつき、落ち着きがどんどん奪われていく。周囲のざわめきが耳の外側へ押しやられ、女たちの声だけが妙に鮮明に響く。

 気づけば、葱次郎は無意識のうちにその二人へと歩み寄っていた。

「おい。その話、詳しく聞かせろ」

 声をかけると同時に、二人の女の間へと足を割って入った。ドンと木の壁が音を立てた。二人はそこでようやく錆小路の人間に気がついたらしく、驚いたように目を見開きいてびくりと肩を跳ねさせた。

「ひっ!」

「錆小路の子よ!」

 葱次郎の突然の行動に、通りの空気がざわりと揺れた。誰かが「奉行所から人を呼んでこい!」と叫び、慌てて走っていく姿も見えた。

 だが、葱次郎には周囲の騒ぎなどどうでもよかった。人々がざわつこうが奉行所を呼ばれようが、いま気にすべきことではない。

 葱次郎の迫力に女たちが後ずさりし、逃げようと体の向きを変える。だが、その前に回り込むようにして錆小路の少女たちが道を塞いだ。

「ごめんね。うち達が嫌われてるのは知ってるけど、葱ちゃんの質問に答えてあげて。何もしないからさ」

 微笑みながら落ち着いた声で言う少女に、女たちはもう逃げられないと悟ったらしい。互いに顔を見合わせてから、しぶしぶ口を開いた。

「し、知らないわよ。望月さんのところが、口減らしのために娘を売ったって」

 その言葉に、場の空気が一気に凍りついた。通りを渡っていた風すら動きを止め、耳鳴りだけが静かに響く。まるで周囲から色と音が抜け落ち、時間だけが重く沈んでいくようだった。

「売ったって……どこにだ?」

 声を発した瞬間、自分の喉が砂を噛むように乾いているのに気づく。掠れた声は思った以上に弱々しく、震えを必死で押し殺しているのが自分でも分かった。

「よ、吉原って聞いたけど」

 胸の奥がざわりと大きく揺れた。錆小路で暮らしていれば、吉原の名を耳にすること自体は珍しくなかった。

 吉原――男達からしたら極楽のような場所だが、女からしたら地獄のような場所だという。一度売られれば、二度と戻れないと言われる場所。門をくぐった瞬間から、人生の舵は他人の手に握られ、本人の意思はどこにも反映されない。そこへ連れて行かれるということは、すなわち“自由”という道そのものが閉ざされるということだった。

「いつ……?」

「きょ、今日よ。さっき迎えが来てるのを見たわ」

 その言葉を聞き終えるよりも早く、葱次郎は走り出していた。

 石畳を蹴った足裏に、硬い衝撃が跳ね返る。夕方の通りに、葱次郎の走る音が鋭く伸び、周囲のざわめきすらかき消していくようだった。

 

 

 錆小路に戻り、葱次郎は以前絡んできた男たちの溜まり場へ足を向けた。彼らがいる路地の一角は昼間とは思えないほど薄暗く、湿った空気が肌にまとわりつく。

 家の戸を乱暴に開けると、むっとする酒と汗のにおいが一気に押し寄せた。狭い部屋には光がほとんど入らず、薄汚れた布をまとった男や女が何人も床に座り込み、酒樽を転がしながら下品な笑い声を上げていた。

 突然現れた葱次郎に目が向けられたが、彼は一切気にせずその中を真っ直ぐ進む。足元には酒の染みた畳があり、踏むたびにじわりと染み出してくる。

 そんなことは気にも留めず、そのまま部屋の奥へと歩き、頭の男の前に立った。

「おい」

 葱次郎の低い声に、女を両脇に侍らせながら酒をあおっていた男が、面倒くさそうに視線を上げた。酒で赤く染まった頬はだらしなく緩み、焦点の合わない目はどろりと濁っている。

 最初は『誰だ』とばかりに睨みつけてきたが、葱次郎の顔を認めた途端、その唇がにやりと吊り上がった。

「なんだよ。葱次郎じゃねえか」

 男は口では軽く笑っているが、濁った目の奥だけはぎらつき、葱次郎の動きを一瞬たりとも見逃すまいと張り付いていた。その視線は、酔っていても本能だけは研ぎ澄まされている野犬のように鋭い。そうでなければ、この錆小路で“頭”なんぞ務まらない。

