第72話 背中を預けるということ
思えば俺はいつからか――
あいつに頼るようになっていた。
あの頃の俺は、“最前線の獣”なんて呼ばれていた。
任されたのは無茶な作戦ばかりだった。
陣を崩せ。砦を落とせ。敵将を討て。
無傷で帰れとは、誰も言わない。
ただ結果だけを求められていた。
そんな俺の部隊に、いつしか彼女が“同行”するようになった。
「サポート役として、共に動けと言われました。……気に入らないなら、上に報告を」
「別に文句はない。邪魔さえしなければな」
最初は、そんな感じだった。
一部隊を率いる隊長だったとは言え、俺は元々誰かに背中を預けるのが嫌いだった。
それは、仲間たちの裏切りを何度も見てきたからだ。
だが――
初めて“それ”が変わったのは、第五戦域・クルト荒原での作戦だった。
帝国の前線基地が敵の飛空挺団に包囲され、補給線が完全に遮断された。
俺たちはその包囲網を破り、輸送物資を届けるという無茶な任務を背負わされた。
敵の索敵網は完璧だった。
山の陰を伝い、夜明け前に抜ける……その算段は、わずかでも狂えば終わりだった。
「左斜線、風が巻いています。煙の流れが上がっている。……見張りがいますね」
「魔力反応、四体。距離、百五十。風向きに紛れれば、抜けられるか」
フィオナは、静かに言葉を重ねた。
無駄口もなければ、動揺もない。
ただ、的確な判断と、冷静な分析。
だがそれ以上に――
“俺の考えていたことと、まったく同じだった”。
あの夜は、雲ひとつない新月だった。
クルト荒原の空は広すぎて、静かすぎて――それが、かえって恐ろしかった。
風が地面を這い、砂を巻き上げ、遠くで魔導機関の低いうなりが響いていた。
味方の通信は途絶え、頼りになるのは手元の地図と、肌で感じる気配だけ。
俺たちは、まさに敵の“目の中”を通過していた。
そのときだ。
「……隊長、足を止めてください。砂が、揺れています」
フィオナの小さな声が、俺の耳に届いた。
一瞬、何のことかと思った。
だが次の瞬間、俺の足元に、わずかな地割れが生まれた。
砂の下に、魔導式の地雷があった。
しかも“踏み抜いた瞬間”ではなく、“振動の重なり”で発動するタイプだ。
「隊長、下がって。私が……」
「待て。……迂回だ。地形を再確認する」
俺がそう指示すると、彼女はすぐに地図を広げた。
だがその手の動きが、あまりに“手慣れて”いた。
一瞬だけ、その横顔を見た。
白銀の髪が月光に染まり、凍てつく蒼の瞳が戦場の闇を見通していた。
「敵、こちらのルートを予測して陣を敷いています。北側の風下に流れがある。
――風に乗って、一気に駆け抜けましょう」
「……ああ。いけるか?」
「いけます。あなたが前を切ってくれれば」
そのとき、彼女は――
教官である俺に対して、指示を“求める”のではなく、“信じて委ねて”きた。
それは、軍規的には問題があるやり取りだったかもしれない。
だが、現場において何よりも必要だったのは、“命を賭ける判断”の一致だった。
そして俺は気づいた。
俺の考えていた最短突破ルート。
敵の索敵網の死角。
風向きの読みと、月の位置。
全部、彼女が即座に“同じ計算”をしていた。
何も言わずとも、彼女は俺の思考に並び、先回りすらしていた。
“背中を預ける”――
その意味を、俺はようやく理解しはじめていた。
この時俺は初めて、“こいつに背中を預けられるかもしれない”、と。
◇ ◇ ◇
その日から、俺たちは何度も死地を踏んだ。
帝国北方での氷原戦、砂漠での奇襲夜襲、地下遺跡での陣地籠城。
どれも、まともな作戦とは呼べない地獄の連続だった。
けれど、どんな局面でも、フィオナは俺のすぐ後ろにいた。
俺が前に出る。
敵をなぎ払う。
だが剣の間合いを抜けた者は、フィオナがすべて狩った。
あれは、雪嶺の戦場だった。
北方戦線「シェルヴァイン陥没地帯」――氷と雪に閉ざされた峡谷で、俺たちは一週間の間完全に包囲されていた。
吹雪は視界を奪い、通信は機能せず、補給も絶たれた。
部隊の半数は凍傷を負い、装備は凍りつき、剣を抜くだけで刃が欠ける。
それでも、俺たちは戦わねばならなかった。
夜間、吹雪の中を忍び寄る敵影。
音すら聞こえない雪原で、戦闘はほとんど極限状態の中で探る“感覚の勝負”だった。
