第54話 英雄と呼ばれた男の力
跳んだ――
空を裂くように、フリューゲルの影が跳ねた。
全身の空嚢核から一斉に圧縮空気を噴出し、岩壁を蹴る。駆け巡るように天井を蹴りながら、薄く立ち込める霧の中を三次元的に跳躍する。
「右、上、反転、後ろ……!」
カイが即座に座標を解析するが、視覚の限界を超えた速度に術式の補正も追いつかない。
「チッ――めんどくせーな……!」
岩盤と梁、霧と風の錯覚が、その挙動をさらに読みにくくしていた。
“狙いを定められた瞬間、もうそこにはいない”
岩壁と梁が複雑に折り重なる空間。
空間の奥行きは、目視で測れる限界を超えていた。左右には断続的に崩れかけた足場。上方には剥き出しの鋼鉄梁が蜘蛛の巣のように交差し、下方は湿地と岩礫が入り混じる不安定な地形。
そこに――“縦横無尽の弾道”が走る。
「ちょこまかと動きやがって…!」
カイの解析が遅れるたびに、別の個体が視界の外から滑り込んでくる。
フリューゲルたちは集団で行動する。この谷に巣食う個体群は、すでに“群れとして戦う術”を獲得していた。
霧の中でひときわ高く鳴った“空嚢音”。
その合図に呼応するかのように、全方位から空気が軋む。
「……連携してやがる」
一体が跳躍する――それを陽動と見せかけ、斜め下から二体目が奇襲。三体目が死角を埋め、四体目が上方から降下してくる。座標と跳躍角を綿密に分担し、“空間の制圧”そのものを目的とした挙動。
高さ、幅、——そして奥行き。
それら全てを最大限に生かした空間が、“群体跳躍”によって三次元の檻に変貌していた。
その全体構造が見えた瞬間、カイは叫んだ。
「囲い込みだ……! あいつら、あえて“外回り
”を動いてるぞ!」
しかも、彼らは「着地しない」。
地に足をつけることなく、跳躍と空嚢圧による加速を組み合わせて常に空中にいる。
滑空というより、“空間に浮遊している”と言った方が正確だった。
しかも、空中で交錯するたびに発せられる共鳴音が、空気の層そのものをねじ曲げている。
風がずれ、音が乱れ、霧がねじれる。
その結果として、跳躍軌道の予測が不能になるのだ。
それがフリューゲルの戦術構造だった。
だが――ゼンは違った。
幾多もの戦場を潜り抜けてきた彼にとって、フリューゲルの戦術はすでに想定の範囲。元より彼は「視覚」を使って敵を追うことはない。
視界の外から襲いかかる跳躍、霧にまぎれる軌道、風と音の撹乱。
それらは確かに、常人の戦術眼を容易に乱すだろう。
だが、ゼンにとっては“想定内の演出”でしかなかった。
彼は昔から敵の姿や行動を見る前に、敵そのものが発しようとする初手の選択、——その“動機”を読む。
動機とはすなわち、“何を狙い、何を行動の重心に置いているか”だ。
跳躍角、軌道の傾き、霧の流れ、鳴き声の高さとタイミング。
それら全てが、彼の脳内に「意図の構図」として編み込まれていく。
「……愚直なまでに、徹底してるな」
フリューゲルたちは、明確に“集団制圧”を狙っている。
一体の餌を追うのではなく、空間そのものを“無力化”するための跳躍。
それは獣の動きではない。戦術――それも、訓練された部隊のそれに近い。
「右、あと三秒で軌道収束。左斜め上、陽動、次の主軸が来る……」
ゼンの脳内に浮かぶのは、まるで戦場の戦術図。
敵が仕掛けた網の目を、彼は一瞬で見抜き、その中心に自らを置いた。
彼の目は、常に“中心”を見ている。
「……もっと来い。全部俺のところに」
剣はまだ鞘の中。
だが、その身は微動だにせず、戦場の“核”に立っていた。
彼の意図は反撃でもなければ、切り払いでもない。
ましてや、倒すことを目的としてもいない。
彼が狙っているのは、群れすべての“注意”を集めること。
跳躍、回避、陽動、奇襲――フリューゲルたちの動きが複雑化するほど、“あえて動かない”存在は逆に強烈な異物となる。
