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第59話 場違いな監視役



「はいはい、僕のペットをイジメるのはやめてねー」


眠たそうな声が、空洞の天井付近から降ってきた。


その声はあまりにも場違いで、まるで緊張の糸をわざと切るような脱力した響きを持っていた。


ゼンとカイが反射的に視線を向けた先――そこには、崩れかけた鉄骨フレームの上に片膝を立てて座る一人の人物が。


淡い水色の髪に、左右で色の違う瞳。中性的な顔立ちに、ゆったりとしたポップな服装。どこか子供っぽさを残しながらも、その雰囲気には一切の警戒心が見られない。


その肩には透き通った青のゼリー状の魔物――スライムに似た生き物がぷるぷると揺れていた。


「おい……なんだあれ」


カイが低く唸る。


ゼンも剣を構えたまま、その人物の動きに集中する。


だが、その“気配”は――まるで空気のようにまったく読めない。


敵か味方かさえ判断できない。何者かを見抜くための“兆し”や確かな印象が、一切存在しないのだ。


「ねぇ、ほんとにさぁ。僕が飼ってるの可愛い子たちばっかりなんだよ? ちょっとばかし跳ね回るし、牙はあるけど、噛むときもちゃんと手加減してるんだよ? ほんっと、いい子たちなんだからさ」


その人物――青年にも少女にも見える声の主は、口をとがらせながらそう言うと、ひょいと鉄骨から飛び降りた。


着地の瞬間、靴裏からほんのわずかに魔力が漏れ、空気の弾性を使って着地の衝撃をほぼゼロに抑えている。


(魔力制御……極めて高精度だ)


ゼンの眉がわずかに動く。


だが、相手はまったく構える気配を見せないまま、フリューゲルの群れの中央に歩み寄っていく。


「みんな、ちょっと休憩しててー。はい、静かにねー」


その口調はまるでペットに話しかけるようだったが――


驚くべきことに、それまで臨戦体勢を維持していたフリューゲルたちの動きが止まった。


跳躍の姿勢を解き、鋭く立てていた尾を下げ、まるで言葉が通じたかのように青年の足元へと静かに集まってくる。


「おいおい……マジかよ」


カイが唖然と呟く。


「……あいつ、“統率個体より上”の存在として認識されてる」


ゼンの声にも、わずかに困惑が滲む。


「えへへ、いい子だねー。この子たち、音で座標共有してるでしょ? でもね、それってつまり、“言語の基盤が同じ”ってことなんだよ。だから僕の声がちゃんと届くの」


ぽん、と足元の個体の頭を撫でながら、彼女――いや、“彼”は振り返る。


「というわけで、はじめまして。こんなところに人が来るなんて滅多にないから、ちょっと驚いちゃったよ」


その軽い自己紹介に、ゼンの瞳が細まる。


「何者だ……?」


ゼンが静かに問いかける。


剣先はまだ下ろさず、だが斬る意志もない。ただ、その目は相手の“正体”を測ろうとする緊張と集中に満ちていた。


だがその問いに対し、彼は首を傾げるように微笑んだ。


「何者って……うーん、難しい質問だなぁ」


その言い草も、どこか他人事のようだった。


「魔導技術者ってわけでもないし、冒険者登録もしてないし……あ、でも帝国のIDはまだ生きてるはず。ほら、名前くらいは聞いたことない? ルカ=ラティル。生物科学研究局所属……だった人間」


「……“だった”?」


「うん、昔の話。今はフリー。今は僕の立場は“観察者”って感じかなぁ」


ルカはふわりとした声で続けながら、スライムを手に乗せて、軽く跳ねさせてみせる。


「まあ、状況によっては“研究者”とも言うし、“管理者”とか、“調整役”って言われることもある。でも僕個人としてはね、ただの“好奇心のかたまり”だと思ってるよ。面白い生き物がいたら観察したいし、可愛かったら飼いたくなるし、珍しい現象を見たら記録に残したくなる。ね? 僕、割と単純なんだよ?」


