第74話 昨日の晩、なんて言った?
「よし、そんじゃそろそろ帰るとするか!」
寝坊した人間とは思えないほどの快活な声が谷に響く。俺は冷めかけたコーヒーを手に、霧深い谷底で肩をすくめた。出発予定時刻を一時間過ぎている。
ここはあの封印研究棟入り口のすぐ近く、〈ルミナ・ドレッド号〉の簡易発着場。
谷底の朝は冷たい霧に包まれていた。あの一夜の焚き火の温もりも、今はすっかり空気の底に沈んでいる。飛行艇の脇で荷を積みながらようやく帰路につく準備が整い、俺は深く息を吐いた。
地面には夜露が降りていて、ブーツの裏に湿り気が残る。焚き火の跡は丁寧に片づけられ、イグザスの設置した臨時の魔導炉も最低限の残火熱だけを保っていた。昨日までの出来事が、まるで幻のように思えるほど静かだった。
「全部、元に戻ったみたいだな……」
ひとりごとのように呟くと、背後から足音。カイが、まだ寝癖のついた髪をかきあげながら現れた。
「おはよー……って、うわ、寒っ!」
「もっと早く起きてれば焚き火の残り火で温まれたぞ」
「むー……昨日飲みすぎたのが悪かったなぁ……でもあの雑炊、最高だった」
「料理の感想と酒の失敗を並列で語るな」
小さく笑って、荷の固定を確認する。カイの手際は乱雑に見えて、意外と丁寧だ。飛空艇の搭載口にぴったり詰められた木箱には、イグザスからの“おまけ”と書かれた封印ラベルが貼られていた。中身はおそらく試作部品か、風力制御の新型基板だろう。
「イグザスも……変わってないな」
「そうだな。あの人、ほんと“好き”だけで生きてる感じ」
「好きだけであそこまでやれるのは、一種の才能だ」
飛空挺の外装に触れる。わずかな震えが指先に伝わる。〈ルミナ・ドレッド号〉は、昨日までとは違う鼓動を宿していた。まるで、新たな血が通ったように、風と会話しているような感覚。
「ま、ちょっと心配だけどね」
「何がだ?」
「“風に好かれすぎた飛空挺”ってのはさ、いつか自分の意思で飛んでっちゃいそうじゃねーか?」
「……お前は本当に詩人か、馬鹿のどっちかだな」
「両方だよ」
澄ました顔で言い放つカイに、俺は小さく肩をすくめるしかなかった。
それでも、こんなやり取りを交わせる今が、なんだか心地よかった。
「そんなことよりカイ。昨日の晩、俺なんて言った?」
「ん? “明日は早朝出発だぞ”でしょ?」
「その通りだ。で、今は?」
「うっさい。わかってたけど……あれだ、枕が悪い」
「お前、自前の枕持ち込んでたよな」
「だからこそ油断したの! 自分の枕って、変な安心感あるじゃん?」
胸を張るその姿に、俺はただため息を吐くしかなかった。こういう調子だ。何年経っても変わらない。豪快なくせに、妙なところが繊細で、抜けていて、まるで子供みたいな大人。
「……まあいい。荷物は?」
「完璧。あんたの荷物も詰めといたよ。重そうだったし、年寄りにはキツイだろ?」
「誰が年寄りだ」
「はは、冗談冗談」
まったく、朝から騒がしい。
俺はコーヒーの最後の一口をすすり、金属のカップを鞄にしまう。少し離れた場所で静かに手を振るイグザスに目を向けた。
「……じゃあ、行くか」
「うん。……ってかさ、もう一回くらいハグしても良かったんじゃね?」
「誰と?」
「イグザスに決まってるだろ。再会して、肩組んで、空飛んで、一緒に雑炊まで食べたんだし」
「……俺はお前の依頼で来ただけだ。それに、あいつはそういうタイプじゃない」
多くを語らない男だが、その手仕事は雄弁だった。風に好かれる飛空挺。緻密な魔導理論と、感情すら込めたような設計。あれはもはや芸術だった。〈シルヴァ・ヴァルザン〉があれだけ軽やかに飛んだのは、技術だけでなく、彼の“想い”が宿っていたからだ。
俺は右手を軽く挙げ、口の中で呟いた。
「……ありがとな、イグザス。……またな」
見送る彼の表情は、どこか寂しげで、そして少しだけ、誇らしげでもあった。
飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉が、静かに浮き上がる。
