第64話 風に乗る
霧の底から夜が静かに退いていく。
未明の渓谷に風が満ち始める頃、谷間の岩場に佇む一隻の飛空挺が、鈍く銀を帯びた機体を浮かび上がらせていた。
その名は“Ex-XIV”。
名はない。ただ試作型第十四号という番号のみが、それを指す。
しかしそれは、ただの番号ではない。
幾度の失敗と再設計、膨大な時間と労力、そして何より――理想を諦めなかった執念の蓄積だった。
機体は従来の飛空挺とはまったく異なる姿をしていた。
全長は小型〜中型船舶クラス。全体に無駄な装飾や戦闘用の装備は一切なく、あくまで“飛ぶためだけに”研ぎ澄まされた流線形。
艦首は長く突き出し、抵抗を減らすために船体全体が“前傾姿勢”をとる構造になっている。
主翼は二対。上下にずれた形で展開し、風の流れを受け流すように設計された“多層式可動翼”。
外皮は従来の装甲材ではなく、極薄の強化鋼を何層にも積層し、わずかな撓みで衝撃と乱流を受け流す。
「推進じゃない、流れに沿うための形だ」
イグザスの言葉が思い返された。
「この船は、空を割るための刃じゃない。風に抱かれる“葉”でありたい」
ゼンは、機体内部の小さな乗員区画に乗り込んでいた。
操縦席は一つだけ。だが、後方の副操縦ブースに彼とカイが腰を下ろし、各々の固定具で体を支える。
「警告するが、快適な旅ではないぞ」
イグザスが前方の制御盤に手を置いたまま、後ろを見ずに言った。
「その方が慣れてる」
ゼンは答えた。
「面白くなりそうだしな」
カイが笑った。
そして、静かに魔導炉が目覚めた。
機体は微かに浮かび、谷底の霧を下に見ながら風を“待つ”ように停止した。
やがて、機体内部から微かな魔力音が立ち上る。
静かな起動――だが、芯のある脈動。
魔導炉が目覚めると同時に、浮力制御板が微かに展開され、船体は地面からほんの数センチ、わずかに浮き上がった。
「発進、するぞ」
イグザスの声が響く。通信符を通じて、ゼンにもその声が届いた。
「気流、安定。魔力流、規定値内。主推進器、作動――」
イグザスが呟いた。
次の瞬間、“Ex-XIV”は跳ねた。
推進音はない。ただ、風が機体を“持ち上げた”ような感覚。
谷の気流に身を委ねるように、まるで鷹の雛が巣から滑り落ちるように、静かに、だが確実に浮かび上がる。
そして、風が背中を押した。
滑るような上昇。風の層を一枚一枚舐めるように機体は谷を抜け、山の縁へ、雲の端へと出ていく。
「――……っ」
ゼンは、声を失っていた。
外気の気配、魔力の反応、重力の揺らぎ――それらすべてが、この機体と“共鳴”していた。
これは“空を飛ぶ”のではない。
“空と一体になる”。
推進の衝撃ではない。速度でも旋回性能でもない。
その飛行は、ただ風の流れと気流の線に“寄り添い”、自らの質量をほんのわずかに乗せていくだけのもの。
谷の気流が揺らぎ、船体の外壁を舐めていく。
それは風というより、何かしらの“意志”のようだった。触れ、探り、受け入れるかどうかを確かめるように、——慎重に。
機体はそれに抗わない。ただ、身を委ねる。
通常の飛空挺であれば、推進器の制御で風を“突破”しようとするが、これは違った。風の軌道に“忍び寄る”。機体の重心がわずかに傾き、主翼の多層構造が一枚、また一枚と順を追って反応していく。
ひとつひとつの動きは限りなく小さい。
だがそれらが合わさることで、“Ex-XIV”はまるで生き物のように谷の空間を「読む」。
風は刻一刻と変化する――湿度、温度、魔力密度、空気圧。それらの総体が、いまこの瞬間の「空気」を構成していた。
そしてこの機体はそのすべてを“受け入れていく”。乱流の波を波として捉え、抗うでもなく、ただ柔らかく。
船体は羽ばたきもしない。揺れることすらない。
まるで自分の存在が“風に忘れられた”かのように、
