第66話 風の峡谷 《スプリント・リム》
空が、息を潜めていた。
山の稜線をかすめる風の流れ。その線に、銀白の機体が浮かぶ。
霧深い風鏡山群の渓谷――その最奥、切り立った崖の中腹に設けられた発着台から見渡せる景色は、まさに“空と地の境界”だった。
下方には、幾重にも折り重なる霧が雲海のように渓谷を満たし、谷底の樹々を呑み込んでいる。遠くには無数の尾根と峰が連なり、朝日を受けた稜線が赤銅色に染まりはじめていた。
空はまだ薄い青のままで、冷たく澄みきっている。風は一定のリズムで山肌を撫で、低く、そして柔らかく吹き抜けていく。どこか湿った苔の香りと、岩肌の冷気が混じった空気が肺をくすぐっていく。
その静寂を破ることなく〈シルヴァ=ヴァルザン〉の銀白の機体が、まるで“風に乗る羽根”のようにふわりと浮かび上がっていた。
甲板に打ち込まれた魔力固定杭が解除されると、機体は地面との繋がりを失い、重力から解放される。だが落ちるのではない。下に沈むのでもなく、“ただそこにあるべくして”空の上に滞在していた。
まるで、風に許可を得てから動くかのように。
機体の外装――新たに調整された〈シルヴァルコア改Ⅲ型〉は霧の粒子を弾くのではなく、やんわりと流す。その滑らかな表面を霧がなぞるように包み込み、光が反射して虹色の輪郭を帯びる。
左右に広がる展開式風切翼はまだ完全には開かず、呼吸を溜め込むようにたたまれていた。
尾翼の先端には、イグザスが最後に取り付けた“風律核”の導波ラインが、淡く青い光を放っている。
周囲の音はほとんどない。唯一、山の上空を流れる気流と、遠くで木々を揺らす音がかすかに聞こえるだけだった。
空は、今――完全に〈シルヴァ=ヴァルザン〉の存在を受け入れていた。
地に縛られず、空に溶け込む。
その佇まいはもはや“空賊の艇”ではなく、“風そのものと共に生きる存在”のようだった。
「……いってくる」
カイが、軽く指を立てて見送る二人に合図する。
装着した同調式の操縦輪は、従来の機械式ではなく、魔力波と神経パルスの中間を通す“感覚伝達型フィードバックリング”。
これは、イグザスが設計した〈シンパシー・コア〉と呼ばれる新型魔導炉の制御系と連動しており、カイの“意志”そのものを推進器に伝えることができる。
船体がわずかに揺れる。
左舷の風斬翼が、風を受けて軽く震えた――まるで“息をする”ような挙動。
「……生きてるみてぇだな」
カイが小さく呟いた。
《シルヴァ=ヴァルザン》の推進構造は、双魔導タービンを主軸に、“竜人魔核制御炉”を心臓に据えて構成されている。
竜人族特有の魔力波長は“竜脈”と呼ばれ、通常の魔導炉では処理できない不安定性を持つが、それを逆手に取ることで“瞬間的爆発出力”と“空間反射的旋回”という極端な機動力を可能にしていた。
しかしその代償として、従来の制御系では「動かすことすら困難」だった。
今回イグザスが施した最大の改良は、“推力と回転トルクを連動させる可変抵抗回路”の再構築と、“同調制御層”によるパルス制御信号の統合化だった。
要するに――
“舵を切る前に、風がどこから来るか”を感覚で知り、“推進する前に、重力のズレ”を体が受け止める。
その“感覚を先回りして”炉心が反応する。
この艇は元より“操縦する”ものではない。“共に飛ぶ”ためのものだった。
カイの指先が、操縦輪をなぞる。
ぐっ、と機体が左に傾く。だがその角度は、空に吸い込まれるように自然だった。
彼女の背中の感覚が機体にそのまま伝わっている――まるで、皮膚の一部が延長されたような錯覚すらある。
カイの視線が、前方に広がる空のグラデーションを捉える。蒼から淡青へ、そして霧の白へと溶けていく光の層。その中に、〈シルヴァ=ヴァルザン〉の機首が、まるで水面を滑る鳥のように突き出していた。
操縦輪に添えた手のひらから、微細な振動が伝わる。風の流れ、気圧の変化、霧の粒子による干渉。かすかな抵抗と揺らぎが、指先と肩、背筋、そして脳の奥へと流れ込んでくる。
機体が息を吐いた。