谷底の湿った空気が押し上げるようにして機体を支え、魔導炉が低く唸りをあげる。推力板が微かに震え、その振動が足元から伝わってくる。
「風、悪くないね。今日は」
操縦席でカイが指を鳴らす。新設された風流制御パネルが、まるで前から備わっていたかのように自然に彼女の手に馴染んでいる。
「以前より反応がいいな」
「ああ。ついでにエンジン周りもいじってもらったんだ。中古パーツだが、今のほうが調子いい」
俺はコクピットの後方、観測席に腰を下ろす。窓の向こうには、霧の海に浮かぶ山の稜線が揺れていた。
「……あっという間だったな」
「まだ旅は終わってないぜ?帰り道だって、大事な旅の一部だろ?」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「確かに。――で、どこか寄るのか?」
「うん。帝都に」
「……は?」
「ほら、せっかくここまで来たんだし、手土産くらい持って帰らないとな?ライルに怒られるぜ?」
こいつ、唐突に爆弾を投げてくるな。
帝都セレスティア。俺にとっては、戦いの記憶と栄光の残滓が眠る場所。
最後に訪れたのは、もう何年も前の話だ。
「……何のつもりだ」
「別に大げさな意味はねえって。少しだけ寄って、食材でも買って帰るだけだ。あとは、あんたの顔見て驚くやつがいるかどうか、ちょっと興味がある」
「余計なことを……」
だが、否定しきれない自分がいた。
灰庵亭の再開には、確かにいろんな準備が必要だ。備蓄も底をつきかけているし、今後の予約状況によっては、大量の仕込みも必要になる。
帝都の市場に行けば、良質な保存食や香草、調味料も手に入るだろう。
そして、ほんの少しだけ――確かめてみたいこともあった。
「……わかった。一日だけな。寄って、買い物して、すぐ戻る」
「はいはい」
こうして、〈ルミナ・ドレッド号〉は再び空を舞った。
目的地は帝都セレスティア――大陸最大の都市であり、かつて俺が“英雄”と呼ばれた場所。
灰庵亭へと戻る旅の途中、過去と今が静かに交差する一日が、始まろうとしていた。
(……頼む。面倒ごとが起きませんように)
そう願って空を見上げた俺の背中で、カイが小さく笑った。
「……フラグ立てたな、親父」
「黙れ」
◇
機体が浮上して間もなく、窓の外に広がる風景が、ゆっくりと表情を変えていった。
霧の海に沈んでいた谷底は、徐々に薄らいでゆく雲のカーテンをくぐり抜け、穏やかな朝日に照らされはじめていた。黄金色の光が崖の縁に差し込み、苔むした岩肌と蔓の絡まる遺構の輪郭を際立たせる。風鏡山群――その奥深く、どこまでも続くような峡谷の連なりが、まるで巨大な神話の絵巻のように眼下に広がっていた。
「……この谷は、やはり深いな」
観測窓に肘をついたまま、俺は思わず視線を傾ける。
飛空挺が高度を上げるに連れて、風鏡山群の全貌が徐々に明らかになっていく。幾層にも折り重なった崖と崖の間を白霧が静かに這い回り、その合間に古の石橋や壊れかけた楼閣の影が、かろうじて姿を覗かせていた。あのアーチ型の橋梁――中央部が半ば崩れ落ちているそれは、かつて帝国がここを研究拠点としていた頃の名残としては、あまりにも古い記憶を携えているように見えた。
この地には帝国よりも遥か昔の文明の痕跡が眠っているという説もある。風鏡山群は地形だけでなく魔力の流れすらも錯綜しており、数百年に渡って数多の探査隊を迷わせてきた“空と地の境界領域”とされていた。イグザスがあそこを選んだ理由も、きっとその“秘匿性”と“自然との共鳴”にあったのだろう。
「まるで、大地そのものが呼吸してるみたいだな……」
俺の呟きに、操縦席のカイがちらりと視線をよこす。
「……あの谷はきっと生きてる。最初に降りたとき、私もそう思ったし」
どこか懐かしむような声音だった。実際、彼女もまたこの数日で、風鏡山群の“内側”と向き合ったのだ。騒がしくて豪胆な彼女でさえ、あの谷に対しては自然と敬意を抱かずにはいられなかったのだろう。
