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第39話 なんで食堂を始めようなんて思ったんだよ?


挿絵(By みてみん)





「なんで食堂を始めようなんて思ったんだよ?」


営業が終わり、食器を洗い終えたところでカイがぽつりと口を開いた。


なんで空賊を始めたのか。その言葉をそっくりそのまま返してやろうと思ったが、どうせ大した返事は返ってこないと思いやめにした。


食堂を始めた理由……か。


改めてそう聞かれると、不思議と答えを悩んでしまう自分がいることに驚く。つつけばすぐにでも出てくる言葉たちがあるのは確かだが、もしかしたら案外曖昧な部分が心の中にあるのかもしれない。


静かに過ごしたかったと言えばそれまでだが、それをそのまま言葉にできるほど確かな芯があるわけでもない。


――いや、違うな。


言葉にするのが怖かったのかもしれない。


何かを「理由」として定義してしまえば、それ以外の感情や選択肢を、自分の手で切り捨てることになるからだ。


「……戦いが終わって、気づいたら何もなくなってたんだよ」


俺はふきんを手に、湯気の上がる皿を一つずつ拭きながら言った。


「仲間も、戦場も、目標も。全部終わった。じゃあ次に何がしたいかってなったときに……思い浮かんだのが、“飯がうまい生活”だったってだけだ」


「……ずいぶんと、肩の力が抜けてるな」


「抜けてなかったら、とっくに俺はどっかで死んでたさ」


カイは黙って俺の背中を見ていた。その視線が重くもどこか優しくもあるのを、俺は背中で感じていた。


厨房の窓の外では、野営を終えた〈風喰い〉の団員たちが焚き火の残りを片付けている。今日も予約客の列が絶えず、昼を過ぎても順番待ちが続いた。


だがそれもようやく落ち着いた。夜になれば、厨房は俺の聖域に戻る。静かで、湯の音と木の軋みだけが耳に残る、静謐な時間。


「それに、料理ってのは、俺にとっちゃ剣より合ってるんだよ」


「剣より?」


「ああ。剣は奪う道具だ。だが、料理は与えるものだ。……どっちも命に関わる。だが、後者の方が……今の俺にはちょうどいい」


それ以上、カイは何も言わなかった。ただ、黙って空の器を片付けていくその背中が、少しだけ穏やかだった気がする。


「……で、今は満足してんのか?」


器を重ねる手を止めることなく、カイが続けて訊いてきた。


湯気をまとった食器をそっと布で拭きながら、俺はしばしの間答えを探していた。


「……満足って言われると、難しいな」


「そりゃまた、はっきりしねぇ返しだな」


「だが、不満はない。目が覚めて、朝の光を浴びて、湧き水で米を研げる。それだけで、昔よりよほど贅沢だ」


言って、自分でも驚いた。


ああ、本当にそう思っているんだな、と。


静けさの中で野菜を切り、火を入れ、味を調え、客の表情を伺う――そんな繰り返しの中に、確かな実感がある。誰に強制されたわけでもなく、誰かを満足させるためでもない、自分の手で積み上げてきた時間だ。


「……にしては、妙に律儀に働いてんじゃねえか。今日だって昼抜きで仕込みしてたろ?」


「そりゃ仕込みが足りなきゃ、明日の営業に響く。今さら料理人なんて立場じゃないが、料理屋を名乗ってる以上、手は抜けん」


「……昔のゼンが聞いたら、笑い転げそうだな」


「昔の俺なら、“戦場の方がマシだ”って言ってるかもな」


カイが笑った。少し肩をすくめて、タオルで濡れたテーブルを拭き始める。


その姿がやけに様になっていて、こいつも案外こういう暮らしができるんじゃないか、なんて思ってしまった。


もっとも、明日にはまた空の上かもしれないが。


「……でもよ。ゼン、お前さ」


ふいにカイの声が低くなった。


「ほんとは……まだ、“終わってない”って思ってんじゃねえの?」


俺の手が止まった。


湯気が消えていく音が、妙に耳についた。


「終わったと思ってたら、こんなとこでくすぶってねぇだろ。うちの話だって最初はすぐ断ったくせに、今じゃ“あの技師に会いたい”とか言い出してる。なんだかんだ言ってお前、昔のことを思い出してんじゃねーか?」


「……そんな大層な話じゃない」


俺は静かに言った。


「ただ……会って、話して、確かめてみたいだけだ」


「なにを?」


拭き上げた器を、棚に戻す音が小さく響いた。


「色々だ。積もる話があるわけじゃないが、やつには借りがある。少し変わった奴だったが、話す分には面白くてな。それに、他の奴にはない確かな信念があった。なぜ帝都を抜けたのか、今目指しているものは何か、俺なりに聞いてみたいんだよ」


「借り?」


「ああ。奴のおかげで俺の団員は何度か救われた。もちろん礼は言ったさ。奴の頼まれごとだって快く引き受けた。ただ、それ以上に…」


「恩を返そうってのか?」


「そういうんじゃない。いつかの夜に語り明かした互いの夢を、今度は落ち着ける場所で話してみたい。あの頃と変わっていないのか、それとも、ほんの少しでも変わっているのか」


それを――自分で確認したいんだ。


その言葉は、声に出さずに胸の中に残した。


カイは何も言わなかった。


ただ黙って、空いたままの湯呑を片付け、静かに背を向ける。


それが彼女なりの“理解”なのか、“沈黙の否定”なのかはわからない。


だが、俺はそれを問いただすつもりもなかった。


それぞれの場所で、それぞれのやり方で、俺たちはまだ“生きようとしている”のだから。


 

その夜、灰庵亭の裏手――湧き水の小川のほとりで、〈風喰い〉の団員たちが焚き火を囲んでいた。


昼間は野菜を運び、食器を洗い、鍋を運んでいた連中が今は思い思いの格好で火にあたり、パンを炙っている。


「団長……明日も手伝うんすかね?」


「さあなあ。料理ってのも、なかなか奥が深いぜ?」


「俺、ちょっとだけ“下ごしらえ”っての、面白いと思ったっす」


「ゼンさんの出汁、すげーっすよな。なんか、染みるっつーか……」


「……なんか、戦場思い出すよな。飯ひとくちで、あの夜がよみがえる感じ」


彼らの言葉が、風に溶けていく。


その言葉の端々に、確かに俺たちの“記憶”が残っている。


火のゆらめきが、今夜はやけに優しく見えた。


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