ほんのわずかに重心が下がる。浮き上がるのではなく、“沈まずに浮かび続ける”という奇妙な感覚。重力と抗力がちょうど釣り合う「静止」と「移動」のはざまに、自分の全身が飲み込まれていく。
カイは、操縦輪に力を込めた。
右へ。
その瞬間、〈シルヴァ=ヴァルザン〉の機体が、尾翼を軸にしてふわりと傾いた。風を切る音が一瞬高まり、その後、まるで時間が伸びたかのように滑らかな旋回に移行する。
高度1500メートル。空の層は風鏡山群の岩稜をなぞるように、無数の渦と層流を抱えている。だが、彼女の操縦はそれを“読む”のではなく、“共に息をする”ようにして空気の動きと重なっていく。
風鏡山群――それは、大陸東部に広がる複雑な気象帯と、魔力干渉層が幾重にも重なる“空の迷宮”と呼ばれる領域だった。
山々の稜線は鋭く、高低差は激しく、霧と雲が昼夜を問わず渦を巻く。古来よりこの地域は“飛行機関の墓場”とされ、多くの飛空艇が消息を絶った記録が残されている。大気の密度は変動し、局地的な魔導風が突如発生する。さらに、風鏡山群には“風の谷”と呼ばれる天然の風洞が多数存在し、それらが複雑に交錯することで、一見穏やかな空にも見えぬ乱流の罠が仕掛けられていた。
上昇に伴い、風の粒子が変わる。湿度、密度、温度。それぞれの微細な違いが皮膚の内側に染みこんでくる。普通の人間なら“感じ取れない情報”すら、〈シンパシー・コア〉によって神経に反映されていくのだ。
雲を抜けた瞬間、光が射した。
濃霧の上に広がるのは、まるで“裏返った世界”だった。下にあるべき雲が、足元で光を受けて銀色に煌めき、その上に艇が浮かぶ。空と地の境界はここにない。ただ、光と影が流れていくだけだ。
「……綺麗すぎて、ちょっと怖ぇな」
カイはそう呟きながら、無意識に背筋を伸ばす。
揺らぎのない軌道。だが完全な制御ではない。あくまで“自分がここにいる”という感覚のまま、艇がその存在を包み込んでくれているだけだった。
船体が静かに浮き上がってから、最初の一分――〈シルヴァ=ヴァルザン〉は、まるで“止まっているかのような滑空”を保ち続けていた。
空気の層が重なるようにして艇を包み、その重なりのどこを抜けても、微細な抵抗と反発が同時に襲ってくる。谷を取り巻く霧の圧力は、ただの水分ではない。空気密度の異常、魔力干渉、気流の反転――風鏡山群独自の“空の迷宮”が牙をむく。
左前方。尾根の影がゆっくりと動いた瞬間、艇の腹を滑る気流が変わった。
カイは一瞬、操縦輪から手を離す。
手で押さえつけるのではなく、体全体で“風の意図”を受け取る。山を撫でる風の、わずかな起伏――浮力が抜ける手前の“沈み込み”に、機体が応じてわずかに角度を変える。
艇の背を押すようにして、風が反転する。
機体はゆるやかに傾き、沈まず、沈みすぎず、ひと呼吸だけ“浮遊”の状態を保つ。
そこから、初動が始まった。
尾翼がわずかに開き、風を掴む。その瞬間、霧の厚みが左舷から急激に増し、船体を“飲み込もう”と迫る。
反射的に右肩を引く。操縦輪が追従し、艇が旋回へと移行する。だが、ここでただ旋回すれば風圧に引き裂かれる。彼女はほんの僅か、心の中で「滑ってくれ」と願った。
それだけで、シンパシー・コアが反応する。
推進器は作動せず、推力ゼロのまま“気圧の谷”に滑り込む形で旋回する。
バンク角わずか12度。だがその軌道は完璧だった。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉は、風の導く通り道に、まるで“もともとそこにいた”かのような動きで入り込み、次の空間層へと滑り込んでいく。
見上げれば、霧の層が幾重にも重なり、わずかな隙間から朝日が零れる。その光は今や彼女の飛行にとって“障害”でもあり、“導き”でもあった。
霧の粒子が光を散乱させる。その輝きの濃淡が、気流の方向と密度を可視化している。
その“光の筋”を、カイは本能で読み取る。
「――ここだ」
短く呟き、操縦輪を押す。
機体は、光と風の交点へと向けて弧を描く。
その軌道の下には“風の断層”――目には見えぬ罠が潜んでいた。