空に漂う霧は、完全に晴れきることはない。ただ、陽が昇るにつれてそれは薄い布のように柔らかくなり、谷を包み込むヴェールの一部として溶け込んでいく。見下ろせば、無数の緑の縞模様が断崖の表面に広がり、まるで大地が流した涙の痕跡のようにも見えた。
静かな風を裂いて、飛空挺は南へと進む。
風鏡山群の稜線が徐々に後方へと遠ざかり、濃密だった霧のヴェールも次第に薄れていく。飛空挺〈ルミナ・ドレッド号〉は、標高を維持したまま帝都セレスティアの方角――大陸中央部の空路へと静かに進路を取った。
高度はおよそ三千メートル。風の流れは穏やかで、機体はほとんど揺れもなく滑るように飛んでいる。雲を見下ろす高さで、地上の森も渓谷も、まるで緻密な刺繍のように静まり返っていた。
「空が……広いな」
俺は観測窓の前に立ち、ぼんやりと広がる蒼空と、陽の光に照らされた雲のじゅうたんを眺める。風鏡山群を越えると地形は一気に変わる。鋭い山岳地帯からなだらかな丘陵と平原が続き、ところどころに農地や村の影が浮かび上がってくる。
「見ろよ、あれ。ナイダル湿原だぜ。もうここまで来たか」
操縦席のカイが、前方の景色を指さす。薄い青緑に光る大湿地帯が、雲の切れ間から顔を出していた。その向こうには、大陸を横断する水銀色の大河〈エステリオン川〉がゆるやかに蛇行しており、その遥か遠く、陽炎のように霞んで見える都市の影――それが、帝都セレスティアだった。
「あと数時間で着くな。……お前、本当に寄るつもりだったのか」
「もちろん。ついでにさ、ルミナ号のエンジンも見てもらおうと思ってたんだ。帝都の工房でな。あそこ、面白い魔導技師が多いからさ」
「……また誰かに頼みごとされるフラグにしか聞こえないんだが」
俺の呟きにカイは肩をすくめるだけで、返事はない。
ルミナ・ドレッド号の内部は見た目以上に広く、そして整備されていた。
全長は約五十メートル。前方に操縦席と観測室、中央部に居住区と貨物庫、後方には整備用の機関室と魔導炉室がある。外見こそ古びた海賊船を思わせる重厚な木造だが、内部構造は近代的で効率的だ。特に機関室は、イグザスによって再設計された新型推進器と風流整流管が導入されており、動力効率が格段に向上していた。
中央の居住区には、長テーブルと簡易キッチン、吊り下げ式の寝台が並ぶ。無骨ながら清潔感があり、まるで“空飛ぶ山小屋”といった趣きだった。俺のような元・地上人間には新鮮で、それでいて、どこか懐かしい落ち着きを覚える空間だった。
そこに集うのは、カイが率いる空賊団――と言っても、実態は半ば自給自足の飛行共同体といった方が近い。
現在、同乗しているのは以下の6名。
⸻
◆副操縦士・マルクス
無口で無愛想な巨漢。航路の設定と高度管理に長け、特に気流読みの精度は驚異的。過去に帝国空軍に所属していた経歴を持つが、今ではすっかりルミナ号の“空の羅針盤”となっている。
◆技術士・ロズ
小柄な少女。飛行士に憧れて技術の道に入り、現在は機関部の管理を任されている。工具を持つと豹変するタイプで、機械に話しかける癖がある。
◆観測手・ディオ
眼鏡の青年。気象魔術と観測魔法の複合術式を独自に開発しており、上空からの視認・記録・航路予測を担う。やたらと理屈っぽいが、実務能力は抜群。
◆補給管理・ティナ
食糧や資材の管理全般を担当。料理も得意で、俺とも何度か食材談義を交わしている。カイいわく「団員の胃袋と財布を握っている最強の存在」。
◆通信士・フェル
外部との魔導通信・伝書符対応を一手に引き受ける青年。妙に耳が良く、音に敏感。操縦中の微かな異音にもすぐ反応する“聴覚特化型”。
◆護衛・ヴァルド
元傭兵の筋肉男。普段は船体清掃や警備を担当しているが、近接戦闘では団員最強。大の猫好きという意外な一面も持ち、寝台の脇に毛糸玉が隠されている。
⸻
