表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/165

第64話 風に乗る



霧の底から夜が静かに退いていく。


未明の渓谷に風が満ち始める頃、谷間の岩場に佇む一隻の飛空挺が、鈍く銀を帯びた機体を浮かび上がらせていた。


その名は“Ex-XIV”。

名はない。ただ試作型第十四号という番号のみが、それを指す。


しかしそれは、ただの番号ではない。


幾度の失敗と再設計、膨大な時間と労力、そして何より――理想を諦めなかった執念の蓄積だった。


機体は従来の飛空挺とはまったく異なる姿をしていた。


全長は小型〜中型船舶クラス。全体に無駄な装飾や戦闘用の装備は一切なく、あくまで“飛ぶためだけに”研ぎ澄まされた流線形。

艦首は長く突き出し、抵抗を減らすために船体全体が“前傾姿勢”をとる構造になっている。


主翼は二対。上下にずれた形で展開し、風の流れを受け流すように設計された“多層式可動翼”。

外皮は従来の装甲材ではなく、極薄の強化鋼を何層にも積層し、わずかな撓みで衝撃と乱流を受け流す。


「推進じゃない、流れに沿うための形だ」


イグザスの言葉が思い返された。


「この船は、空を割るための刃じゃない。風に抱かれる“葉”でありたい」


ゼンは、機体内部の小さな乗員区画に乗り込んでいた。


操縦席は一つだけ。だが、後方の副操縦ブースに彼とカイが腰を下ろし、各々の固定具で体を支える。


「警告するが、快適な旅ではないぞ」

イグザスが前方の制御盤に手を置いたまま、後ろを見ずに言った。


「その方が慣れてる」


ゼンは答えた。


「面白くなりそうだしな」

カイが笑った。


そして、静かに魔導炉が目覚めた。


機体は微かに浮かび、谷底の霧を下に見ながら風を“待つ”ように停止した。


やがて、機体内部から微かな魔力音が立ち上る。


静かな起動――だが、芯のある脈動。


魔導炉が目覚めると同時に、浮力制御板が微かに展開され、船体は地面からほんの数センチ、わずかに浮き上がった。


「発進、するぞ」


イグザスの声が響く。通信符を通じて、ゼンにもその声が届いた。


「気流、安定。魔力流、規定値内。主推進器、作動――」


イグザスが呟いた。


次の瞬間、“Ex-XIV”は跳ねた。


推進音はない。ただ、風が機体を“持ち上げた”ような感覚。

谷の気流に身を委ねるように、まるで鷹の雛が巣から滑り落ちるように、静かに、だが確実に浮かび上がる。


そして、風が背中を押した。


滑るような上昇。風の層を一枚一枚舐めるように機体は谷を抜け、山の縁へ、雲の端へと出ていく。


「――……っ」


ゼンは、声を失っていた。


外気の気配、魔力の反応、重力の揺らぎ――それらすべてが、この機体と“共鳴”していた。


これは“空を飛ぶ”のではない。


“空と一体になる”。


推進の衝撃ではない。速度でも旋回性能でもない。

その飛行は、ただ風の流れと気流の線に“寄り添い”、自らの質量をほんのわずかに乗せていくだけのもの。


谷の気流が揺らぎ、船体の外壁を舐めていく。

それは風というより、何かしらの“意志”のようだった。触れ、探り、受け入れるかどうかを確かめるように、——慎重に。


機体はそれに抗わない。ただ、身を委ねる。

通常の飛空挺であれば、推進器の制御で風を“突破”しようとするが、これは違った。風の軌道に“忍び寄る”。機体の重心がわずかに傾き、主翼の多層構造が一枚、また一枚と順を追って反応していく。


