中
それから、三日に一度夕方になると、葱次郎は千代を迎えに行くのが習慣になった。
錆小路を抜けるまでの、約三十分。千代を連れて歩くだけの、簡単な仕事。
錆小路の入り口付近で、彼女はいつも控えめに微笑みながら待っている。薄紅の夕日が町を染め、往来を行き交う人々の声が霞む中、二人はゆっくりと闇へ歩き出す。
葱次郎にとっては、ただの護衛の仕事だ。金がもらえるなら、それで良い。
だが、千代はよく喋った。話の内容は他愛もないことばかりである。「習い事をしている離れの前で黒毛の猫を見た」とか、「先生が奥さんと喧嘩をして、少し機嫌が悪かった」とか。
最初のうちは相槌を打つ必要もないと黙り込んでいた葱次郎も、返事をしないと報酬を減らすと脅されては無視するわけにもいかず、仕方なく口を開くようになった。
彼女の雑談を斜め前で聞きながら、葱次郎は適当に返事をしながら周囲を警戒する。けれど、ときどき千代の言葉の端に、彼女の家のことや身の上に関わるような話が混じることがあった。
「うちの家は、祖父の代から続く商家なんです。祖父は本当にすごい人で、何もないところからお店を構えて、町でも評判になるまでに成長させました。祖父が亡くなったあとは、父がそのあとを継いで……なんとか頑張っています」
千代は、誇らしげに話した。目元は柔らかく、夕日の光を受けて輝いている。
「わたし、小さいころから、祖父からいろいろな話を聞かされて育ちました。商いをする背中を何度も見てきて、ずっと憧れてるんです」
その声には、まっすぐな思いが感じ取れた。
葱次郎は、黙って歩く。葱次郎の世界には、荒んだ大人しかいなかった。誰かを尊敬するとか、目標にするなんて考えたこともない。
千代の話を聞きながら、そんな自分との違いに、ほんの少し胸の奥がざらつく。
「ね。葱次郎さんのご両親は、なにをしていらっしゃるんですか?」
千代が、ふと尋ねる。その何気ない問いに、葱次郎は一瞬だけ足を止めた。
「オレに親なんていねえよ。小さい頃に捨てられたらしい。育ててくれた親父みてぇなのもいたけど……もう死んじまった」
言葉は淡々としていたが、その奥にかすかな影が宿る。夕暮れの光が彼の頬をかすめ、ほんの一瞬だけその表情を照らした。
脳裏に浮かぶのは、薄暗い部屋の中で木刀を握る大人の姿。打ちつけられるたび、畳の上に血の跡が点々と残った。酷い育ての親だった。毎日、殴られた。それでも葱次郎は泣かなかった。泣けば、もっと叩かれたからだ。そういう環境だったから、強くなるほかなかった。
「……そう、でしたか。ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
「別に気にしてねえよ。昔の話だしな。思い出してもなんともねぇ」
葱次郎は肩をすくめ、視線を逸らすように前を向いた。
千代はその仕草を見て何か言いかけたが、結局言葉を飲み込む。
二人の間に、しばし静かな風が吹き抜けた。家の軒先から灯がともり始め、空は群青に染まっていった。
出会ってから、一月くらいが経った。
千代は、いつものように葱次郎の半歩後ろを歩いている。夕方の柔らかな光が通りを包み、地に落ちる影がゆっくりと伸びていた。
葱次郎はいつも通り千代の話他愛のない話に適当に相槌を打ちながら、周囲の物音を耳で追う。
「葱次郎さんは、夢はありますか?」
突然投げかけられた問いかけに、葱次郎は足を緩めた。
「夢? そんなもんねえよ」
「そうなのですか?」
「……こんなところに住んでるやつがどうやって夢なんか見つけるんだよ。ガキ共の面倒見るのもあるし、日々食ってくので精一杯だ」
葱次郎がぶっきらぼうに言うと、半歩後ろを歩いていた千代が横に並んできた。彼女は歩調を合わせながら、葱次郎の顔を覗き込むようにそっと見上げてくる。
ガキ共というのは、葱次郎が面倒を見ている錆小路に住む子どもたちのことだ。別に面倒を見るつもりなどなかったけれど、何回か関わっていくうちにいつの間にか彼の周りに集まるようになっていた。