船内は彼らの生活の場でもある。荷物の中には釣った魚の干物、風乾中の香草、魔導通信の受信符、誰かの私物らしいボロボロの小説本まで、生活の痕跡が随所に残っている。
「……こうして見ると、本当に“空で生きてる”んだな」
俺がぽつりと漏らすと、カイが振り返って笑った。
「だろ?地上の暮らしもいいけど、ここはここで、俺たちの居場所さ」
“風に愛された船”。その言葉が、妙にしっくりくる空間だった。
船内に一歩踏み込めば、そこには空の生活があった。
カイの言う通り、この〈ルミナ・ドレッド号〉は単なる移動手段でもなければ、戦闘用の艦でもない。完全に“暮らしの場”として機能していた。狭いながらも整理された通路、年季の入った木の床、揺れを抑えるために吊るされた収納棚。誰かが描いた落書きめいた壁の印、寝台の隅に折りたたまれた毛布。すべてが、ここで日々が重ねられている証だった。
船内を歩くと、ちょうどロズとティナが食材の棚卸しをしているところに出くわした。
「この干し根菜、そろそろ使わないと駄目になっちゃう」
「だったら次の飯で使い切る。蒸し物か炒め物、どっちがいいかな」
「……炒めて香草のっけた方が、みんな喜ぶと思う」
そう言って微笑むティナの手元には、俺の知る山菜に近い根がいくつか並んでいた。保存処理も丁寧で、しっかりと風乾されている。彼女の管理能力がなければ、空の上でこれほど安定した生活は営めまい。
「うちの食料庫、ちょっと見習った方がいいかもな……」
「ん? なんか言った?」
「いや、独り言だ」
少し歩けば、今度は後方の魔導炉室でロズが工具を抱えて格闘している。巨大な炉の脇にはまだイグザスの手書き図面が一部そのまま貼られており、修正跡や補足のメモが無数に走っていた。
「……この共鳴管の角度、まだちょっとずれてる気がする」
「気になって直すって言ったら、また“細かすぎる”って笑われそう……でも、私はちゃんと“音”で分かるんだから」
彼女はそんな独り言をぶつぶつと呟きながら、慎重にパーツの向きを変えていた。指先の動きに迷いはない。ポロック(彼女の師匠)譲りの感覚派技術者――小さな背中に秘めた集中力には、思わず感嘆のため息が漏れる。
一方、居住区では護衛のヴァルドが床を雑巾がけしていた。鍛え抜かれた大柄な身体に似合わぬ几帳面な作業だったが、よく見るとその脇に小さな籠が置いてあり、中には数匹の子猫が丸まっている。
「掃除中は静かにしてろよー、毛玉ども……ああ、可愛い……」
最強の護衛が毛玉に骨抜きにされている光景に、声を出して笑いそうになるのを堪えるのが大変だった。
通信室のフェルは、最新の魔導符を操作しながら何やら長文を組み上げていた。どうやら帝都の魔導技師協会へ、部品の相談を送っているらしい。魔力を帯びた符は彼の手元でわずかに青く光り、即座に返信を受信する準備が整っている。
「やっぱ帝都工房の符術応答速度、化け物級だな……」
ぼやく声は自慢とも呆れともつかない。それでも、彼らの技術と日常のひとつひとつが、この飛空挺の“生”を支えていることは明白だった。
操縦席に戻ると、ディオが気象図と航路図を重ねながら微調整を指示していた。
「風向きが若干ずれた。あと十度ほど南南西に修正」
「了解、マルクス。あんたの勘、今日は冴えてるね」
「……勘じゃない。統計と風魔術の合わせ技だ」
無愛想なマルクスの言葉にカイが笑う。だが、確かに彼の指示どおりに針路をずらすと、機体の揺れがさらに軽減された。まるで風の中に道が見えているかのような操縦だった。
誰もが役割を持ち、誰もがこの“空の家”を支えている。
整然としているわけではない。完璧でもない。だがこの船には、地に足をつけたままでは得られない“柔らかさ”があった。どんな気流にも、どんな空模様にも馴染んでみせるような、したたかさと温もり。
それはまるで、風そのもののように――。
俺は深く息を吸い、観測窓の外をもう一度見やった。
そして、間もなく帝都の影が、はっきりと視界に入り始めた――。




