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第60話 圧縮循環炉



「じゃあ、せっかくだし案内するねー」


ルカはフリューゲルの群れに軽く手を振ると、彼らが自然と道を空けるように散開した。その間を抜け、ルカは谷底の奥へと進み始める。


ゼンとカイも無言で後を追った。ルカの歩調は軽く、まるで自分の庭を散歩するような自然さだったが、足の運びには無駄がなく、滑る岩や崩れやすい段差を巧みに避けて進んでいた。


「こっち、ちょっと通路が狭いから足元気をつけてねー。あと、壁の苔には触らないほうがいいよ。軽い麻痺毒あるから」


さらりと恐ろしいことを言いながら、ルカは細い岩の裂け目のような隘路に身を滑り込ませる。そこから先は、人工物と自然が融合したような異様な通路が続いていた。


床は滑らかに整地されているが、所々に隆起した岩盤や錆びついた魔導配管が露出しており、かつての工事の雑さと年月の経過を物語っていた。


やがて空間が少しだけ開けた先に、変わった構造の部屋が現れた。


「ここが僕の“家”だよ」


ルカが指差したその空間は、まるで異界の一角のようだった。


壁際には透明な保存槽がいくつも並び、その中にはフリューゲルの幼体と思しき個体や、奇妙な双頭の蛇、光を反射する皮膜を持った蝶のような魔生物が収められていた。


天井からは採光魔石が淡く光り、棚には無数の標本瓶や解析装置、手書きの観察記録が無造作に積み上げられている。中央には水槽と観察机が設けられ、スライム型魔物がゆったりと浮遊していた。


「ここでずっと研究してるのか」


ゼンが周囲を見回しながら問うと、ルカは笑って肩をすくめた。


「研究っていうより……観察かな。記録して、比較して、面白い動きを見つけたらちょっと改良してみる。もちろん、無理にいじったりはしないよ? こっちが環境を整えて、それで自然に“変わる”かどうかを見るのが楽しいんだ」


その言葉に、ゼンとカイは視線を交わした。


この男は危険かもしれない――だが、それ以上に“奇妙な存在”でもある、と。


「ま、寄り道はこのへんにして……目的は、こっちでしょ?」


ルカは研究区画を抜け、奥の通路へ足を向けた。


そこから先は明確に“空気”が変わった。霧が薄れ、代わりに乾いた風が流れてくる。岩壁は滑らかに削られ、断熱と導管処理が施された近代的な素材に切り替わっていた。


「この先が、“あの人”の作業場。アクセス制御は彼が直に組んでるから、僕にも入れない区画が多いんだけど……」


そう言って、ルカは手をかざすと、魔導式の扉が無音で開いた。


中にはひんやりとした空気と共に、魔力の微振動が漂っていた。


「……気を引き締めていけよ、ゼン。なんかもう、空気が“研究者の城”って感じだ」


カイがぽつりと呟くと、ルカは笑った。


「正解。ここはね、帝国軍すらそう簡単には手を出せなかった、“魔導炉技術の禁区”みたいなもんだから」


その先には、魔導炉施設――かつて帝国が戦術中枢として用いた、極秘の技術区域が静かに眠っていた。


「じゃ、あとは進むだけだよ。中は広いけど、君たちなら大丈夫でしょ?」


ルカはそう言って手を振り、「いってらっしゃーい」とにこやかに2人を見送る。


扉が閉まる音が響くと同時に、空気の質が変わった。


空間そのものが“外界から切り離された”ような密閉感。魔導炉の外縁とはまるで異なる――緊張感のある、研ぎ澄まされた空気。

湿り気のない乾いた魔力の気配が、辺り一帯に満ちていた。温度も一段低く、わずかに金属と揮発油のにおいが鼻先をかすめた。


通路は狭く、むき出しの導線や管制パネルが壁面を這っていた。床は堅牢な魔導合金で構成され、足音が吸い込まれるように反響しない。まるで、音すら“管理”されているようだった。


「……音が死んでるな」


ゼンが低く呟くと、カイが静かに頷いた。


「完全密閉空間か。風の流れすらない。ここ、やっぱただの研究区画じゃないな」


照明は最小限。天井に埋め込まれた導光管が微かに発光し、床を照らしていた。だがその光は冷たく、人工的な青白さが空間の静けさを際立たせている。


左右の壁には魔導配線が無数に走り、定期的に赤や青の小さな光点が点滅していた。

魔導圧送管、冷却導管、圧縮空気の通気管――それらが蜘蛛の巣のように絡み合い、天井へと伸びている。


少し進むと廊下の幅が広がり、天井も高くなった。柱のない、吹き抜け構造の大広間。


その中央には、巨大な球体状の構造物――魔導炉の副心臓とも言える“圧縮循環炉”が鎮座していた。


周囲には制御端末が何台も並び、表示パネルには現在も魔素圧と内部温度、空気密度などのリアルタイム数値が流れている。廃墟のはずの空間が、未だに“動き続けている”ことが明白だった。


「……これは」


ゼンの目が細められる。


制御系の配線が複数の区画に枝分かれし、そこかしこに冷却フィンと魔素冷却水の循環管が通っている。完全に“生きた施設”だ。


カイが低く口笛を吹く。


「……こりゃあまるで、帝都の研究局がそのまま地下に落ちてきたみたいだ」


「いや、これは……もっと静かで、もっと個人的な空間だ」


ゼンは視線をめぐらせながら、低く呟いた。


実験台の上には、未完成の飛空挺のパーツがいくつも置かれていた。翼の骨格、推進構造の設計図、そして魔力変換の中核となる“風霊核”の試作体。どれも高度すぎて、一目では理解しきれない代物だった。


壁には手描きのフライト・モデルと航行曲線、空力理論の検証記録が無数に貼り付けられており、細かく修正跡が加えられている。その紙一枚一枚が、まるで研究者の“思考の足跡”そのもののようだった。


「……すげぇな」


カイがぽつりと漏らす。


ゼンは返事をせず、ただその空間を目で追った。


機械音も、足音も、誰の声もない。


だが、この静けさの中には、“確かな知性の気配”があった。


まるで、目には見えない“意志”がこの区画全体に染みついているような――そんな錯覚すら覚える。


そして、ほんの一瞬――


天井の通気口から、ごく微かな風が流れ込んできた。


霧の気配は、完全に消えていた。


代わりに空間全体に漂うのは、研ぎ澄まされた“意思”のようなもの。


ゼンは、ゆっくりと剣から手を離し、無防備な姿勢で先へと歩を進めた。


「……行こう。あいつが待ってる」


カイは小さく頷いた。


二人はそのまま、通路の先――光の漏れる区画へと歩みを進めていく。


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