俺が前に立ち、刀身に魔力を通して一閃すれば、周囲の雪を割って敵の前列を潰す。
しかし背後から迫る斥候や左右に回り込む軽装兵まで、俺一人では捌ききれない。
そのすべてを――フィオナが断ち切っていた。
まるで、音もなく吹き降ろす“銀の斬撃”だった。
あの雪嶺で、俺は一度も後ろを振り返らなかった。
振り返る必要がなかった。
一度だけ、戦闘の隙間にちらりと横目で見た。
雪煙の向こう、——彼女の細身の体が、炎のように揺れていた。
その剣は無駄がなく、そして恐ろしいほど静かだった。
一撃ごとに完結し、二撃目は必要としなかった。
剣先の軌道は風そのもので、相手が何者であれ、その動きに抗うことはできなかった。
凍てつくような蒼の瞳が、戦場を貫いていた。
あるとき、敵の魔導士が周囲に結界を張り、俺の動きを封じようとした瞬間があった。
空間が軋み、風が止まり、俺の視界が歪む。
だがその歪みは、音もなく断たれた。
振り向けば、フィオナの剣が結界の核心を貫いていた。
術者の喉元を突いたその刃は、一滴の血を流さずに済ませていた。
「……術式、解体しました」
彼女は、まるで何もなかったように言った。
吹雪が舞い、彼女の白銀の髪が乱れる。
その瞳だけは、決して揺らがない。
俺が“斬る”なら、彼女は“終わらせる”。
その均衡は、すでに何度も死線を共にした二人にしか築けない信頼だった。
地下遺跡〈第七階層〉での籠城戦でもそうだった。
魔獣に包囲され、出口もない状況で、敵の大群がわずか三十メートルの通路に殺到してきた。
先鋒に立った俺は、魔力を込めて通路の床を爆裂させ、一帯を瓦礫で封鎖。
だが、迂回ルートを通ってくる個体を読み違えた。
「右後方、通路突破を確認――!」
部下が叫んだときにはもう、フィオナが走り出していた。
その背は、氷の剣を纏っていた。
一瞬の間に、通路の端から端までを滑るように駆け抜け、
たった一振りで、突入してきた三体の魔獣を同時に切り裂いた。
音もなく、血飛沫もなく、ただ“倒れた”。
「通路、確保しました。……後方、異常なし」
そう報告する声の背後に、わずかな疲労の気配があった。
だが、その息遣いは誰よりも冷静だった。
魔導の気配が走るたび、蒼い閃光が視界の隅を貫いた。
敵が背後に回ろうとする前に、フィオナの剣がそれを断ち切る。
動きに無駄はなく恐ろしいほど正確で、まるで“俺の死角”という概念そのものを打ち消しているかのようだった。
あの当時に見せていた彼女の動きは、単なる反応の速さだけじゃなかった。
俺がどこまでを斬るか、どこを捨てるか、どこまで踏み込むか――
すべてを“計算していた”んだ。
だからこそ、俺も振り返らなかった。
敵が左右に分かれても、横槍が来ても、フィオナの一撃が遅れることは一度もなかった。
剣の重さを知り、盾の限界を理解し、魔力の流れを読む――それらすべてを、戦いながら同時にこなしていた。
そして何より、“俺の動き”を基準にしていた。
俺が手を上げれば、彼女はそれが“陽動”か“致命”かを即座に見抜いた。
俺が右に斬り込めば、彼女は左から来る敵に対応する。
言葉はなかった。
だが、すでに意思は通じ合っていた。
“そうか、俺たちは、背中を預け合っているんだ”。
そう気づいた瞬間の戦場は、妙に静かだった気がする。
敵の気配すらも、まるで“舞台装置”に思えた。
俺たちが戦う理由は、“生きるため”ではなかった。
“生かすため”に、隣に立つ人間の命を繋ぐために、俺たちは戦っていた。
ある日の作戦で、俺はわざと敵の中央を突いたことがあった。
味方を生かすため、自分を囮にした。
だが、追撃の槍が俺の肩をかすめた瞬間――
「ゼン隊長、しゃがんで!」
その声と同時に、蒼い稲妻が頭上を走り抜けた。
背後から振り下ろされた斧を、フィオナの魔力刃が粉砕していた。
「無茶を、しないでください」
その言葉に叱責の色はなかった。
ただ、“命を守りたい”という純粋な願いがあった。
それは教え子の台詞ではなかった。
仲間として、兵士として、対等に言葉を投げかけていた。
それ以来俺は戦場のどこにいても、フィオナが“そこにいる”と当たり前のように感じていた。
血の匂いの中で、——無数の断末魔の中で、
彼女の気配だけはなぜか“安心できる空気”としてそこにあった。