そのあまりに素朴すぎる説明に、ゼンは逆に警戒を強めた。


言葉の端々に“何かを隠している”気配がない。――それ自体が、最も警戒すべき異質さだった。


「……監視役、か?」


「おー、さすが。話が早いね。うん、まあそう。形式上は“監視付き研究員”って立場。ここで研究してる〈イグザス〉さんの監視兼、共同研究者って感じかな?」


ゼンは静かに息を吸い込んだ。


「……やはり、イグザスはここにいるのか」


その問いに、ルカは「ん?」と気の抜けた声を返し、すぐに肩をすくめる。


「うん、いるよ。洞窟のもっと奥――地下の技術棟みたいなとこにね。あそこ、僕じゃ入れない場所もあるけど」


「……やっぱり、“ここ”が彼の拠点か」


ゼンの声には、確信と共にわずかな安堵が滲んでいた。


数年来の行方不明。死亡説すら囁かれていた天才技術者が、本当にこの渓谷で生きていた。そして今も何かを作り続けている。


それは戦場を共にした者としての懐かしさではなく、どこか“希望”に近い感情だった。


「ただねー、ちょっと面倒なのがさ、イグザスさん、超引きこもりなの。人が来たって言ってもすぐ顔出さないし、警戒心強いし……あ、でも君たちなら話は別かな?」


ルカはスライムの頭をぽんぽんと叩きながら、ゼンをちらりと見た。


「ゼン=アルヴァリード。元・帝国軍第五魔導師団所属、“終焉戦役”の生存者、だっけ? 君のこともよく話してたよ。“背中を預けられる数少ない戦士だった”って」


ゼンの眉がわずかに動く。


「……あいつが、そんなことを?」


「うん。だからきっと会ってくれると思う」


そう言って、ルカは親指で背後――崩れかけた通路のさらに奥、岩と配管が交錯する暗がりを指し示した。


「この試験場、地上構造の下にもう一段、旧帝国時代の“技術保管区画”があるんだ。アクセスにはちょっとした手続きが必要だけど、まあ、僕とこの子たちが“見張り”してるから、外部からの進入はほぼ不可能だけど」


「……つまり、イグザスはそこに“籠もって”いるわけか」


「あはは、まさにその通り。彼、ずっとこもってるよ。魔導炉の調整と、新型推進器の構想と、あと何かよく分からない『流体同期装置』とかってやつをいじってる。こっちに顔を出すのは週に一度くらいかな。まあ、食料と魔力補充には来るから、生きてることは確か」


ルカの言葉に、ゼンはわずかに視線を鋭くした。


「……あいつは、自分の存在を隠しているつもりか?」


「ううん、そうでもないよ? ただ、“関わる気がない”ってだけ」


ルカは軽く肩をすくめる。


「まあ、それは僕も似たようなもんだけどね?彼が魔導炉をいじってる間、僕はこうやって可愛い子たちの生態観察とかしててさ。ほとんど無人島みたいな環境だけど、あんまり退屈はしてないよ?」


「……監視って言いながら、好き放題やってるように見えるが」


「え? 当然でしょ。だって、ちゃんと報告書出してるもん。ほら、この子たちの跳躍パターンとか、群れの連携戦術とか、立体戦闘時の挙動パラメータとか――全部、帝都の学会に提出してる。まあ……ほとんど却下されるけどね。保守的なんだよ、あそこ」


ルカは口を尖らせ、スライムを指先でつついた。


スライムは「ぷぃ」と不機嫌そうに震える。


「でもね、この第七渓谷はね、ほんと面白いんだよ。魔導鉱脈、自然循環型の生態系、霧と風による空気濃度の変化、そしてこの子たちみたいな“適応変異種”が自然に発生してる。まるで、魔素の吹き溜まりが“進化の炉”になってるみたいなんだ」


「……つまり、ここにいるのは“自然に生まれた戦術生物”だと?」


ゼンが低く問うと、ルカは楽しげに笑った。


「違う違う。“僕らがその環境を作った”んだよ。帝国がね」


「……!」


「ここの地下、ただの廃墟だと思ってる? 違うよ。“生物兵器適応実験区域”――正式には“風鏡戦略戦術融合実験場(SSBF-07)”。ね? すっごくお役所的な名前でしょ?」


カイの表情が一気に険しくなる。


「帝国の……生物兵器実験場、だと?」


「うん、まあ、名前は物騒だけどね。でもさ、ちゃんと隔離されてたし、暴走事故もゼロ。倫理委員会の通達は……ちょっとグレーだったけど」


「それを、今も……“維持してる”ってわけか」


「正確には“共存してる”。この子たちはもう、単なる実験体じゃない。僕にとっては大事な研究対象であり、同居人みたいなもん」


ルカはそう言って、笑った。


その笑顔には、悪意も敵意もない。


ただ――“常識の外”にいる者だけが持つ、純粋な好奇心の輝きだけがあった。


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