ゼンは、それを理解していた。
ゼンの肉体と魂は、この世界に存在する七属性のいずれにも属さない、いわば「零位座標」に位置している。
ゆえに彼は、一切の魔力を保有できない。
だがその本質は、決して“魔力の欠落”ではなかった。
むしろ――
あらゆる魔力、属性、構造に対して、“変換”と“出力”を制限なく行える極めて特異な存在。
世界に散る魔力の流れ――その“回路の裏側”を歩む者。
炎が襲えば、冷気として返す。
衝撃が来れば、重力として反転させる。
雷が走れば、導線として制御し、跳ね返す。
精神波が刺されば、逆流として送り返す。
それが、“全拒還流”というゼン本来の力だった。
だが、いまのゼンはその全盛期には遠く及ばない。
今、彼が使えるのは――限定的な応用術式、《全閉断流》。
これは、他者の魔力の“流れ”に対し、その“接点”に意図的なノック(閉鎖)を打ち込む能力だ。
言い換えれば、魔力の回路に突如として“バルブ”を取り付けるような行為。
魔力が流れようとする瞬間、その経路に“詰まり”を発生させる。
接点の位置と流れの向きが読めれば、ゼンはそれを自在に塞ぐことができる。
これは単なる魔封じではない。
“魔力を使用するあらゆる行動”を、物理法則の延長線上で“未遂”にする、精密かつ静かな戦闘術だった。
ただし、この能力には厳格な制約がある。
それは――
対象の魔力が「自然法則に基づく構造体」であること。
神の奇跡や概念干渉、精神結界のような“超常の構文”には適応できない。
しかし逆に、〈鋭尾牙フリューゲル〉のように、筋肉や跳躍、空嚢の圧縮といった物理的なアクションを“魔力強化”によって補っている存在には、最悪の相性を持つ能力だった。
空嚢核が震える音が、低く風の中に響く。
そして、ついに――群れの大半がゼンを中心に円を描いた。
「カイ、いまだ」
「了解、帯電領域展開――電撃障壁、起動!」
カイの魔導銃が一瞬だけ明るく光る。
カイの手に握られた魔導銃――正式名称《イプシロン改式・雷霆弐号》。
帝国技術局でも一部の戦術魔導士にしか配備されなかった、極めて特殊な機構を持つ多機能魔導銃。
外見こそ片手で扱える拳銃型だが、内部には三重構造の魔力伝導筒と術式回路の可変機構が内蔵されており、携行兵装でありながら“領域干渉”という高度な術式操作を可能としていた。
特筆すべきは、発射される“弾”そのものが、物理弾ではなく術式媒体として設計されている点だ。
今回カイが選択した弾丸は、【拡散式帯電干渉素子】。
この弾は物理的なダメージを与えるのではなく、空間中に存在する“魔力干渉ネットワーク”に直接作用する。
とりわけ、空嚢核による圧縮空気と魔力流体を併用して跳躍・滑空するフリューゲルのような魔獣には致命的な干渉を与える設計だった。
銃口から放たれた弾丸は、着弾と同時に五方向に裂けるように分離し、それぞれが空間内の異なる“魔力層”へと同期を開始。
それは例えるならば――“空気のレイヤーそのものにノイズを走らせる”ようなものであり、空嚢核のように微細な気圧変化を感知・制御する臓器にとっては、まさに“地雷原”のような存在となる。
「こいつの役割は、敵にダメージを与えることじゃない。“揺らす”ことなんだ」
ある戦闘員は、そう口にしたことがある。
イプシロン改式の本質は、ゼンの術式との連携用補助装置に近い。
魔導銃というより、“環境操作の起爆剤”だった。
空間に瞬時に放たれたのは、“電磁パルス”に似た魔導弾。
フリューゲルたちの空嚢核が、一瞬だけ軋むような音を立てて反応する。
ただし敵の跳躍を妨げたのは、ただの“電撃”ではなかった。
帯電弾が炸裂した瞬間、空間に展開されたのは一種の「魔力構造撹乱場」。だが"単なるノイズ"では、魔獣の動きを封じるには不十分だ。