戦場という地獄において、それは唯一の救いだった。
あのとき、確かに俺は――
命のやり取りを信頼で支えていた。
背中を、預ける。
その感覚を、俺はようやく知った。
誰かを信じるということを、思い出した。
そして――
いつの間にか、俺はあいつに“頼って”いた。
背後から、声がする。
「ゼン、右斜め後ろ、地形が窪んでいます。敵、潜伏中」
「了解」
声が届いた瞬間には、剣が動いていた。
指示なんかなくても動ける。だが、指示があればさらに正確になる。
“お前がいるから、俺は振り返らずに済む”――
そんな信頼が、あの頃の俺を支えていたんだ。
◇ ◇ ◇
……あれは、いつの夜だったか。
戦が一区切りついた晩。
俺たちは仮設の野営地にいた。第五師団の補給が遅れ、ろくな飯も水もなかった。小さなたき火の炎だけが、そこにあった。
兵たちは皆交代で寝静まり、警戒も最小限にしていた。
俺は眠れず、焚き火の前に座っていた。薪のはぜる音が静かに響く。
「隊長。こんな時間まで、起きてるんですか?」
声をかけてきたのは、俺と同じように眠れずにいた彼女だった。
月明かりの下に煌めく朧げなその瞳は、微かな炎の明かりに照らされてほんの少し柔らかく見えた。
「お前こそ。睡眠時間を削るのは俺の真似か?」
「……あなたが先に削ってるからです」
そう言って、彼女は俺の隣に腰を下ろした。
妙に自然だった。隣に座られることに、もはや驚きもしない自分がいた。
「……寒いな」
「ええ。でも、こうして火を見てると、落ち着きます」
言葉が途切れた。だが、不思議と気まずくはなかった。
焚き火の赤が揺れ、風がごくかすかに枝葉を揺らしていた。
静寂というより、ただ“穏やか”だった。
「ゼン隊長」
「なんだ」
「……いえ、なんでもありません。変なことを言いそうになっただけです」
「言ってみろ。どうせ、お前が言うことに驚きはしない」
「……じゃあ、聞いてくださいね」
彼女は小さく息をついたあと、ぽつりと言った。
「あなたと戦ってると……不思議と、生きていたいって思えるんです」
俺は少しだけ目を細めた。
不意に心を突かれたような、そんな感覚があった。
「……そりゃ、兵士としては良い傾向だな」
「そうじゃなくて……」
彼女の声が、少しだけ揺れた。
いつもの鋼のような声音が、わずかに温度を帯びていた。
「私は“戦うため”に生まれたと思っていました。そう教えられて、そう訓練されて、そう生きてきた。でも……あなたと戦場を共にして、違うと思ったんです」
「違う?」
「“誰かのために戦うこと”が、こんなにも……あたたかいものだって、思いませんでした」
俺は思わず、火の中を見つめた。
あの頃の俺は、すでに数多の死を見て、心のどこかが冷えていた。
信頼を失くし、名声を拒み、ただ“終わらせる剣”になろうとしていた。
だけど、こいつは――
この炎の向こうで、誰かの命のために剣を振るうことを“あたたかい”と言っていた。
「……フィオナ、お前は強いな」
「そう、思いますか?」
「思う。お前の剣も、魔法も、覚悟も――全部、強い」
「……なら、少しだけ、弱いところを見せてもいいですか?」
そのとき、彼女がそっと俺の肩に寄りかかってきた。
驚きは、なかった。
自然だった。まるで、そうあるべきだとでも言うように。
「ゼン隊長。あなたの背中は、大きいですね。安心します」
「そりゃまあ、鍛えてるからな」
「ふふっ……そういうところ、変わらないですね」
肩越しに、彼女の髪が触れた。
白銀の髪は柔らかく、風にふわりと揺れた。
ほんの一瞬、俺は躊躇した。
けれど、躊躇のあとで自然に手が動いた。
そっと、彼女の肩に腕を回す。
拒絶はなかった。
ただ静かに、彼女は身を預けてきた。
「ゼン隊長」
「……ああ」
「ずっと、あなたの隣にいたいです」
それは特別な言葉ではなかった。
少なくとも彼女の口から出たその言葉は、他のどの言葉よりも自然な響きを持っていた。
魂が触れ合うような、静かな祈りに似た囁きだった。
そして俺も、それに答えた。
「俺も……お前と並んで、生きていたいと思う」
焚き火の音が、少しだけ強くなった気がした。
あの夜のことは、誰にも話していない。
けれど俺は、今でもはっきりと覚えている。
凍える戦場で、唯一温かかった夜のことを――。