「お前、女を吉原に売ったことあるよな」

「ああ、あるぜ。もしかしてこの前の話、乗り気になったのか?」

 男が言い終えた瞬間、家の中にゲラゲラと下卑た笑いが弾けた。笑い声は鈍く反響し、狭い部屋の空気をじわりと汚していく。

「そんなわけねえだろ。どういう道で、吉原に売ったかを知りたいだけだ」

 葱次郎は、その悪意をまともに受けても一歩も引かなかった。薄闇に沈んだ瞳は微動だにせず、路地の冷えた空気すら押し返すほどの強い意志が宿っている。まっすぐに男を射抜くその視線は、揺るぎない。

「なんでそれが聞きてえんだよ?」

 男は目を細め、じろりと葱次郎を観察した。その視線は蛇のようにねっとりと絡みつき、心の奥まで覗き込もうとしているようにも感じる。

「……」

 二人の間に、刀の刃先のような緊張がぴんと張り詰めていた。湿った空気が肌にまとわりつき、ひと呼吸さえ重く感じる。

 沈黙が場を支配し、その重さに耐えかねたように、やがて男のほうが大きくため息を吐いた。

「まあ、どうでもいいや。お前とやりあうのは面倒くせえ。なら、金だ」

「は?」

「金を寄こせ。お前、最近金の入りが良いんだろ? それ全部だ。それで教えてやる」

 男は鼻で笑い、酒で汚れた手をずいと差し出した。要求というより、奪い取る気満々の態度だ。

「やれるわけねえだろうが」

「じゃあ、教えねえよ」

 葱次郎の手が柄にかかった――。

 その瞬間、乾いた音がして、硬貨が床を弾むように転がった。その響きは、静まり返った部屋に妙に大きく響き、男たちの視線が一斉にそちらへ向かう。

 葱次郎が驚いて振り返ると、家の入口に何人もの子どもたちが立っていた。外から差し込む薄明かりに照らされ、泥で汚れた草履や濡れた裾がくっきりと浮かび上がる。 皆、肩を大きく上下させ、走ってきたばかりの荒い息を必死に整えようとしていた。

「これで全部だ!」

 先頭にいた少年が、床板を鳴らしながら駆け込んできた。握りしめていた包みを男にぐいと差し出す。

 男は包みを受け取ると、酒で赤くなった指で雑に紐をほどいた。包みを開くと、中から硬貨がいくつもこぼれ落ち、木の床に乾いた音を立てて転がった。

「へえ。思ったより持ってるじゃねえか」

 薄い光が硬貨の面に反射してちらつき、男の口角がにたりと吊り上がった。その光に照らされながら、男の口角がゆっくりと吊り上がった。にたり、とした笑いが、酒と汗の混じった生臭い空気をさらに濁らせる。

「……いいだろう。教えてやるよ」

 男は床に広げた硬貨を足先で軽く押しやりながら、口を開く。

 語り始めたのは、吉原へ女を流すための裏道。

 その説明を聞き終えると同時に、葱次郎は迷うことなく家を出た。外の湿った空気が肌に触れ、熱くなっていた頭がすっと冷える。

 入口には、さっき駆け込んできた子どもたちが固まって立っていた。葱次郎が前に歩み寄ると、皆が静かに道を開ける。

 なにか言おうと口を開いたが、声がうまく出てこない。

「お前ら……」

 その沈黙を破ったのは、細い声だった。少女が一歩前に出て言う。

「千代さんを助けに行くんでしょ?」

 それを合図にするように、他の子どもたちも次々と言葉を重ねる。

「……服より、千代姉が欲しい」

「千代姉がただここに来ないってだけなら仕方ないって諦められたけど、千代姉が嫌なことされそうになってるなら話は別だよ」

「ちゃんと連れて帰って来てね。葱兄」

 その声はどれもまっすぐで、震えていなかった。

 葱次郎を信じている気持ちが、そのまま言葉になっている。

 葱次郎は、ぐっと唇を結び、こくりと強く頷いた。

 子どもたちの想いを背負い、見送られながら、闇の奥へと駆け出した。

 

 