ゼンとカイが用いた戦術の真価は、“魔力回路そのものに接続するための環境構築”にあった。
理論の根幹は、帝国技術局でもごく一部の技官しか扱えなかった秘匿構造式――
「浮動接続型魔力同期回路(Floating-Link Mana Sync Circuit)」に由来する。
この理論は、通常の魔法式が「発動者→媒介体→術式→効果」という一方向構造であるのに対し、“外部に存在する魔力操作構造へ直接リンク”する逆向き制御を可能とする。
つまり、相手が既に展開している“魔力的な意志”に対して、こちらから“線を差し込む”という形で干渉を開始するのだ。
だが、これを実現するには3つの条件が必要とされる。
① 魔力フィールドの撹乱
相手の魔力構造が完全である限り、その式に他者が割り込むことは困難。
カイの撃った《拡散式帯電干渉素子》は、空間中の魔力流を人工的に波打たせることで、“構造に揺らぎ”を生じさせた。
これは、あたかも静かな湖面に石を投げ込むようなもの。
湖面が揺れれば、別の波紋も容易に重なる。
同様に、撹乱された空間では他者の干渉ルートが開かれやすくなる。
② “魔力耐性の欠如”を逆手に取る存在――ゼン
通常の術者であれば、このような乱流空間では自身の術式も不安定になる。
だが、ゼンにはもともと“魔力という内部エンジンが存在しない”。
そのため、外部の乱れに影響されない。むしろ、撹乱された魔力空間に干渉する側として最適な性質を持っている。
しかも、ゼンの力――“全拒還流”は、魔力の流れそのものに対して、「構造としての再定義」を行う能力。
いわば、世界に流れる魔力の配線図を再設計する「エンジニア」のような存在。
③ 接続式の“灰式回路”の存在
ゼンが展開する術式は、浮動接続型魔力同期回路の応用設計として構築されている。
これは、既存の魔力回路に強制的に接続し、その構造を一時的に自らの“核”に組み込むという異質な術式である。
この構造は以下の3段階で成立する:
・観測:対象魔力構造を分析し、接続可能な“共振層”を検出
・同期:対象の回路波形と自身の“構造波”を同期させる
・接続:接触回路を挿入し、強制的に魔力構造の一部を制御下に置く
結果、ゼンは術式というより“魔力流通システムそのものの調整者”として振る舞うことができる。
この仕組みにより、フリューゲルたちの跳躍の根幹=空嚢核と空気圧制御を支える魔力回路を、
ゼンは外部から“接続”し、“全拒”によってその流れを【意図的に止める】ことができる。
それはまるで、空を駆ける獣たちの“跳躍の電源”を、主電源から切り離すようなもの。
そして今――
ゼンの手によって起動した“灰色の回路陣”は、跳躍の回路を“全拒の一点”に接続させた。
その接続が成立した瞬間、空間そのものに歪みが生じたような変遷が疾る。
「……ここからが、“俺の領域”だ」
彼は、生まれながらにして魔力を持たなかった。
魔力を持たぬがゆえに、流れに“溺れない”。
だからこそ、ゼンは他者の魔力の接続線を、“たった一つの意志で操作”できる。
「“断流構式・灰式:第一開環”」
低く、淡々と、そう呟くと――
彼の周囲に、“灰色の回路陣”が浮かび上がった。
それは従来の魔法陣とも、術式紋とも異なる。
構造が未定義でありながらも、絶対的な軌道を描く“干渉環”。
電撃に震える空間に、一本の“接点”が生まれた。
ゼンと跳び交う魔獣たちを繋ぐ、強制接続の魔力ルート。
フリューゲルたちはそれを理解できない。
だが、本能が叫ぶ。
“逃げろ”――“この中心には、触れてはならない”
だが、遅い。
すでにその軌道に乗った個体たちは、“抜け出せない”。
風が逆流する。
空気の刃が、ゼンを中心に引き寄せられる。