「それは、あなたがこの通りで生きていく場合のお話でしょう? 錆小路のことも、お金のことも、全部忘れてください。そのうえで、あなた自身がどうしたいのかを教えてください」
千代が、答えを急かせないような声音で言う。声には柔らかい温もりがあり、急かすでもなく、そっと背中を押すような響きがあった。
葱次郎はしばし黙り、千代の言葉を反芻するように息を吐く。もしこの町に住んでいなかったら――そう考えてみても、物心ついたときからここに住んでいるためになかなか想像がつかない。だが、なんとなくこういうことがしたいというのはあった。
葱次郎はその空を見上げ、言葉を選ぶように口を開く。
「……よくわかんねえ。けど、人を守る仕事がしてえな」
千代は一度、驚いたように目を瞬かせた。けれどすぐに、その瞳の奥に柔らかな光が宿り、小さく笑みを浮かべた。
夕焼けが町並みを染めていく。千代の頬に映る光は温かく、その反射が葱次郎の胸の奥にじんわりと届いた。
「ふふ。素敵じゃないですか」
声はかすかに揺れながらも優しく、残光とともに空へ溶けていく。目の端にチラッと見えたその微笑みは、路地に差し込む夕の光と重なり、葱次郎の胸の奥に静かに残った。
ちょっとだけ恥ずかしくて、千代に顔が見えないように背ける。
「笑うなよ。今はガキ共の世話をするので精一杯なんだ。夢なんてもん持つだけ無駄だ。そういうお前はどうなんだよ?」
「わたしですか? わたしは、商いがしたいです。前もお話したことがあるように、うちは商家ですから。祖父の残したお店を、さらに大きくしたいです」
葱次郎がちらりと横目を向けると、千代は真っすぐ前を見据えていた。夕暮れの光がその横顔を照らし、瞳には静かな強さが宿っている。
葱次郎は何を言えばいいのか分からず、小さく息を吐いた。胸の奥に、言葉にできないざらついた感情が残る。
「へえ」
それを隠すように、相槌を打つような声を返した。
「へえって。それだけですか? 女性が自分のお店を持つって、大変なんですよ。今もそのために、いろいろ習い事をしているんです」
葱次郎の反応に、千代はつまらなさそうにほっぺを膨らませた。ついさっきまで大人のように見えていたが、その仕草は年相応のあどけなさがあり、思わず口の端を上げてしまった。
「知らねえよ。オレは読み書きもろくにできねえんだから。でも、まあ……なれんじゃねえの。お前は、こんな町に住んでねえんだし」
葱次郎は目を逸らしながらも、照れくさそうに呟いた。足元に視線を落とし、言葉の端を少し噛む。
「ふふふ。ありがとうございます」
千代の声が、夕風に乗って軽やかに響く。嬉しそうな笑顔が花のように咲き、葱次郎はなんだか気恥ずかしくて、顔を少しそむけると歩を速めた。
二人の影が並び、地面の上でゆっくりと伸びていった。
それから、また数回の護衛が過ぎたころ。
「これ、葱次郎さんのお友達に渡してください」
千代が、控えめに丁寧に包まれた包みを差し出してきた。包みからは、ふわりと甘い香りが漂う。
「なんだこれ?」
「お菓子です。今日、習い事で作ったので」
「いいのか?」
「はい。それで、えっと……あの、これも」
千代は少し遅れて、もう一つの包みを取り出した。
夕陽の光が、千代の顔を赤く染めている。
「こ、これは葱次郎さんに」
包みを受け取ったとき、千代の指がほんの少し強張っているのが触れて分かった。しかし、葱次郎がそれを気に留めることはなかった。
「オレに? 別にあんのか」
「は、はい! いつも護衛をしていただいているので、そのお礼です」
「報酬は貰ってるじゃねえか」
「それとは別なんです!」
包みを開けると、中には色とりどりの砂糖菓子が詰められていた。淡い光を受けてきらりと輝き、まるで小さな宝石のようだ。葱次郎は一粒を指先でつまみ、そっと口に運ぶ。舌の上で溶けていく甘さは、これまで味わったことのない味で、体にじんわりと広がっていった。
「……うめえ」
