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第55話 魔力流域




――ノック。


それは、物理的な音も衝撃も伴わない、“意識の打鍵”だった。


一つ、また一つ。


跳躍しようとしたフリューゲルの空嚢核が、“動作未遂”に終わる。


魔力変換が機能しない。


圧縮されるはずの気流が逃げ場を失い、体内に“空走”する。


足元に集中したエネルギーは拡散し、タイミングがずれ、動きが鈍る。


――落ちる。


一体、また一体。


霧を裂いて跳んでいた魔獣たちが、無音のまま地に墜ちる。


爪を振るうことなく、叫ぶこともなく、ただ“重力”に逆らえずに。



「おいおい……」


カイが驚いた声で呟く。


その様は、まるで“操作された操り人形が突然糸を切られた”ようだった。


「呼吸を止めるようなものだ」


ゼンが小さく言う。


「魔力が筋肉を駆動させる。空嚢を膨らませる。跳躍を可能にする。――なら、その回路の一部を止めてやれば」


「……全部、動けなくなるってわけか」


「そういうことだ」



数体のフリューゲルが霧を駆け抜けて突進してくる。


先ほどの一撃で崩れた隊列の外周から、まだ制御可能な個体たちが“自律判断”で動き始めたのだ。


高所からの滑空、谷壁を蹴っての跳躍、巻き上げた霧に隠れながらの高速接近――

三方向からの同時侵攻。


「……来るぞ」


ゼンの言葉に、カイが即座に反応する。


「言われなくても!」


敵の判断は決して悪手とは言えない。フリューゲルの群れとしての行動は単に統率に特化しているだけではない。むしろ、その真価は“集団であること”そのものにある。各個体が独立して動くのではなく、明確な「役割分担」と目的を共有した“戦術生命体”として振る舞っているのだ。


この性質は、ある生物群の戦術と酷似している――それは、「蜂」だ。


自然界における蜂の社会構造は、完全な分業と戦術性をもって知られている。偵察、警護、攻撃、自己犠牲を厭わぬ囮――それらが明確な意思のもとに行われる。蜂は個体で戦うのではない。巣という“一つの命”を守るため、個々の行動が最適化され、全体として“集団で一つの思考”を持つ。


フリューゲルもそれと同じだった。


例えば、正面から突進する個体は、本来の攻撃目的ではなく、あくまで「ゼンの術式展開位置を特定するためのデコイ」である可能性が高い。続いて跳躍する2体がその隙を狙い、時間差攻撃で同時着弾を目指す。それを可能にするのが、彼らが持つ“空嚢共鳴音”による即時通信――つまり、リアルタイムで群れ全体が戦術を共有しているという事実だった。


「……こいつら、考えてやがる」


カイが低く唸る。


あれはただの獣ではない。知性があるのではなく、「群れ全体で一つの脳を持っている」ような戦い方だった。


そして恐ろしいのは――その中に、“自己犠牲”を戦術に組み込んでいるという点だった。


ある一体が、鋭尾を展開してゼンの正面に跳び込む。だが、直前で跳躍軌道が乱れたのか、わずかに方向を逸れ、体勢を崩した。


「ミスったか……?」


そう思った瞬間、その個体は自らの空嚢核を爆破させた。


音はなかった。ただ一瞬、周囲の気圧が不自然に変化し、霧の流れが逆巻く。


ゼンの術式座標が、わずかに揺らいだ。


「……わざとか」


ゼンが呟く。


爆破したのは、戦術的妨害。自らを犠牲にして空間そのものに“揺らぎ”を生じさせた。

そのわずかな時間差を突き、背後から滑空してきた別個体が喉元を目掛けて鋭尾を突き出してくる――。


「ッ……!」


寸前、ゼンが半歩下がると同時に、カイの《雷霆弐号》が閃いた。

反射的に発射された新たな干渉弾が空間に波紋を走らせ、軌道がずれる。


すれ違うように通り過ぎたフリューゲルの尾が、ゼンの前髪をかすめて崖壁に深く突き刺さった。


「……群れってのは、時に“兵器”より厄介だ」


ゼンが呟く。


その言葉は単なる感想ではなかった。

これは“意志なき本能の群れ”ではない。

意思を持たぬ代わりに、「機能」として完成されすぎた群体構造。


群れの中で誰かが死ぬのは、“個体の死”ではない。

それは戦術に於ける“一手”なのだ。


フリューゲルは単なる獣ではなく、統率と連携を主戦場とする“小さな軍”だった。



だが、ゼンは落ち着いていた。


敵の行動や連続的な動きの接点。無駄のない敵の

攻撃の連携は戦術としては完成されている。それぞれの個体のリーチの長さや距離感。空間の広さを最大限に生かした陣形と配置。


少しでも隙を見せれば、次々と繰り出される攻撃の手段と“数”に勢いのまま押し切られてしまうだろう。


流れる動作の中で彼は静かな分析を続けていた。


微動だにせず、——しかしすべてを“見る。


足の運び、膝の沈み、指の緊張、肩の重心。どれひとつ乱さず、戦場の重力に“同調”するようにして立っている。


身体は動いていない。


だが、全身の筋繊維は最小限の反射応答で、常に“臨界寸前”の張力を保っていた。呼吸のリズムすら、敵の跳躍周期に合わせて緩やかに変化している。


――戦うために動くのではない。“動かずに戦う”ための身体制御。


(……中心を、射つ)