 千代は、蔵持家の次女として生まれた。兄と姉がいて、その中で彼女は次女として育った。

 祖父が商売を成功させたことで、暮らしは裕福だった。しかし、その豊かさは家族の気持ちをどこか緩ませていた。

 父には、浪費癖があった。祖父とは違って商売の腕がなく、稼ぐよりも使うことの方が多かった。母も同じで、蔵持家の財産を当てにして嫁いできたため、贅沢を当然のように求めた。兄も姉も、お金があるのが普通だと思い込み、出費が増えることに疑問すら抱かなかった。

 気がつけば、蔵持家には借金が積もっていた。父はそれを返すためにあろうことか賭け事に手を出し、その借金は雪のように増えていった。千代は、せめて無駄遣いをやめるようにと家族へ何度も伝えたが、節約するという考えは誰にも受け入れられることはなかった。

 そこで千代は、自分にできることから始めた。食事の量を減らし、習い事も減らし、そして将来の夢である商いのための稽古まで手放した。それほどまでに努力しても、家族はさらに出費を続けた。

 そして、ついに千代が怒りを露わにしたとき、家族は千代を厄介払いするように吉原へ売る決断をした。

 家族のために動いてきたのに、最後にはその家族に背を向けられたのだと思うと、胸の奥がゆっくりと裂けるように痛んだ。

 ――どうすれば良かったんだろう?

 もう、何度目の自問か分からない。

 売られる籠の中で、千代は小さく身を縮めて泣き続けた。声を上げる力もなく、ただ涙だけが頬をつたう。格子の隙間から差し込む昼の光は細く弱く、狭い籠の中に冷たい影ばかりを落としていく。その影が、まるで自分を閉じ込める縄のように感じられた。

 これから先、何年、いや何十年も吉原に縛られるのだろう。男に笑いかけ、媚びを売り、心を削りながら生きていくしかない。望んだ未来などどこにもなく、誰も助けてはくれない。恐怖と絶望が重くのしかかり、胸は締めつけられるように苦しくなった。

 そんな中で浮かんでくるのは、錆小路の子どもたちの顔だった。最初は距離があったのに、いつの間にか同じ場所で笑い合えるようになっていた。あの日々は、暗い暮らしの中で見つけた、小さな宝物のようだった。

 そして最後に思い浮かぶのは、鼻に一文字の疵を持つ少年――わたしの護衛、葱次郎。無愛想でぶっきらぼうなのに、誰よりも真っ直ぐに自分を守ってくれた。共に歩いた時間は決して長くはなかったはずなのに、その日々は胸の奥に深く刻まれている。

 ――彼と過ごした時間が二度と戻らないと思うと、張りつめていた心が一気に崩れ、また涙がこぼれそうになった。

「助けて、葱次郎さん――」

 千代は、葱次郎の傷を拭った手ぬぐいを胸に抱え、ぎゅっと顔をうずめた。布にはまだ微かに、あの日の匂いが残っているような気がした。それだけが、心を支えてくれる。

 そのとき――。

「なんだお前は!」

 籠の外から怒鳴り声が響いた。すぐに、金属がぶつかる硬い音が空気を切り裂く。

 刀と刀がぶつかり合うような強い音が続き、地面を蹴る足音や、誰かが倒れ込むような音が混ざる。

「な、なに……?」

 千代の声は震えた。外では明らかに誰かが戦っている。しかし怖くて、格子の向こうを見る勇気はない。

 鋭い音は少しの間続き、やがてひときわ大きな衝突音が鳴り響いた。

 次の瞬間、外は嘘のように静まり返った。

 刀の音も、怒号も、足音も消える。

 残ったのは、耳鳴りのような静けさだけ。

 その沈んだ静けさの中で、ひとつの気配だけがゆっくりと籠へ近づいてくる。

 息が詰まるほどの恐怖が胸を刺した。

 ――わたしはこのまま死ぬのだろうか。

 そう思うと体が勝手に震え、千代は両手で頭を覆った。

 

 

 葱次郎が籠の暖簾を押し開けると、湿った木の匂いがふっと鼻先をかすめた。薄暗い籠の中で、少女が小さく身を縮め、両手で頭を抱えたまま震えている。

 その姿は、初めて出会ったあの日と変わらない。それに気がついたとき、葱次郎は思わず目を見開き、そして胸の奥がわずかに緩むのを感じた。変わらぬ様子に少しだけおかしく思い、小さく息を漏らした。