思わず漏れた言葉に、千代の顔がぱっと明るくなる。頬の赤みがさらに濃くなり、目尻が柔らかくほころんだ。
「ふふ、良かったです!」
その笑顔は春の日差しのように穏やかで温かく、葱次郎は胸の奥がなぜだか熱くなるのを感じた。
護衛を始めてから三か月位が過ぎた頃、もはや日常になりつつある千代の護衛に向かうために歩いていると、酒臭い声が背後から飛んだ。
「よお、葱次郎」
振り向くと、三人の男がにやにやと笑いながら近づいてくる。
錆小路の裏稼業ではよく顔を見る連中で、金さえ積まれれば護衛でも運び屋でもやるような手合いだ。過去には、護衛中の人間を「途中で死んだ」と偽って、奴隷商に売り払ったこともある。
目の下に濃い隈を作り、着流しは汚れてしわだらけ。腰には刃こぼれした短刀が見え隠れしている。
「お前、最近女のお守りしてるんだって?」
葱次郎は、無言で男たちを見据えた。その眼差しには、わずかな警戒と苛立ちが宿っている。
「だからなんだよ」
「その女よ。一緒に攫わねえか?」
男の一人が、葱次郎の肩へ手を回した。酒と汗の混ざった臭いが、嫌でも鼻をつく。仲間の二人も、その空気に釣られるように下卑た笑いを漏らす。
「あ?」
「その女、聞けば良いところの娘って話じゃねえか。攫って人質にすりゃ、とんでもねえ額の金が手に入る――」
その言葉を言い終える前に、葱次郎の体が自然に動いた。肩がわずかに沈み、次の瞬間、鋭い裏拳が男の鼻をはじく。鈍い衝撃音が狭い路地に響き、男の体がよろめいて壁にぶつかり、そのまま地面に崩れ落ちた。
「くだらねえこと言ってんじゃねえぞ」
その声音には、怒りよりも冷たい軽蔑が混じっていた。吐き出すような低い声が、湿った路地の空気を震わせる。
窃盗も強盗も、腹を満たすためなら手を汚すこともあった。冷たい夜を生き抜くために、悪事を選ばざるを得なかったこともある。だが、千代を攫う、という考えだけは浮かびもしなかった。考えただけで、胸の奥にどうしようもない嫌悪が広がった。
「てめえ!」
残りの二人が同時に殴りかかってくる。だが、葱次郎はひとりの腕を掴んで地面に叩きつけ、もうひとりの腹に蹴りを入れる。乾いた衝撃音。土埃が舞い上がる。圧倒的な速さで鎮圧したが、掠ったのか葱次郎も拳を受け、頬のあたりから血がにじんだ。
「こんなところに住んでるのにイキがってんじゃねえぞ」
「この掃き溜めから一生出られるわけねえだろうが!」
男たちは呻き声をあげ、泥にまみれたまま逃げ去っていった。湿った地面に足音が遠ざかり、やがて通りには重い静けさが戻る。葱次郎は荒い息を整えながら、唇の端をぬぐった。指先に生ぬるい血の感触が残る。頬を伝う汗と混ざって、鉄の味が口の中に広がった。
いつもの待ち合わせ場所に行くと、千代がこちらに気づいて慌てて駆け寄ってきた。
「葱次郎さん、その頬の傷どうしたのですか!?」
「なんでもねえよ。ちょっと殴られただけだ。ここに住んでたら、こんなことよくあることだ」
本当の理由を話すつもりはなかった。あんな連中のことで、千代に心配をかけたくなかった。
「ちょっと待っててください」
千代は、慌てて懐から布を取り出した。白い布に香のかすかな匂いが漂う。彼女はほんの少し踵を上げて、そっと葱次郎の頬を拭った。
指先がかすかに触れる。冷たいけれど、どこか温もりがある。不思議な感覚だった。
千代の長いまつげが視界の端で揺れ、柔らかな髪が風に乗って葱次郎の頬をかすめる。唇が近づく。互いの吐息が触れ合うほどの距離。
葱次郎の胸がわずかに跳ねた。胸の奥に、これまで味わったことのない感覚が広がっていく。息が浅くなり、心臓の鼓動が耳の奥で響いた。
だがその瞬間、葱次郎は顔をそむけた。
「も、もういい。汚れんぞ、その布」
「いいんですよ。葱次郎さんのは……汚くないです」
千代はにこりと微笑んだ。その笑顔は、錆びついたこの町の空気の中で、ほんのわずかな光のように見えた。
葱次郎は言葉を返せず、ただなすがままにされる他なかった。
