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第71話 剣を握る理由



帝国屈指の実力を誇る蒼竜騎士団――その隊を率いる男の訓練は、常に過酷だった。


その理由の一つには、蒼竜騎士団そのものが帝国軍内でも異質な存在だったことがある。


蒼竜騎士団――通称“Division Blau-Drache”。

帝国北方の空挺戦術を源流に持ち、風の魔導術と高機動の近接剣術を融合させた、“空の戦場”を主戦域とする最精鋭部隊である。


その設立は約七十年前、帝国が北方防衛線に空中機動戦力を必要としたことに端を発する。

当初は実験部隊としてわずか数十名から始まったが、その卓越した戦術成果により、正式に第五魔導師団内の直属戦団として編成された。


その伝統を受け継ぐ現在の蒼竜騎士団は、空戦連携エアリアル・リンクと呼ばれる複合陣形を駆使し、三次元空間での奇襲・制圧・防衛を自在に遂行する。

その一方、隊員には高度な個人技と判断力が要求され、平均任務生存年数は他部隊の半分以下とも言われている。


そして――そんな命を削る現場の最前線に、常に“指揮官”として立ち続けていたのが、ゼン・アルヴァリードだった。


ゼンは単なる指揮官ではなかった。

隊の誰よりも前に出て、誰よりも冷静に戦場を読み、そして誰よりも確実に部下を生還させる――それが、彼の戦場での姿だった。


だがそれは同時に、彼自身の“訓練”の厳格さを意味していた。

甘さも油断も許されない。

目の前の命を守るためには、すべての者に「限界を超える準備」を課すしかなかった。


蒼竜騎士団の内部では、ゼンの訓練は“血の矯正”とさえ呼ばれていた。

一秒の遅れが死に繋がる現場で、訓練が生温ければ命は守れない。


だからこそ剣の握り方、構えの重心、敵を視界に収める角度――

そのすべてに容赦なく修正を加え、わずかな油断も奢りも見逃さなかった。


「遅い。腰が浮いてる。脇が甘い。やり直せ」


鋼のような声音が、空気を裂く。


「……はい」


「その“はい”が無意味にならないようにしろ」


「……はい」


返す声は、かすれていた。


だが、フィオナは一度も地に膝をつくことなく何度でも立ち上がり、再び剣を構えた。


朝露に濡れた訓練場で、一日数十回もの模擬戦を繰り返す日々。彼女の髪は汗と泥にまみれ、制服の袖は裂け、靴は土に沈んでいた。


それでも瞳だけは曇らない。


冷えた空気の中で、まっすぐにゼンを射抜いていた。


――その目が、最初は気に食わなかった。


貴族の娘という肩書きを背負い、どこか“試されることに慣れた”者の視線。

負けても、倒れても、傷ついても、自分の価値は揺らがないと信じている目。


ゼンは、それを叩き壊すつもりで剣を振るっていた。



◇ ◇ ◇



「今日の訓練は、ここまでだ。片付けて下がれ」


「了解しました、教官」


一日の終わり、フィオナは疲れた様子も見せず、同じく訓練を終えた他の隊員たちと共に礼を取った。だが、誰よりも先に姿勢を正し、最後まで背筋を伸ばしていた。


その律儀さが、また癪に障った。


どこか“答え合わせ”のような顔をしている。

今日も期待された自分でいられたと、そう確信している顔。


ゼンは無言で背を向けた。


そしてある日――


「教官。質問、よろしいでしょうか」


訓練後の片付けを終えたフィオナが、一人歩み寄ってきた。


「……聞くだけならな」


ゼンがそう返すと、彼女は間髪入れずに言った。


「私は、あなたの戦いを見たことがあります。五年前の東部戦線で。竜兵との交戦記録……実際に見ていたわけではありませんが、報告書と解析記録を全て読んで学びました」


「……それが、どうした」


「私は、あなたのようになりたいと思いました」


その言葉に、ゼンの目がわずかに細まる。


「軽々しく言うな。あの戦いに“なりたい”と思うような価値はない」


「そうでしょうか?」


フィオナの声は、少しも揺れなかった。


「私は、あの戦いを通じて、あなたが“生きて戻る”という選択をしたことに、強い意味を感じています。無理を通してでも、生き延びて、誰かを守って帰還する。……それは、私がこれまで学んできたどの理論よりも、強く、まっすぐな戦術です」