異物として拒絶されることなく、空に“混ざる”ような感覚。静けさと一体となるというのは、こういうことか――ゼンは、胸の奥でじわりと何かが溶けていくのを感じていた。
操縦席に座るイグザスは、無言だった。
だが、その指先が触れる操作盤には、まったく力みがない。彼はただ、“空を信じていた”。
風が、持ち上げる。
風が、受け止める。
風が、進ませる。
この空間において、飛空挺という存在は「物体」ではなかった。音を立てず、力も使わず、それでいて確かに“存在している”。
機体の外皮に敷かれた撓る鋼が、空の呼吸を感じているかのように、かすかに脈打つ。
それは魔力反応ではない。“存在”の震えだ。
ゼンは操縦盤の端に手をかけながら、何かに包まれている感覚に気づいていた。
それは風ではない。空だ。
“空がこちらを受け入れている”――そんな錯覚すら真実に思えるほどの自然さ。
外の風景は変わっていた。
下方にある霧の海は、ゆっくりと形を変えながら遠ざかっていく。上昇というより、谷の“空気そのもの”が押し上げているようだ。山肌を滑り、雲の縁に触れるたび、わずかに船体が震え、それに反応して翼の角度が微調整される。
風と機体の間に、確かな“会話”がある。
言葉ではなく、圧でもなく、意志の流れに対する応答。
ゼンは目を閉じた。
そこには、何の恐怖もなかった。自由落下の感覚でもない。浮遊の不安定さでもない。
ただ、“受け入れられた者”にだけ許される安堵のような、穏やかで確かな浮力がそこにあった。
そして――
「……まるで、飛んでないみたいだな」
ゼンが呟いた。
「そう。これが“風に見えないように飛ぶ”感覚だ」
イグザスが静かに答える。
「風は拒絶する。異物を。違和感を。だが、同じ速さで、同じ方向へ、同じ温度で乗れば……拒まれない」
「それが、お前の目指す“空”か?」
「ああ。誰にも見られず、誰にも追われず、ただ風と、空とだけ繋がる空域」
静かな空の中に、ただ一筋の滑空。
遥か下には、霧の海。周囲はまだ陽の届かぬ薄藍の世界。
ゼンはその中で、ひとつの記憶を思い出していた。
――剣を抜き、地を駆け、命を救い、命を奪っていた頃。
そのどれにも、これほどの静けさはなかった。
「……自由だな」
「自由だよ。誰のためでもなく、自分のために飛ぶ。ただそれだけの場所」
イグザスの声は、どこか遠くを見ていた。
「……あんた、嫌いじゃないぜ」
カイが短く笑った。
「俺もだ。お前の飛空挺は俺がきっちり改造してやる。
この船ほどじゃないが、“空に好かれる形”にしてやるよ」
そう言いながら、彼は操縦盤を軽く叩いた。
「そろそろ戻る。まだこの機体は、雲の上には行けない。今は、な」
谷へ戻る着地は滑らかだった。
風に乗り、谷壁の気流を読み、ただ“空気の上に置かれた”かのように、機体は地へ還った。
ハッチが開いた瞬間、冷たい空気が頬を撫でる。
ゼンはまだ、言葉を見つけられずにいた。
空はただ広いだけのものではなかった。
風と話し、空に許されて、初めて“そこにいていい”と感じられる――
そんな場所だったのだ。
「……本当に、変わらないな。お前は」
「そうかもな。だが、俺はまだ“空に届いてない”」
イグザスは、降りた地面を見ながら小さく笑った。
「この機体は、俺の“仮説の証明”。
だが次は、“世界の誰かが飛べるための設計”をとことん突き詰めて作るつもりだ」
ゼンは、その言葉を黙って受け止めた。
そして心の奥に、ひとつの静かな火が灯っていた。
風の音が耳に残る。
谷の霧が再び満ちていく。
静けさは戻ったが、ゼンの胸の中にはどこか新鮮な感覚と動悸が入り混じっていた。
彼が連れて行こうとした空は、まだ知らない“味”と同じだった。
一度触れてしまえば、もう二度と忘れられない――そんな香りがした。




