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 どんなに良い鉄でも、磨く手を止めればすぐに曇り、やがて赤い錆が浮く。

 この町も、それと同じだった。白壁の商家や武家屋敷、職人の家が並ぶ通りは、昼間は人でにぎわい、子どもの笑い声が風に乗って響く。しかし、その賑わいからほんの少し外れるだけで、景色はがらりと変わった。

 瓦は欠け、壁は煤け、溝には濁った水がたまり、鼻をつく腐臭が漂う。そこを行き交うのは、素性の知れぬ者ばかり。

 その通りの名前は、錆小路。

 名のとおり、錆のように心も暮らしも腐りかけた人間が身を寄せ合う、町の誰からも見放された一角である。表の通りの人間は寄りつこうともせず、どうしても通らねばならない時は護衛を雇い、籠に閉じこもって早足で抜けるほどだ。実際、この通りを専門に請け負う護衛がいるくらいである。

 だが、ときどき、何を誤ったのか表の人間が護衛も雇わずこの通りに足を踏み入れることがある。

 そんな人間は――。

 

 

「おい、なかなかの上玉じゃないか?」

「吉原に売るか」

「その前に一回味見だけさせてくれよ」

 夕暮れも過ぎ、空が暗くなりはじめた曇り空の下、じめじめとした細い路地の地面に、五人の小汚い男達が一人の少女を囲んでいた。

 華やかな紅色の着物を着た少女は、頭を抱えしゃがみこんで震えることしかできない。恐怖で喉が固まり、呼吸が浅い。泣き声を出そうとしても、声が張りついて出てこない。

 少女を守るものはなにもなく、囲まれているせいで逃げ道もない。ひたすらに冷たい砂利が、着物越しでも膝へと食い込み、痛みを募らせる。足元を吹き抜ける風は冷たく、着物の裾をわずかに揺らした。

 帰るのに遠回りになって時間がもったいないからと、この通りを通ったのが間違いだった。

 そんな後悔だけが、少女の胸を重く沈めていた。

「おい、誰に断ってそいつに手出してるんだ?」

 そのとき、背後から少年の声が響いた。少年の声にしては低く幼さが混じるが、不思議とよく通る。曇り空の下、その声は湿った風を切り裂き、路地の奥まで響いた。

「あ?」

「誰だ?」

 五人の男が、左右を見渡して声の主を探す。しかし、その姿は見えない。

 屋根瓦がかすかに鳴り、闇を裂いて一人の少年が降ってきた。影が一筋、壁を縦に走る。その直後、鈍い音とともに鋭い刃がひとりの男の肩に突き刺さった。血飛沫が暗い壁を染め、路地が一瞬で凍りつく。

 漆黒の、やや長めの髪を後ろで束ねた少年。まだ幼さを残す顔立ちだが、目の奥には年齢に似つかわしくない冷たさが宿っている。鼻には一文字の刀傷。着崩れた漆黒の着物は泥に汚れ、袖口はほつれていた。

「そ、葱次郎だ! 逃げろ!」

 五人の男たちは彼の姿を認めた瞬間、傷口も意に介さず一斉に背を向け、転げるように去っていった。下駄の音が遠ざかり、路地には静けさが戻る。

 残ったのは、地面と壁に染み込む血と、頭を抱えたまま下を向いて動けないでいる少女だけだった。

 葱次郎は刀を一振りして血を払い鞘におさめると、ゆっくりと振り返る。

 突如遠ざかっていく足音に少女はまだ何が起きたのか理解できず、怯えたままゆっくりと見上げる。

 月灯りの下で、冷たかった少年の表情がわずかにやわらいだ。

「よお、心春。帰――」

 言いかけて、少年の声が途切れた。

 少女が顔を上げた瞬間、二人の視線がぶつかる。怯えの中に宿る、澄んだ瞳。

 少年の脳裏に、思っていた人物の顔が重なりかけて消える。わずかに目を見開き、少年は戸惑いを隠せずに瞬きをした。

「誰だよ!?」

 驚いた声が路地に響く。少女もびっくりしたように肩をすくめ、目を丸くしつつもただ静かに彼を見つめ返した。

 頭上では雲間から月が顔を出し、二人を淡く照らす。

 ――それが、葱次郎と千代の出会いだった。

 

 

 少女は、図々しくもこの錆小路を抜けて帰りたいと宣った。

 薄暗い路地には、まだあちこちから住人の下卑た声や笑いがこだまする。

 葱次郎は、少女が再びあの男たちのような連中に出くわす光景を思い浮かべ、眉をひそめた。このまま放って帰せば、また数歩歩いたところで同じことが起こるのは間違いない。

 別に助ける義理はない。だが、一度助けた顔がまた襲われるのは、どうにも気分が悪い。仕方ない。

「ついてこい。出口まで送ってやる」

 ため息をつきながら、葱次郎は少女を錆小路の出口まで送ることにする。

 葱次郎が歩き出すと、その後ろを控えめに少女は付いてきた。

「あの、助けてくれてありがとうございました」

「お前を助けたわけじゃねえ。人違いだ」

「そうだとしても、あなたはわたしを助けてくれました」

 葱次郎の半歩後ろを歩きながら、少女が感謝を込めて言う。

 周囲には、千代の姿を見てひそひそと囁く者たちがいた。桜色の綺麗な着物の裾や明るい色の布地が、場違いなほど目立っている。通りの隅で安酒をあおっていた男たちが、千代を品定めするように見ていたが、葱次郎の鋭い視線が向けられると、舌打ちをして背を向けた。