ゼンは何も返さなかった。ただ、目を細めたまま立ち尽くしていた。


その表情に怒気はなく、かといって微笑みもない。

ただ何かを測るように、彼女の言葉を一字一句、心の奥に沈めているようだった。


訓練場の空気が、わずかに冷たくなる。

昼を過ぎた太陽が角度を変え、砂塵に長い影を落とした。

ゼンの影とフィオナの影が、地面の上でわずかに触れ、また離れていく。


「……お前は、理想を語るのが上手いな」


その一言に、フィオナは小さく眉を動かした。

けれど否定もせず、ただ静かに彼を見返す。


「そう見えるでしょうか」


「見える。……だが、それは悪いことじゃない。若い者が理想を語れなくなったら、戦場はただの光がない死体だらけの墓場になる」


淡々とした声だったが、どこか遠くを見るような響きがあった。

ゼンの言葉には、経験と後悔が混じっている――それを、フィオナは直感的に感じ取った。

それでも彼の言葉に甘えず、わずかに首を傾けて問い返す。


「あなたも、かつては理想を信じていたのですか?」


ゼンは答えなかった。

風が一陣、訓練場を抜け、乾いた土の匂いが鼻をくすぐった。

その沈黙は拒絶ではなかった。

むしろ、「簡単に答えを与えるものではない」という無言の教えだった。


フィオナはその沈黙を受け止め、言葉を探すように口を開く。


「私は……あなたの剣の教えを、一度も厳しいと思ったことはありません。私はまだ一度も戦場に立ってはおりませんが、戦場に向かうこと、…命をかけて剣を握るということ以上に、厳しいことはないと思っていますから」


ゼンが、わずかに視線を動かした。

その蒼灰の瞳が、フィオナの蒼と一瞬だけ交わる。

まるで冷たい鏡と鏡が、互いを映し合ったようだった。


「分かるつもりになるな。剣を握ることに“正しさ”など存在しない。それは、分かっていいような感覚じゃない」


「なぜそう思うのです?」


「俺がどう思っていようと、それはお前が知るべきことではない」


「……それでも、知りたいんです」


「知って、どうする」


「あなたのように、“生きて帰る”人間になりたい。誰かのために、生きて帰る人に」


短い言葉だった。

けれどそれは、訓練場に響くどんな剣戟よりも真っ直ぐで、強かった。


ゼンの表情が、僅かに変わる。

それは驚きでも肯定でもない。

まるで“過去の誰か”の言葉を思い出したかのような、わずかな動きだった。


彼は静かに息を吐いた。


「……お前は、まだ若い」


「年齢で志は量れません」


「いや、量れる。若いということは、まだなにも“失っていない”ということだ」


淡々とした声に、フィオナは唇を噛んだ。

その一言には、重ねてきた年月の“差”が確かにあった。

彼女にはまだ見えない地平線を、ゼンはとうに越えてきた。

だからこそその距離は近いようで、遠い。


しかし、その距離感を――フィオナは、心地よいとすら感じていた。

誰もが称賛し、守ろうとする貴族の娘としての自分ではなく、

“ただの兵士”として、等しく叱られ、等しく試される場所。

ゼンの前だけは、余計なものが剥がれていく。

そして、それが怖くもあり、誇らしくもあった。


沈黙が落ちる。

風がまた吹き抜け、二人の髪を揺らす。

訓練場の砂が、陽の光を反射してわずかにきらめいていた。



◇ ◇ ◇



曇天のもと、灰色の光が訓練場を斜めに照らしていた。空気は乾き、秋の名残をとどめながらも、確かに冬の鋭さを帯び始めていた。風は吹くたびに砂塵を舞い上げ、兵士たちの足跡をすぐにかき消していく。だが、剣の軌跡だけは、どこかに刻まれ続けているようだった。


それから数日、ゼンとフィオナのあいだに、明確な言葉は交わされなかった。


フィオナは変わらず訓練場に現れ、誰よりも早く剣を取り、誰よりも遅くまで体を動かしていた。その動きには、かつてのような“与えられた優雅さ”ではなく、“自らに課した重さ”があった。まるで自分の罪と弱さを剣筋に溶かし、一本一本の打ち込みで清めようとしているように。


ゼンはそれを観察することをやめなかった。指導の声は少なく、罵声も減った。ただ一つ彼の目が、冷たく鋭く、フィオナの動きの隅々を測っていた。


訓練は過酷を極めた。


朝露に濡れた地面は足を取る。風の音は声をかき消し、剣戟の響きは次第に体力を奪っていく。だが、フィオナは一言の弱音も吐かなかった。倒れてもすぐに立ち上がり、手の皮が剥けても巻き直し、ただ淡々と己の内に積もった“過去”を、技として鍛えようとしていた。