風が重なり合って逆流する領域に突入した瞬間、船体が揺れる。上下左右、同時に三方向から“押される感触”。
重力が狂う。霧の中で空間感覚が曖昧になる。
けれど、カイの指先はぶれなかった。
咄嗟に補助推進を後方へ“逆転作動”させ、艇の尾を跳ね上げる形で風の圧力を逃がす。指の動きに応じて、内蔵された空間感応センサーが“重力の傾き”を補正し、艇は旋回ではなく“ねじれ”を起こして抜け出した。
操縦というより、風との格闘だった。
——しかしその「抵抗」には、どの瞬間にも“暴力”はなかった。
風は暴れているのではない。ただ、自分の流れを守っている。艇はそれに“抗う”のではなく、“共に寄り添う”ことで空にとどまる許可を得ていた。
三つ目の層に突入する頃には、機体の振動も揺れもすっかり穏やかになっていた。
舵を切る。滑る。傾く。整える――
すべての動きが、風と相談するかのように、時間差なく連携されていた。
そして、ついに。
風のうねりが現れる。
霧の層が変形し、渦を巻く。谷を滑るように動いていた気流が突如、縦方向に割れて上下にぶつかり合う。
「きた……」
彼女は反射的に操縦輪を押し出した。同時に、魔導炉が低く唸り、推進器がわずかに回転トルクを増す。だが轟音は生まれない。静寂を保ったまま、船体は風の道を掴み、まるで紙片が滑空するかのように滑り込んだ。
霧が裂け、朝日が反射する。
銀白の外装に虹色の光が一瞬、弧を描いた。〈シルヴァ=ヴァルザン〉はそれに導かれるように進路を変え、山肌に沿って斜め下へと急降下を始めた。だが急激な落下ではない。まるで風に背中を押されているかのような、浮遊感に満ちた降下だった。
谷間の影が近づいてくる。
カイは呼吸を整え、左手で操縦輪を微調整しつつ、右手で補助推力を制御するレバーをなぞる。その動きは、もはや“操縦”ではない。指先で風を感じ取り、それに応じて動き方を“提案する”ような所作だった。
機体はそれに応える。
内蔵された〈シンパシー・コア〉が彼女の神経パルスを読み取り、即座に各部のマイクロ調整を行う。エネルギー効率の最適化、風圧対応の翼角変化、重力偏差の補正。すべてが“感覚に先回りする”速度で反応する。
それは、理屈ではない。
風の揺らぎ、霧の濃度、谷の輪郭、朝日の強度――それらが一瞬ごとに変化する中で、機体は常に「いま、最も自然な動き」を選択し続けていく。
「……こんなに軽いのに、どこにも逃げ場がない」
思わず口から漏れた言葉に、彼女自身が驚く。
この飛空艇は、いまや彼女の一部だった。重力に抗うのではなく、重力を受け入れ、風に任せる。操作の意図は言葉ではなく、気配と共鳴で伝わる。
霧の層を抜けると、下方に広がる岩壁と林の模様が鮮やかに浮かび上がった。谷間にはかすかな陽光が射し込み、湿った地面に水晶のような光が跳ねていた。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉は、その空間をまるで“踊る”ように滑り抜けていった。
上昇。旋回。減速。加速。切り返し――。
それぞれの操作が、風との対話だった。
一切のブレーキ音も、エンジンの唸りもない。ただ、羽ばたきもせず、風に乗って舞う鳥のように――静かに、美しく、気ままに。
それは飛ぶというよりも、“解き放たれた”という感覚に近かった。
空の膜が裂けたような瞬間。風が、まるで舞台の幕を引くように視界を開けていく。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉は斜め上昇から加速に転じると、機体を捻るように“縦に一回転”した。従来の飛空艇では不可能とされた挙動――だが、今の彼女と機体には、その意味さえ“風が教えてくれていた”。
「……この角度、いける!」
カイは足元の“推力板”にほんのわずか力を込める。
魔導炉の反応が脊椎を伝って、背中の羽骨に抜ける――竜人族特有の身体構造が、飛行時に“第三のバランス感覚”として作動していた。
機体が自動的に主翼の展開角を6度変化させ、空中で“すり抜けるように”雲の層を裂いた。
――ごぉぉっ……!