 外では、倒れた護衛たちの呻き声や、身体が土の上を引きずられる鈍い音がかすかに混じり合っていた。だが不思議なことに、籠の周りだけはその喧騒が遠ざかり、葱次郎と千代のこの小さな空間だけが、外の世界から切り離されたように感じられた。

「よお、千代」

 葱次郎の落ち着いた声が、籠の静けさに吸い込まれるように広がる。

 千代はその声に反応してびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。薄暗い籠の中でも、涙が頬を伝った跡が光を帯び、揺れる瞳の震えがはっきりと見えた。

 そして、葱次郎の姿をとらえた瞬間、彼女が息を呑むのが分かった。まるで信じられないものを目にしたかのように目を大きく見開き、暗がりの中でその表情がくっきり浮かび上がる。震える唇が何度か形を変え、やっとのことでかすれた声が漏れた。

「そ、葱次郎さん?」

「はやく立て。行くぞ」

 千代の表情が、混乱、安堵、そして困惑へと揺れ動く。状況を飲み込めず思考が追いつかないのか、瞳が細かく揺れる。

 そんな今まで見たことのない千代の表情を見ながら、葱次郎はわずかに口角を上げてそっと言葉をかけた。

「い、行くって?」

「逃げるんだよ。このままだとお前、吉原に売られるんだろ?」

 千代は一瞬、時間が止まったかのように身を固めた。細く震える肩がわずかに揺れ、瞬きすら忘れた瞳は橙の光を映したまま言葉を失っていた。

「……」

 葱次郎が迷いなく差し出した手に、千代はそっと触れかけて――しかし、怯えるようにその手を小さく振り払った。

「わたしは、このまま行きます。このまま行かないと、家族が……。助けに来てくれて、ありがとうございます。最後に貴方に会えて、すごく嬉しかったです」

 伏せられた千代の睫毛が、小刻みに震える。細い肩が上下し、浅い呼吸を繰り返すたびに弱々しく揺れた。

 家の商いは傾き、借金は山のように際限なく積み重なっている。このままでは、祖父が大事に守ってきた蔵持家は本当に潰れてしまう。自分が吉原に売られれば、少しでも家の助けになる。

 そう思い込むことで、必死に納得しようとしていた。

 納得しようとしていたのに――。

「だからなんだよ?」

 葱次郎の声が、その決意の邪魔をする。

「え?」

「それは家のための話だろ? お前がどうしたいかを聞いてんだ。これから先、お前はそれで良いのか?」

 それは、かつて千代が葱次郎へ投げかけた質問。

 千代は口を開きかけるものの、言葉は出てこない。夕暮れの淡い光が格子越しに差し込み、揺れる瞳に細かな光を落とす。

 葱次郎は一瞬だけ外へ意識を向けた。土を蹴る複数の足音が近づき、夕方の空気を震わせている。増援が来たのだと、直感する。

 葱次郎は、そっと千代の肩に手を置いた。触れた瞬間、千代はびくりと肩を跳ねさせ、怯えたように顔を上げた。潤んだ瞳が、まっすぐ葱次郎を見つめ返す。吉原へ行くと言っていたはずなのに、その瞳の奥には、言葉とは真逆の――助けを求める必死の意志が揺れていた。

「……俺は吉原って場所のことはよく知らねえ。でもよ、前にお前は“商いがしたい”って言ってただろ。じいさんの残した店を、さらに大きくしたいって。そのために、いろいろ習い事をしてるって。そんなに頑張ってたのに、本当にその夢をここで終わらせていいのか?」

 葱次郎のその言葉は、溶けるように籠の中へ落ちていった。静かな水面に石を落としたように、その響きは千代の胸の奥でゆっくりと波紋を広げていく。固くなっていた心に、温もりがじんわりと染み込み、胸の奥で苦しさと温かさが静かに混ざり合う。

「もう一回聞くぞ。お前は、吉原に行きたいのか?」

 葱次郎は、千代の瞳をまっすぐに捉えた。揺らぎのない眼差しは、千代の心の奥に静かに触れようとするように深く射抜く。

「もしお前がこのまま行きたいってんなら、俺はここから逃げる。お前が選んだ道だ。それなら、それでいい」

 葱次郎は千代の肩からゆっくりと手を離し、静かに彼女を見下ろした。

 手が離れた瞬間、千代の瞳は頼りを失った子どものように大きく揺れ、今にもしがみつきたくなる不安が、その奥で震えていた。

「……これが最後の質問だ。お前は、吉原に行きたいのか?」

 千代の胸の奥で、押し込めていた気持ちが急にあふれそうになった。 ずっと、「家のため」と自分に言い聞かせてきた。行けば、家が助かる。だから、自分だけが我慢すればいい――そう思って、何度も心を固めようとした。