ある日、訓練が終わった直後の夕暮れ時、ゼンはひとり訓練場の端に立っていた。


陽は傾き、空は薄紅に染まり始めていた。風が冷え、木々の枝が軋んでいた。


ふと背後から足音がひとつ、近づいてきた。


振り向かずとも誰かはわかる。


「教官」


フィオナの声は、日に日に変わっていた。あの鋭さ、あの誇り高さに加え、何か――痛みとも、覚悟ともつかぬ“人の重み”が宿っていた。


「……先日は私の話を聞いてくださって、ありがとうございました」


ゼンは返事をしなかった。ただ、目線を空に向けたまま小さく呼吸を吐いた。


フィオナは構わず、言葉を続けた。


「訓練中、あなたがときどき“言葉を選んでいない”ときがあります」


ゼンの肩が、ごくわずかに動いた。


「それは、おそらく……本当の意味で“伝えたい”ときなんだと、最近気づきました」


ゼンは何も言わなかった。だが、それは否定ではなかった。


「私も、ようやく“剣”がただの武器ではないことを、体で理解し始めました」


「……そうか」


その一言だけだった。


だがフィオナの顔には、それで十分だというような静かな光が差していた。


少しの間、無言が続いた。


やがて風が訓練場をかすめ、遠くで鳥が鳴いた。


その音が消えるのを待つようにして、ゼンは口を開いた。


「……お前は、どうして自分から剣を握りたいと思ったんだ」


静かだった。責めるようでも、試すようでもない。ただ、真っ直ぐな問いだった。


フィオナは一度目を伏せた。次に顔を上げたとき、その蒼の双眸は、凍てつく湖面のように澄んでいた。


「……幼い頃、私の兄が……私を庇って死にました」


唐突に、そして静かに語られたその言葉に、ゼンの視線がわずかに揺れた。


「エステル家には、帝国でも古い騎士の家系としての誇りがあります。兄はその象徴でした。優しくて、強くて……家の期待を一身に背負っていました」


彼女は淡々と話した。だがその語りには、かすかに乾いた震えがあった。


「兄は、その日、何も言わずに剣を取って……私を探しに来てくれたのだと思います」


その語りの裏にあったのは、幼すぎる罪悪感と、どうしようもない後悔だった。


「私はまだ七歳でした。母が病で倒れ、家中が不安と緊張に包まれていた頃です。医師の診断では助からないとされていて……でも、私は信じられなかった。ただ、治してあげたいと思ったんです」


エステル家の子として生まれたフィオナは、早くから剣と魔法の才を示していた。家はその才能を磨くことを義務とし、彼女もまた従順に、いや――誇りとして受け入れていた。


「ある日、古い書庫で“ある薬草”の記述を見つけました。“どんな病にも効く神草が、北東の森に自生する”と……」


ゼンは黙って聞いていた。その森の名を、彼は知っていた。〈シリウスの影林〉。かつて魔獣の巣窟とされ、今も一部は帝国の管理下にある危険地帯だ。


「私は、黙って出ていきました。父にも、兄にも言わずに。自分で治すんだって。そうすれば、母が喜んでくれるって……本気で思っていました」


声が少しだけ震えた。


「でも……森の奥で見たのは、ただの薬草なんかじゃなかった。異形の影、爪の音、空気の匂い……怖くて、足が動かなくなりました」


そのとき、彼女を襲ったのは魔獣だった。記憶の中で、それはあまりに速く、あまりに巨大だったという。


「次の瞬間、兄が目の前に立っていました。いつ来たのか、どうやって気づいたのか、わかりません。でも、兄は……私を庇って、背中を向けたまま……一度も振り返らずに……」