「わたし、蔵持千代と言います。あなたは?」

「これから二度と会うこともない人間を、覚える必要も名乗る必要もねえ」

 さっき怖い目に遭ったばかりなのを思い出せば、彼女がここを通ることも二度とあるまい。そうなれば、葱次郎がこの少女と顔を合わせることも一生ない。

「あの――」

 黙って歩く葱次郎に、千代は少し迷った素振りを見せて、意を決したように顔を上げた。

「わたし、これから三日に一回このくらいの時間にこの通りを通りたいんです」

「は?」

 葱次郎の眉がひそまり、信じられないといった様子で少女を横目で見た。

「わたし、この先の町で習い事をしていて、帰りにこの通りを通らないと、遠回りになって家に着くのがずいぶん遅くなってしまうんですよ。行きは別の道で行っているので問題ないんですが、帰りだけはどうしてもここを通りたくて……」

「やめとけ。さっきのこともう忘れたのか」

「習い事が終わったあと、どうしてもその日疑問に思ったことを先生へ質問してから帰りたいんです。その分、終わるのに時間がかかってしまうので……」

 千代の手が、葱次郎の袖をぎゅっと掴んだ。少し震える冷たい指先の感触が布越しに伝わり、葱次郎は足を止める。

「だから、あなたを、この通りを通るときの護衛として雇わせてください」

 振り返ると、雲の切れ間からこぼれた月光が千代の横顔を淡くなぞった。夜の闇に溶けそうなほど儚い光の中で、その瞳だけがはっきりと輝きを宿して葱次郎を貫いている。

 風が通り抜け、湿った空気がふたりの間を流れた。静まり返ったようにも思える路地に、わずかな呼吸の音だけが響いた。

 葱次郎は、その真っ直ぐな眼差しに息を詰まらせる。

「……いやだね。なんでガキのお守りをしないといけねえんだ」

 やがて、その視線から逃れるように、顔を背けて吐き出すように言った。

 その言葉に、千代はむっとする。薄暗い通りの冷たい空気の中で、唇をきゅっと結び、葱次郎を睨みつけるように見据えた。

「あなたも同じくらいだと思うのですが……」

 そう言うと千代は、一本の指をすっと立てた。

「一回につき、銅一枚」

 葱次郎の耳がピクリと動く。ほんのわずかだが、動いた。

 千代はそれを見逃さず、唇の端をわずかに上げる。

「銅二枚」

 再び耳が動く。

「銅五枚」

 びくっ。

「銅十枚」

「……やる」

「はい?」

 葱次郎が、わずかに頬を引きつらせて言う。

「やるって言ってんだよ。護衛」

 金とはほぼ無縁な錆小路の少年。単純で、かわいいくらいに分かりやすい男だった。

「ありがとうございます」

 千代は葱次郎の袖をぱっと離し、にまっと笑った。かわいくない。

「それじゃあ、名前を教えて下さい」

「あ?」

「護衛なのですから、もう覚える必要ないとは言いませんよね。改めて、わたしの名前は蔵持千代です。わたしの護衛さん、あなたの名前は?」

「……葱次郎だ」

「葱次郎さん! よろしくお願いいたしますね」

 ぶっきらぼうに言い放った葱次郎だったが、千代の声には弾むような明るさがあった。葱次郎は照れ隠しのように顔を背け、足早に歩く。

 やがて通りの出口が見えてくる。わずかに開けた先に、人の暮らしを思わせる灯りが浮かび始めた。

「これ、今日の報酬です。助けてくれたので、多めにお渡しします」

 千代は懐から小さな布袋を取り出し、両手で差し出す。

 葱次郎が受け取ると、袋の口からわずかに覗いた銅貨が、月明かりを受けてかすかに光り、夜気の中で冷たく鈍く輝いた。久しぶりに見るその輝きに、思わず目を奪われる。

「それでは三日後、また同じくらいの時間によろしくお願いいたしますね。反対側の入り口近くで待ってます」

 千代は両手を揃え、丁寧に頭を下げた。年齢に似合わぬ落ち着きが、その仕草からにじみ出ている。少なくとも、この錆小路に住むような子どもがこれほど丁寧な所作を見せることはない。

 葱次郎は無言のまま立ち尽くし、去っていく千代の背を見送った。細い足が石畳を踏むたびに、かすかな音が夜気の中に溶けていく。やがてその音が聞こえなくなると、路地の闇が再びゆっくりと深く沈み込み、湿った空気が重く垂れ込めた。

 風が一筋吹き抜け、濁った空気をわずかにかき混ぜる。葱次郎は大きく息を吐きながら、夜空を見上げた。

 その風にあおられて、すぐ横の梅の木の枝がかすかに揺れた。

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