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第56話 零位戦構《ゼロ・オリエント》



霧の帳の奥、その足音すらも霞む静寂の中に、それはいた。


群れの司令塔、《統率個体 (コマンダー・フリューゲル)》。


その双眸は獣のそれでありながら、確かな「思考」の色を湛えていた。


距離、およそ四十メルト。


だが、その個体は動かない。こちらの様子を窺いながら、群れの残骸を背にじっと佇んでいる。


フリューゲルという魔獣は、獣型フェロビーストに属しながらも、幻型ファントビーストとの混成特性を持つとされる。


空嚢核による空間圧縮跳躍。


視界を欺く偏光体毛。


多層構造の頸椎と神経網による高速な群体情報処理。


その中でも、統率個体は明確に“群れ全体の神経核”として機能しており、ただの筋力や速度だけでは測れない“戦略的脅威”を持っていた。


この個体の体長は、3メルト。通常個体よりもひとまわり以上大きく、胴体の空嚢核も二重構造を有している。


何より、異常なのはその“魔力分布”。


「……魔力の流れがない。いや、動いてないんじゃない。動かしていない」


ゼンが低く呟いた。


相手は、待っている。


こちらの出方、術式の特性、戦闘レンジ――それらをすべて“分析してから”動くつもりだ。


「統率型、かつ……知覚型か」


「完全にこっちの間合いを測ってやがるな……。ああいうのは、バカみてぇに突っ込んでこない分、やりづれぇ」


隣でカイが肩をすくめた。


だが、彼女の手はもう次の魔導弾の準備に入っている。


遠距離からの一撃で注意を引くか、あるいは牽制して逃走ルートを削ぐか。


だが――ゼンは、わずかに首を横に振った。


「違う。“来ない”のなら――こちらから、行く」



ゼンの戦闘力は、決してひとつの特性や異能に依存した、単一の能力体系の中に収まるものではなかった。


彼の存在とは、言わば「構造そのものが戦闘手段」という特筆すべき点にある。


細胞一つ、筋肉の収縮ひとつ、神経の電気伝達、呼吸のタイミング――すべてが、魔力との関係性を“持たない”ことで、逆に“接点”として機能する。


『オールノッキング』


それは彼の異能に冠された固有名詞にすぎない。


だが、その本質は――徹底的な“受動性”にある。



魔力とは、本来流動的なエネルギーだ。自然界に満ち、物質を通り、魔術師たちの身体を通って流れる。


この世界のあらゆる魔法、術式、そして能力は、


【自身の中に存在する“魔力の源=魔導核”と、“魔力経路”の設計】


によって発動する。


つまり、魔法とは“回路の設計図”であり、術式とは“起動手順”であり、属性は“変換の方針”だ。


火を扱う者は、火の性質に応じた魔力変換器官を持ち、

風を操る者は、流速と密度変化に対応する“魔素肺”を持ち、

雷を制御する者は、神経と魔素経路の連結精度を限界まで高めている。


それらは皆魔力の発信点を持ち、それを回路に流し、結果として“何か”を放つという体系をとっている。


だが――


ゼンはそのどれにも該当しない。



彼は、魔力の“ゼロ点”に立つ者。


つまり魔力を保有せず、同時に“発する”こともできず。


だが、そこにこそ意味があった。


魔力の総量がゼロであるということは、彼の身体すべてが“他者の魔力を受け入れる構造体”として機能するということ。


いわば彼自身が、空白の魔力回路のようなもの。


何も流れていないからこそ、すべてを“流し込む器”になりうる。


この性質を応用し、彼は独自の戦闘体系を築き上げた。


それが――《零位戦構〈ゼロ・オリエント〉》。



ゼンの戦いは、常に“先手”ではない。


彼が見るのは、魔力の動き。


術者が構える瞬間、呼吸のずれ、空気中の魔素が引き寄せられる軌跡――


すべてが、ゼンの網膜には“魔力回路の設計図”として映る。


魔術とは、起動のための手続き。


ならば、その流れが“形成される直前”にその起点を断てば――術は不成立となる。


接点制御ポイント・ノック


断流遮断カット・ライン


逆流還元リバース・ルート


これらは、ゼンが独自に編み出した魔力干渉の戦術技法だ。


一般的な“魔法”とは違い、術式を描かず、詠唱も不要。


必要なのは、ただ――“触れる”こと。


あるいは、流れに“同期”すること。


それだけで、ゼンは他者の術式を“無効化”し、“停止”し、あるいは“反転”させる。


しかも、彼が操作するのは魔力そのものではない。


彼が干渉できるのは魔力を流すための“回路構造”そのものだ。



地面が、わずかに揺れた。


それは踏み込みの音ではない。


ゼンが一歩だけ――静かに前へと進んだだけだった。


だが、そのわずかな動作が、周囲の“空気”を一変させた。


湿気を帯びた霧の流れが、ぴたりと静止する。


カイが、口をつぐむ。


フリューゲルの統率個体は、その場でわずかに姿勢を低くした。


臨戦態勢――だが、まだ“動かない”。


その知性ゆえに、敵の情報が確定するまでは無駄な一手を打たない。判断力と警戒心、それらを絶妙に保ったまま、空間の“先手”を支配しようとする。


ゼンの右手が、ゆっくりと上がる。


抜刀ではない。構えでもない。


ただ、空気の“流れ”を読むように指先を揺らす。


「……流れているな。まだ、微かにだが……」


ゼンの視界には、統率個体の内部で“魔力回路”がうごめく様が、ぼんやりと映っていた。


身体を動かすためではない。


翼を広げるためでもない。


それは――仲間が全滅した状況下での、“統率の継続プロトコル”。


つまり、この個体は――


「……他の群れとの“接続”を模索している。あれが“統率個体の真骨頂”か」


ゼンの口元が、わずかに引き締まる。


討伐対象としての危険度だけではない。


“通信ノード”としての機能まで持っている個体は、極めて稀だ。


放っておけば、さらに別の個体群を呼び寄せる可能性もある。


「……時間は、ないな」


ゼンは、そっと指を鳴らした。


その瞬間、空間に微かな魔力の歪みが走る。


――否、《魔力の流れ》ではない。


魔力の“伝達回路”への干渉開始の合図。


「行くぞ。あいつはこちらの様子を見極めるつもりだが、逆に言えば慎重にならざるを得ない状況にいると言える」


それは言葉として意味をなしているようで、なしていない。


だが、カイには通じた。


「了解。援護は任せろ」


来ないのならこちらから行く。


しかしそれは先手を取るための行動選択ではなく、あくまで後の先を取るためのもの。


ゆっくり、——しかし確実にゼンの脚が前に出る。


前に進みながら、肩の高さまで上げた右手で弧を描いた。


「“断流構式・灰式:第二閉環”」


再び、魔力の封鎖が始まる。


今度の対象は、“神経信号と空間処理の同期点”。


跳躍すらも封じる、全方向遮断。


張り詰めた霧の中で、静かに“殺意”が交差した――。


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