第50話 霧と遺構と、記憶の地
風の音が、低く唸るように響いていた。
ただの風音ではない。谷を囲む断崖が反響し、霧の奥底から囁くように、耳の奥を撫でてくる。
ゼンは片手で額の髪を払い、霧を透かすように目を凝らした。
ここは確かに、かつての帝国技術局が極秘裏に設置した研究拠点――魔導飛行の最深域、“風鏡第七渓谷試験場”の跡地。
霧の奥、岩肌に抱かれるようにして、それは眠っていた。
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■ 風鏡第七渓谷試験場(ふうきょう・だいなな・けいこく・しけんじょう)
⚫︎正式名称
帝国魔導技術局 第十三技術試験管区
風鏡山系第七渓谷魔導試験場
⚫︎位置
・地域:北大陸西部・風鏡山群南端
・緯度経度:未登録(地図上非公開)
・高度:平均1200~1800メルト
・地形:断崖、岩盤、霧地帯、地熱活動域、強魔素濃度帯
⚫︎目的
1. 次世代飛行魔導炉の実験
・精霊圧縮流体型コア(SLC型)の臨界安定実験
2. 複層気流航行試験
・魔力干渉空域での安定推進技術の確立
3. 現地資源による建造・自立拠点モデルの試行
・魔導転移炉による資材現地転送、リソース循環設計の実証
⚫︎施設概要(当時)
【区画名/用途/現況】
□ 試験管制室 / 飛行・魔導炉の統括制御 / 崩落・一部外殻のみ現存
□ 魔導炉格納区 / 次世代炉2基、旧型炉1基設置 / 稼働痕あり・1基は現在も微弱反応
□ 魔導転移炉区 / 小型魔導転送炉×2基 / 転送座標符の痕跡確認
□ 自立資源生成区 / 精霊水・魔素結晶の抽出装置 / 完全消失・痕跡のみ
□ 居住支援区 / 技術者滞在用コンテナ群 / 跡地のみ・一部苔に埋没
□ 緊急退避経路 / 崖上への脱出ルート / 未確認・地盤崩落で封鎖の可能性
⚫︎技術的特異性
・魔導気象との直接干渉を前提とした“空間圧制魔導陣”
・精霊圧縮流体の安全燃焼試験はここ以外ではすべて失敗
・魔導炉起動中の“生霊流”現象(不安定な幻視・音響)が一部記録されている
・魔力逆流による局地的重力異常を記録(最大6.4倍)
⚫︎関連人物
イグザス・ベルネロ
・当時:主任設計技師
・備考:独自理論による実験強行の記録あり。現在もこの地に潜伏の可能性
ゼン・アルヴァリード
・訪問記録なし(上空偵察記録のみ)
・間接的に当試験場の存在を報告済
⚫︎封鎖理由
・予定試験期間中に魔導炉1基が不安定暴走(事故No. XF-082)
・複層気流への魔力干渉による空間異常が拡大
・以後、全記録は“機密Dクラス”に指定、試験場封鎖
⚫︎現在の状況(目視調査より)
・遺構の約60%が風化・苔・湿地に沈下
・魔力反応微弱だが1基の魔導炉が“稼働状態”
・精密測定不可(霧・風の干渉により装置無効化)
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苔に覆われ、根に侵され、風に浸されたその遺構は、まるで生き物の骸のようだった。
「……これが、あの頃の“末端”か」
ゼンが呟く。
彼がこの地を訪れるのは、これが初めてではない。
帝国時代、任務の一環でこの拠点を遠く上空から視認し、その異様な風の流れを報告に含めたことがある。
だが、実際に降り立ち、地を踏むのは――この瞬間が最初だった。
霧はまだ濃く、目に映るのはわずかな前方だけ。
だがその“わずか”の中に、確かに“異常”があった。
規則的に配置された石柱、風化しながらも崩れずに残るアーチ、そして、霧の中から時折覗く金属質の断面――
それらは、人の手が入っていた証拠であり、そして放棄され、忘れられた文明の残り香だった。
「よく、ここまで組んだもんだよな」
背後から、カイの声が聞こえる。
「谷底に、これだけの構造体……建設資材の運搬だけでも、命懸けだったはずだ」
「運んでないさ。造ったんだ。ここで」
「……現地調達?」
「魔導転移炉だよ。小型のやつが、二基あったはずだ。資材も魔素も、全部ここで循環させていた」
ゼンの口調は、かつての知識と感覚を思い出すように淡々としていた。
技術局の連中は、現場の兵士から見れば“狂気の錬金術師”のような存在だった。
現実離れした理論と、命を代償にするような実験の数々。
だがその成果がなければ、帝国の空軍技術も、飛空挺すらも今ほどの水準にはなっていなかっただろう。
「ここは……“次世代飛行魔導炉”の試験場でもあった」
「次世代?」
「既存の炉とは違ってな。精霊圧縮流体をコアに使っていた。強力だが、暴走率が高すぎて……お蔵入りになった」
「でも、その試作機を動かしてたやつが――いたってわけか」
カイは、霧の中に浮かぶアーチ状の金属フレームに目をやる。
かつてそこには、試験管制室があったはずだ。
今は半分崩れた外殻が辛うじて形を残すのみで、中は苔と風に浸食され、もはや原形を保っていない。
それでも――そこに“いた”ことだけは、ゼンの感覚が覚えていた。
足元に、小さな石が転がっていた。
他のものと違い、それだけが明らかに不自然な“加工”を受けていた。
面取りされた角、計測用の刻印、そして裏面に彫られた、古代文字のような記号。
ゼンはそれを拾い、指先でなぞる。
「……間違いない。あいつは、ここにいた」
「イグザス、か」
「ああ。これは……あいつが使ってた座標符だ。転送陣の起動時に、空間安定用に使うやつだ」
「ってことは……近くにいるのか?」
ゼンは答えなかった。
霧の向こうに、さらに深く沈んだ構造体の影が見えた気がした。
そこは、谷底のさらに奥――地熱と魔素が最も濃く混じり合う、“中心”だった。
「……行こう。奥が本命だ」
二人は、霧の中を歩き出す。
霧は風と共に、静かに流れている。
だがその流れは、まるで意思を持つかのように谷の奥へと誘っていた。
ゼンはふと思う。
――この風は、“誰か”が残した記憶なのかもしれない。
あるいは、この地で命を賭して空を夢見た者たちの、残滓。
その声なき声に導かれるように、彼は歩を進める。
かつて、世界を変えるはずだった場所。
そして今もなお、忘れ去られながらも“何か”を守り続けている場所。
風鏡第七渓谷。
その核心へと、ゼンたちは近づいていく。