ひとつひとつの動きは限りなく小さい。

だがそれらが合わさることで、“Ex-XIV”はまるで生き物のように谷の空間を「読む」。


風は刻一刻と変化する――湿度、温度、魔力密度、空気圧。それらの総体が、いまこの瞬間の「空気」を構成していた。

そしてこの機体はそのすべてを“受け入れていく”。乱流の波を波として捉え、抗うでもなく、ただ柔らかく。


船体は羽ばたきもしない。揺れることすらない。


まるで自分の存在が“風に忘れられた”かのように、

異物として拒絶されることなく、空に“混ざる”ような感覚。静けさと一体となるというのは、こういうことか――ゼンは、胸の奥でじわりと何かが溶けていくのを感じていた。


操縦席に座るイグザスは、無言だった。

だが、その指先が触れる操作盤には、まったく力みがない。彼はただ、“空を信じていた”。


風が、持ち上げる。

風が、受け止める。

風が、進ませる。


この空間において、飛空挺という存在は「物体」ではなかった。音を立てず、力も使わず、それでいて確かに“存在している”。


機体の外皮に敷かれた撓る鋼が、空の呼吸を感じているかのように、かすかに脈打つ。

それは魔力反応ではない。“存在”の震えだ。


ゼンは操縦盤の端に手をかけながら、何かに包まれている感覚に気づいていた。

それは風ではない。空だ。

“空がこちらを受け入れている”――そんな錯覚すら真実に思えるほどの自然さ。


外の風景は変わっていた。

下方にある霧の海は、ゆっくりと形を変えながら遠ざかっていく。上昇というより、谷の“空気そのもの”が押し上げているようだ。山肌を滑り、雲の縁に触れるたび、わずかに船体が震え、それに反応して翼の角度が微調整される。


風と機体の間に、確かな“会話”がある。

言葉ではなく、圧でもなく、意志の流れに対する応答。


ゼンは目を閉じた。

そこには、何の恐怖もなかった。自由落下の感覚でもない。浮遊の不安定さでもない。

ただ、“受け入れられた者”にだけ許される安堵のような、穏やかで確かな浮力がそこにあった。


そして――


「……まるで、飛んでないみたいだな」


ゼンが呟いた。


「そう。これが“風に見えないように飛ぶ”感覚だ」


イグザスが静かに答える。


「風は拒絶する。異物を。違和感を。だが、同じ速さで、同じ方向へ、同じ温度で乗れば……拒まれない」


「それが、お前の目指す“空”か?」


「ああ。誰にも見られず、誰にも追われず、ただ風と、空とだけ繋がる空域」


静かな空の中に、ただ一筋の滑空。


遥か下には、霧の海。周囲はまだ陽の届かぬ薄藍の世界。


ゼンはその中で、ひとつの記憶を思い出していた。


――剣を抜き、地を駆け、命を救い、命を奪っていた頃。


そのどれにも、これほどの静けさはなかった。


「……自由だな」


「自由だよ。誰のためでもなく、自分のために飛ぶ。ただそれだけの場所」


イグザスの声は、どこか遠くを見ていた。


「……あんた、嫌いじゃないぜ」


カイが短く笑った。


「俺もだ。お前の飛空挺は俺がきっちり改造してやる。

この船ほどじゃないが、“空に好かれる形”にしてやるよ」


そう言いながら、彼は操縦盤を軽く叩いた。


「そろそろ戻る。まだこの機体は、雲の上には行けない。今は、な」


谷へ戻る着地は滑らかだった。

風に乗り、谷壁の気流を読み、ただ“空気の上に置かれた”かのように、機体は地へ還った。


ハッチが開いた瞬間、冷たい空気が頬を撫でる。


ゼンはまだ、言葉を見つけられずにいた。


空はただ広いだけのものではなかった。


風と話し、空に許されて、初めて“そこにいていい”と感じられる――

そんな場所だったのだ。


「……本当に、変わらないな。お前は」


「そうかもな。だが、俺はまだ“空に届いてない”」


イグザスは、降りた地面を見ながら小さく笑った。


「この機体は、俺の“仮説の証明”。

だが次は、“世界の誰かが飛べるための設計”をとことん突き詰めて作るつもりだ」


ゼンは、その言葉を黙って受け止めた。


そして心の奥に、ひとつの静かな火が灯っていた。


風の音が耳に残る。


谷の霧が再び満ちていく。


静けさは戻ったが、ゼンの胸の中にはどこか新鮮な感覚と動悸が入り混じっていた。


彼が連れて行こうとした空は、まだ知らない“味”と同じだった。

一度触れてしまえば、もう二度と忘れられない――そんな香りがした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