風の轟きが機体を包み込む。
だが、衝突の音ではない。むしろ“空気と機体が会話している”ような、柔らかくも深い、共鳴の音だった。
谷を抜け、山脈の裏手にある風の峡谷 《スプリント・リム》へ差しかかる。
ここは、急峻な岩山に挟まれた天然の風道であり、気流が集中・乱反射する“魔導気象地帯”でもある。通常の飛空艇では航行不可能。だが、そこへ――
「入るぞ、風の喉元に」
カイが目を細める。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉の船体が低く傾き、地表から数メルトの高さで滑空姿勢に入った。
峡谷の両壁が急速に迫ってくる。距離は、およそ翼端から左右2メルトずつ――人の腕を伸ばしても届かないほどの隙間しかない。
「風速変動、予測幅10%以内……舵切る」
彼女は言葉に出すことで、感覚のズレを“機体に知らせる”。
主推進器が“気流に引かれる”ように斜めに出力を偏向。機体の側面が風を“抱えた”まま、流線を保ちつつ連続スラロームを描いていく。
峡谷内の魔力風が、機体の外殻を叩く。
だが〈ヴァルザン〉の新装甲“シルヴァルコア+龍鱗樹皮”は、それを吸収し、わずかに撓むことで“風を逃がす”。
翼の表層に設けられた風導溝が気圧差を逆流させ、機体全体の“浮き”を補助する。
「おいおい……風が躍ってやがる……!」
カイの喉から、獣のような笑い声が漏れた。
これはもう操縦ではない。“踊り”だ。
風の流れ、圧力の起伏、魔力干渉域の“斑”――それらを瞬時に読み取り、最適な機体姿勢を“本能で選ぶ”。
その感覚は、まるで「風の音色に合わせて翼を動かす鳥」のようなものだった。
そのとき、気流が突如乱れた。
峡谷の最奥。上空に位置する“魔力雲”が崩れ、下層に向かって圧縮された魔素の層が落ちてくる。
いわば、“魔導的な落雷”のような現象。
「来るか……っ!」
カイは操縦輪を掴み、即座に対応。
背中の“魔力閾反応”が、空間の偏圧を先に感じ取る。
主翼が一瞬だけ“内向き”に折れ、次の瞬間には“爆裂的旋回”へと入った。
〈シルヴァ=ヴァルザン〉は、まるで風を“蹴った”かのように側転しながら宙を切り裂く。
突風が機体をかすめた――が、その僅か数センチを残して、風の刃は“通り過ぎていた”。
「……乗り切ったな」
彼女はひとつ深く息を吐いた。
そして。
風の帯を滑るように、船体が山肌に沿って旋回する。
「……すげぇな、これ」
カイの声は、無線を通じてゼンとイグザスに届く。
「以前は……この角度で曲がると、内臓が持ってかれる感じだったんだ。
けど今は違う。風が支えてくれてるみたいに、体が浮いてんの」
舵ではなく、風圧と流速を感じながら進行方向を“選ぶ”。
推力調整は“感情”と結びつけられており、カイがほんの少し笑えば、炉心が“軽やかな推進”を選び取る。
怒れば鋭角に、怯めば慎重に、迷えば軋みが生じる。
まさに、“飛空挺と心が繋がっている”状態だった。