そこまで話すと、フィオナは一瞬、目を閉じた。深く長く、まるで傷の奥にある痛みを噛みしめるように。


「血の音だけが、聞こえました」


あの日の空は青く澄んでいた。だが、兄の血が土に染みる瞬間、その空すらも色を失ったようだった、と彼女は続けた。


「私は、叫ぶこともできませんでした。……怖かった。助けようともしなかった。足が、動かなかったんです」


その記憶が、彼女の中で焼き付いているのだと、ゼンは理解した。


「兄は、一言も喋らずに、私を庇って……一瞬のうちに貫かれました。私は……何もできなかった」


小さく息を吐いたフィオナは、拳を握りしめていた。


「あの日私は守られただけで、何もできずに生き残った。家の者たちは言いました。『あなたには未来がある』『この死は無駄ではない』と。でも私は、そう思えなかった」


蒼い瞳がゼンをまっすぐに見据えた。


「それからずっと、問い続けてきました。“なぜ兄が死なねばならなかったのか”。“私に何ができていたら、助けられたのか”」


あの日私が森に行かなければ、兄が死ぬことはなかった――


フィオナの心に、その確信は幾度となく突き刺さった。理屈では割り切れない。誰に責められたわけでもないのに、罪だけが形を成して心の奥に居座り続けた。


生き残った意味を、自分に問うことしかできなかった。


「私は、何のために生き残ったのか。なぜ、兄ではなく私だったのか。その答えが欲しかったんです。ずっと」


その問いに終わりはなかった。だが、一つだけはっきりとわかったことがあった。


「……だから私は、前を向かなければならないと思ったんです」


自分の手で守るために。誰かが庇って死ぬのではなく、自分自身を護りきるだけの力を得るために。


「剣を握ったのは、家の命令ではなく、誰かに評価されたいからでもなく、ただ……私自身が、“あの瞬間の自分”に二度と戻りたくなかったからです」


あのとき、ただ立ち尽くしていた少女のままでいたくなかった。


「兄の死を無駄にしない。そのために私は、生き残った意味を自分の手で作りたいと思ったんです」


その語りにゼンは黙って耳を傾けていた。彼の表情に変化はない。だが、その沈黙には重みがあった。


やがて、風が草を揺らし、訓練場の片隅に落ち葉が舞った。


そして、ゼンが静かに息を吐いた。


それは拒絶でも、同情でもない。淡く、しかし確かに、理解を示す呼吸だった。


彼の心に、何かが届いた証拠だった。


「……それで、強くなりたいと?」


ゼンの問いに、彼女はまっすぐ答えた。


「強くなりたいというより、…ただ、逃げたくないと思っているのです」


言葉に一点の迷いもなかった。彼女の強い決意が、そこにはあった。


「私は貴族の娘として、ずっと“選ばれる側”でした。でも、兄は違いました。自分の意志で剣を選び、自分の意志で命を賭けた。……私も、そう在りたいと願ったんです」


ゼンはその場から動かなかった。だが、彼の表情からわずかに“敵意”が消えたことに、フィオナは気づいた。


「私は剣に選ばれたくはない。選ぶのは、私です。命を預けるに足る剣を、人生を賭けるに足る道を――私の意志で、握るんです」


その静かな宣言に、ゼンはついに目を閉じた。


そのまま短く息を吐く。


「……そうか」


たった一言だった。


それだけで、彼女の過去と覚悟を、彼はすべて受け止めたようだった。


そして再び目を開いたときには、かすかにその瞳の色が変わっていた。


試す者の目ではない。認めた者の、それだった。


ゼンはそのまま、足音も立てずに背を向けた。


「下がれ。次の訓練は夜明けと共に始める」


「……はい、教官」


そうして、フィオナは再び一礼した。


だがその背筋は、前よりもさらに真っ直ぐに伸びていた。



◇ ◇ ◇



それからの訓練は、少しだけ変わった。


ゼンは変わらず厳しく、——容赦なく、鋼のような言葉で彼女を叩き続けた。


だが、フィオナは変わった。


いや、変化に“順応”したと言った方が近い。


振るう剣の角度。

足の運び。

視線の読み方。

そして――攻撃と防御の“意志”の差。


彼女は学んでいた。飲み込み、体に刻み、血肉にしていった。


そしてある日、訓練場の片隅で、彼女はこう言った。


「教官。今日の訓練で、あなたは私に“左斜め下からの踏み込み”を何度も誘いましたね」


「気づいたか」


「はい。あの位置からなら、確かに反撃の角度が広い。私の型では対処できません」


「……ではどうする?」


「型を、捨てます」


ゼンはわずかに口角を上げた。


その夜、焚き火を囲んでいた訓練小屋の裏庭で、ゼンは静かに呟いた。


「フィオナ・ル・エステル……あいつは、“本物”になるかもしれないな」


まだ、それを認めたくはなかったが。



◇ ◇ ◇



フィオナの目は、ずっと変わらなかった。


試される者の目ではなかった。


ただ、まっすぐに、未来を見据える者の目だった。


貴族としての自負でも、天才としての誇りでもない。

彼女は剣を握る者として、命を賭ける場に立つ覚悟を、本当に備えていた。


そしていつしか――


ゼンは彼女のその瞳を、嫌悪ではなく「信頼の証」として受け入れ始めていた。


それは“教官”と“生徒”の関係ではない。


“同じ戦場に立てる者”としての認識。


それが彼の中に、静かに芽生えていく。


フィオナは、決して剣を持つことを諦めなかった。


そしてゼンもまた、彼女にだけは、“諦める理由”を与えなかった。


それが、彼らの“日々”だった。


燃え続ける火のように。

ぶつかり合い、削り合い、それでも消えない熱量だけが、確かに残っていた。


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