 だけど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。 怖さも、悔しさも、悲しさも、全部まとめて押し寄せてくる。 今ここで答えを誤れば、もう本当に戻れない気がした。

 千代はぎゅっと唇をかみしめ、小さく首を振った。

「……たくない」

 声はかすれ、今にも途切れそうだった。伏せられたまつげが震え、涙の粒がその先でかすかに光る。

「聞こえねえ」

 葱次郎の短い声に、千代は弾かれたように顔を上げた。涙で濡れた顔に、今まで一度も見せたことのない気迫がその表情に浮かんでいた。

「行きたくないです! わたしは……わたしは、商いをして生きたい!」

 その瞬間、狭い籠の空気が震えた。弱々しかった肩がぐっと持ち上がり、涙で濡れた瞳に光が灯る。今にも折れそうだった少女が、自分の足で立とうとする意志だけははっきりと感じられた。

 葱次郎はその変化を真正面から受け止め、ゆっくりと口元を緩める。

「わかった。お前はここにいろ」

 葱次郎は刀の柄を強く握り直した。

 千代は、自分の意志をはっきり示した。震えながらも、確かな声で“生きたい”と訴えた。

 ならば――今度は、自分が応える番だ。

「ここからは、護衛の仕事だ」

 夕暮れの風が頬を刺すように冷たかった。空気は張り詰め、遠くの土煙さえ緊張で固まるように見える。籠の向こうでは、千代を送り届ける

ために集められた護衛たちが列を成し、その増援までもが刀を抜き、夕日の光を受けて鈍く光らせていた。

 ざっと見て、およそ二十。 そのすべての視線が、今この瞬間、葱次郎ひとりに向けられている。

「オレが、お前を連れて帰ってやる」

 葱次郎の低い声は、張り詰めた空気を真っ二つに裂くように響いた。その言葉が落ちた瞬間、空気が震え、まるで刀同士がぶつかり合う直前のような金属質の緊張が走る。

 次の瞬間、葱次郎は大地を蹴り、前へ飛び出した。刀を構える動きに迷いは一切ない。夕暮れの斜めの光が彼の影を長く伸ばし、その影が橙色の世界を鋭く切り裂くように駆け抜けていった。

 

 

 七年後。  

 かつて錆小路に漂っていた湿った空気も、今ではもう遠い記憶。あの路地に満ちていた重たい湿気や、どこからともなく漂う澱んだ匂いは、港町の風の中では思い出すことすら難しい。

 千代は町を離れ、海沿いの小さな港町で新しい暮らしを始めていた。朝になると潮の香りが店先まで流れ込み、白い波が寄せては返す音が穏やかに響く。錆小路の薄暗い路地とは対照的に、空は広く開けて光は迷うことなく家々に降り注ぐ。

 港に近い通りには、朝日を受けて白く輝く小さな店がぽつんと立っている。白木で作った引き戸は時間をかけて丁寧に磨かれており、表面にはやわらかな光がそっと染み込むように広がっていた。清潔な暖簾が海風に揺れるたび、潮の香りとともに布の端が小さく揺れ、通りを歩く人々の目を引く。

 そこが千代の新しい店だった。ずっと胸の奥で温め続けてきた「自分の店を持つ」という夢。祖父の店そのものではない。だが、蔵持の名を掲げている店であることに変わりはない。

 静かな海風が吹くこの港町で、千代は確かに夢を叶えたのだった。

「千代姉! この商品ってここに並べるんだっけ?」

 明るい声が、店内に響く。

 棚の前で慌ただしく動くのは、見覚えのある顔ぶれ。錆小路から連れて来た子どもたちだ。かつては日々の暮らしで精一杯だった彼女たちも、今では店を支える立派な店員となっていた。