半年が過ぎた。三日に一回の護衛は続いている。ときどき襲ってくる輩もいたが、葱次郎がすべて返り討ちにしている。
葱次郎が面倒を見ている子どもたちも、千代と何回か会ううちに千代に懐いた。特に女子たちからの人気は高く、『護衛の付き添い』という名のお喋りにも来るほどである。
髪も着物も乱れがなく、歩く姿までが整っていて、そこには生まれついたような品があった。その凛とした雰囲気が、女子たちの憧れを集めているのだ。
だからこそ、その日のわずかな変化を、葱次郎はすぐに見抜いた。
「こんにちは。葱次郎さん」
千代が通りの角から現れた。けれど、その姿を見た葱次郎は、思わず眉をひそめる。
「お前、それどうしたんだ?」
千代の着物の裾が破れ、布の端が風に揺れている。縫い目がほつれたままになっており、修繕した様子もない。普段はどんな小さなほころびも放っておかない千代にしては珍しい。
「いえ、ちょっと……。なんでもないです」
千代は慌てて袖口を押さえ、視線を逸らした。唇の端を無理に持ち上げようとするが、その笑みはぎこちない。夕暮れの光が頬を淡く染めているせいか、表情のわずかな陰りが余計に目立った。
いつもなら、千代のほうから話してくる。だが、その日は違った。
足を止めたまま、千代は口を固く閉ざしていた。目の動きだけが落ち着かず、何かを隠すように視線を彷徨わせている。通りを抜ける風が着物の裾を揺らし、破れた布がかすかに擦れる音がした。
その沈黙に、葱次郎はそれ以上踏み込めなかった。
その日は、いつもよりも会話が少なかった。
それからまた少しして――。
千代の歩き方は軽いはずなのに、どこか頼りなさがあった。ほつれた着物もそのままに、帯もいつもより少しゆるみ、風に揺れる袖の隙間から細い手首が覗いた。
「ちゃんと食ってんのか?」
葱次郎は、思わず眉をひそめる。袖から覗いたその手は、かつて見た時よりも明らかに細かった。
千代は小さく肩を震わせ、そっと袖を直した。その仕草には、見られたくないものを隠すような気配がある。
「た、食べてますよ! 習い事で、少し疲れてしまって」
そう言って笑うが、一度気づいてしまえば、その頬も以前より少しこけて見えた。笑顔の裏に、無理やり押し込めたような影がある。葱次郎は何か言いかけたが、やめた。
「葱次郎さん」
「なんだよ」
「……ここの人たちは、自由ですか?」
思いがけない問いに、葱次郎は目を瞬かせた。千代の声はかすかに震えている。
自由。
その言葉は、この町には似つかわしくなかった。
「自由なわけねえだろ。ここは、食うか食われるかの町だ。真面目に生きてりゃ報われる……そんな甘い場所じゃねえ。善い奴ほど損をして、悪い奴ほど笑ってやがる。そんな町に、自由なんざあるわけねえだろ」
千代は俯き、風に混じって消えそうな声で「そう……ですよね」と呟く。彼女の瞳の奥に、どこか諦めにも似た色が宿るが、葱次郎がそれに気付くことはなかった。
それから二人は、しばらく無言で歩いた。道の先には薄曇りの空が広がっている。通りの端で、酒を飲む男たちの笑い声が響いていたが、どこか別の世界の音のように感じられた。
やがて出口に辿り着いた時、千代が立ち止まる。
「葱次郎さん。護衛は、今日までで大丈夫です」
「は?」
「実は、習い事を辞めることになりまして。ここを通ることもなくなるのです」
「そうなのか」
「はい。ですので、今日でお別れです」
千代は、丁寧に頭を下げた。その所作は変わらず美しかったが、どこか遠くへ行ってしまう人のような気配があった。
「これまで、ありがとうございました。これ、今までの感謝の気持ちも込めて多めに入れてあります」
「おう」
短い返事のあと、葱次郎は何も言えなかった。千代が背を向け、ゆっくりと歩き出す。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、葱次郎はただ見送ることしか出来なかった。
ふと横を見ると、梅の枝に赤い花がいくつも咲いていた。