群れが跳ねるたびに空気がずれ、空嚢が鳴るたびに霧が軋む。


だが、その渦の中にいるはずのゼンの姿だけが、不思議と“流れに押されない”。まるで空気の軸そのものに“溶け込んで”いるかのように、深く沈んでいる。


これは魔力による空中固定や結界ではない。

“立つ”という動作一つに、かつて帝国騎士団最上級剣士の全てが注ぎ込まれていた。


常人の動きが「反応」ならば、ゼンの動きは「予測」であり、「許容」であり、「調律」だった。


無駄な硬直も、過剰な反射もない。

むしろ、“何もしていないように見える”その立ち姿こそが、戦場制御の極致だった。


そしてその隣で、カイの魔導核が微かに揺れ始めていた。


「……ゼン、もう少し引き寄せるか?」


「いや、まだ来る。もう少しだ」


「了解。じゃあ、チャージ開始っと」


カイの声音が、わずかに高揚を含んだ。


彼女の異能は――雷。


しかし単なる放電や加速ではない。

“共鳴系雷式”――複数の魔力構造を“共鳴”によって同調・拡張・加速させる特殊な術式形態だった。


空中に展開された拡散式魔導弾の残響に、カイは自らの雷霊素を重ねていく。


「共鳴層……重なったぞ」


この“雷式”の真価は、単独行動ではなく“誰かの行動や術式と重ねること”で発揮される。

まるで、主旋律に副旋律が乗るように。

あるいは、回転する歯車にもう一つの歯車を噛み合わせるように。


ゼンの展開した“灰式回路”の波形に、彼女の雷素が共鳴しはじめた。

バチリ、と小さな放電が、彼女の掌と足元の空間に浮かぶ術式接続端子のあいだを走る。


「通電完了――いつでも準備OKだ!」


ゼンは小さく頷いた。


カイの雷は、空気そのものを媒体として他者の術式に“共鳴振動”を与える。


それは“外部強化”の形式ではなく、“術式そのものに加速度を与える力”だった。


敵を直接撃ち抜くのではなく、味方の展開術式に“雷の拍動”を加え、構造に“拍子”を与える。


まさに、“共鳴”。


この瞬間、ゼンの“灰式”とカイの“雷式”が、戦場の空間において“同一の脈動”を刻み始めていた。


目に見えない雷が、灰色の回路に命を与える。

魔力の脈管が、その鼓動に合わせて“加速”していく。


「……これで、一気に抜けるぞ」


ゼンが静かに言った。



空間が、青白く震えた。


それはまるで、目に見えぬ雷光が術式の回路を貫き、“命”という名の脈動を送り込むような瞬間だった。


カイが展開した雷式の術式層は、ゼンの灰式回路に共鳴し、その影響は空間全体へと波及を始める。中心にあるゼンを基点に、直径約二十メルトの“魔力流域”が形成された。そこは、彼女の雷霊素によって細かく調律された“通電可能領域”であり、同時にゼンにとっての“干渉圏”となった。


ゼンの術式は、通常は対象の魔力構造を一点一点叩き潰すようにノッキングを施す。だが今は違う。


雷の通電によって、術式の“触媒速度”と“伝播効率”が飛躍的に上昇していた。


「いくぞ、カイ――」


「応答確認、接続確定。ゼン、今が最大出力域だ!」


瞬間、ゼンの灰色の回路に、雷の脈が走った。


その力は一撃の雷撃ではなく、“連鎖する鼓動”だった。

術式の一つひとつが、あたかも心臓のように“拍動”し、その波が周囲の空気、霧、気圧、果ては敵の体内にまで浸透していく。


魔力流域に入ったフリューゲルたちは、自らの空嚢核を震わせようとした瞬間、内部に“異物の波形”を感じ取った。


それは、ゼンの意志だ。


「“ノッキング”――」


その一言と共に、ゼンの意識が回路内を走る。


数十体分の魔力構造を同時に接続・解析・同期。

各個体ごとの空嚢核の回路経路を認識し、雷の伝導を利用して“干渉点”へとノックを打ち込む。


それは衝撃ではなかった。

静かで、正確で、容赦のない“無音の鍵打ち”。


対象の魔力が流れようとする前、その“蛇口”を閉じてしまう。


「……全体接続、完了」


ゼンの足元に広がる灰色の回路が、ふっと光を増した。


魔力流域の内部にいるフリューゲルたちは、まるで合図を受けたかのように――次々と、落ちた。


空を跳ぶはずの身体が、跳ばない。

爪を振るう前に、力が抜ける。

意志を持たぬ体が、ただ重力に従って沈んでいく。


滑空中の個体はそのまま墜落し、着地しようとした個体は足をもつれさせて転倒する。

その全てが、“ゼンの領域”の中で静かに、無力化された。



数十体のフリューゲルが、地面にうずくまる。


滑空するはずだった翼が展開せず、牙を剥いたまま、ただ静かに地に伏していた。


これは“勝利”ですらなかった。


戦いになる前に、終わっていた。



カイは震えを隠せずに呟く。


「相変わらずえげつねぇな……」


ゼンの能力は、一見すれば地味で、派手さはない。


だがその効果は、強大な力を前にしたときにこそ絶対的な効果を発揮する。


「力は使われるほどに、制御の穴を生む」


ゼンは低く言った。


「俺のやってることは、力の逆流……。要は、“世界にとっての拒絶反応”なんだ」




そして彼は、一歩だけ前へ出る。


まだ霧の向こうにいる――より強力な個体に、視線を向け。


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