「いらっしゃいませ!」

 澄んだ港町の空気の中で、店の声は波に乗るように軽やかに広がっていく。海風が店先を抜け、棚に並んだ品々の香りをそっと運んでいく。

 穏やかで、暖かい午後――そんな空気を裂くように、突然外から怒鳴り声が飛び込んできた。

「おい、先に並んでたのは俺だろうが!」

「何言ってんだ、俺はずっとここにいた!」

 港の通りは常に人が行き交い、漁から戻った船の荷下ろしの声や、客を呼ぶ子どもたちの声が絶えず響いている。行列ができるのも珍しくなく、時にはちょっとした誤解から揉め事が起こることもある。

 この日も、潮風を押しのけるような鋭い怒声が響き、周囲のざわめきが一瞬だけ止まった。海鳥の鳴き声さえ遠のくその響きに、千代は気持ちを切り替え、暖簾を押し分けて外へ駆け寄った。

「待ってください、落ち着いてください!」

 千代は、喧嘩を止めようと二人の間にそっと身を入れようとする。

「邪魔すんな!」

 しかし、怒りにまかせて腕を振り上げた男が、勢いそのままに拳を振り下ろした。風を裂く鋭い音がひゅっと走り、その拳を千代へと落とす。一瞬の緊張が、空気をきつく締めつけた。

 その直後、千代の視界を黒い影が横切り、すっと前へ割り込む。

 ――ガシッ。

 固いものにぶつかった衝撃が通りに短く響き、男の拳は千代にぶつかる直前で止まった。

 風に揺れた黒髪が真昼の強い陽光を受け、その奥で鋭い黒い瞳が怒気とも冷静さともつかない光を宿し、まっすぐに男を見据えている。鼻を横切る一文字の疵が、白く冴えた日差しを反射した。

 そこに立っていたのは、葱次郎だった。

「……なにしてやがる」

 静かな声だったが、怒鳴り声よりずっと強い圧を持っていた。その一言が空気をきっぱりと切り替える。二人の男は圧に目をそらし、しぶしぶ腕を下ろした。

「ケンカすんなら、よそでやれ」

 葱次郎が一歩前へ踏み出すと、押されるように二人の男は小さく俯いて後ずさった。乾いた海風が通り抜け、張りつめていた空気をさらう。

 千代は胸にそっと手を当て、ようやく大きく息を吐き出した。

「ありがとうございます。護衛さん」

 そう言って千代は、胸の高鳴りをそっと押し隠すように微笑み、隣に立つ葱次郎を見上げる。

「別に。仕事だ」

 葱次郎は短く返す。その声音はそっけなく聞こえたが、ほんの一拍彼女の無事を確かめるように目が向けられた。

 店の中へ戻り、また賑やかな時間が流れていく。

 夕暮れが港町を染め、店じまいの時刻になる。子どもたちが戸締まりを済ませると、町はゆっくりと夜の姿を見せ始めた。遠くで船の灯が瞬き、潮風は日中よりも冷たくなる。

 千代はふと外へ出て、店先の柱に寄りかかる葱次郎の隣へと歩み寄った。暮れかけた空の下、二人の袖がそよぐ海風にふわりと揺れる。

 並んで歩き出すと、足音が小さく響き、潮の香りが二人の間を通り抜けていく。こうして二人きりで肩を並べるのは、久しぶりだった。

「ここに来て良かったですね」

 千代がそっと言葉をこぼす。風がその声をやわらかくさらい、すでに陽が沈みきった群青の空へ静かに消えていった。

「……ああ。ここは、食うか食われるかの町じゃない。あいつらも、自由に生きることが出来る。まあ、今日みたいな連中もときどきいるがな」

「ふふ、そうですね。これからもよろしくお願いしますね、護衛さん」

 それから、千代はほんの一歩だけ近づき、葱次郎の肩越しに流れる潮の匂いを感じながら、そっと耳元へ顔を寄せた。

「――いいえ、今は旦那様でしたね」

 葱次郎は照れたように顔をそらした。陽はすでに沈み、群青の空の下でも、彼の耳がほんのり赤く染まっているのが分かる。照れ隠しのように顔を背ける姿を見つめながら、千代は静かに微笑みを浮かべた。

 夜の帳が、ゆっくりと港町を包み込む。店先の灯りがぱっと柔らかく灯り、風に揺れながら周囲を淡く照らす。海風が光を細かく揺らし、影がゆらりと伸びては寄り、その度に二人の距離を包み込むようにやさしく寄り添った。

 その柔らかな灯りは、二人と子どもたちが歩むこれからの道を、穏やかに、そして確かに照らし続けていた。

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