第38話 陽の高き灰庵亭
グラウベルクの香りが、まだ空気に残っていた。
昼時が近づくにつれ、灰庵亭の前には次々と客の行列が伸びていく。
予約制にも関わらず、どこからともなく“空きが出るかも”と期待した一見客までが、入口の前でじっと立っていた。
「団長、表に二組ほど“空き待ち”のお客さんがいますが……?」
「通さなくていいってゼンが言ってたろ。予約してる奴らに失礼だってさ」
「ですよねー……でもなんか可哀想で」
「だったら、焼き芋でも差し入れてやんな」
カイの言葉に、団員が「はーい!」と走っていった。
店内では、すでに第一陣の食事が終わりかけていた。
昼を跨いで続く営業のため、ゼンの料理は一つ一つの流れを計算した“無駄のない動線”で組まれている。
二陣目の主菜は、朝の蒸し焼きから一転――
「焦がしグラウベルクの赤ワイン煮込み、胡椒と茸のソース添え」
濃厚な味わいが、疲れた旅人の舌を確実に掴む。
厨房からは柔らかく煮込まれた獣肉の甘い香りと、野菜の蒸気、そして芳しいスパイスの香りが漂っていた。
「はっ……これが……」
「……言葉が出ねぇ」
「こいつぁ想像以上だ…。ここまで来た甲斐があったもんだ」
カイが軽やかに皿を運びながら、客たちの感嘆を涼しい顔で受け流していく。
だがその背後では、空賊団の若手が彼女の指示で細かく動き――皿の回収、卓の拭き上げ、水差しの交換までもを黙々とこなしていた。
「俺、次は厨房手伝いたいっす!」
「勝手にアイツの縄張り入ると怒られんぞ?」
「……っスよね。はい、下げ皿行ってきます!」
ゼンはというと、冷静に時間の流れを読んでいた。
鍋の火加減。
次の客の嗜好。
外の気温に合わせた温かさと香りの調整。
香草の種類を数枚単位で変えることで、時間ごとに「違う料理」として成り立つよう設計された一品。
「昼のピークはそろそろ終わる。あとは……夕暮れ前の一波か」
彼は黙って刻んだ香草を手元の小皿に分けると、深い鍋にそっと落とした。
ふわりと立ちのぼる香りに、奥の座敷で仮眠をとっていた老行商がふいに目を覚ました。
「……嗚呼、これはまた、昼寝がもったいなくなる香りじゃのぅ」
「無理に起きなくてもいい。本来はそういう店だ」
「はっは、こんないい匂いが漂っておるんじゃ。眠たくても起きざるをえんわい」
◆
日は徐々に傾いていく。
カイはすでにエプロンを外し、団員たちの点呼と休憩管理に回っていた。
「お前ら、配膳と裏口の整理終わったら今日はもう上がっていいぞ。夕方はゼンが一人でやりたがるんだ」
「了解っす! あ、でも俺、最後にもう一杯だけ“あのスープ”飲んでいいっすか?」
「ダメに決まってんだろ。営業終わってからな」
「え~~~……」
「ブツブツ言ってねぇで、バケツ下げてこい」
カイの一喝に、若者たちは笑いながら動いた。
軍隊でも仕事でもない、不思議な“仲間”の形がそこにはあった。
最後の一組が黙って箸を置くと、去り際にただ一言。
「……本当に、美味しかったです」
「また来れるかわかりませんが、今日の味は、きっと忘れません」
ゼンは何も言わずただ頷いた。
食後の湯茶を出し、客の背を見送る。
暖簾が静かに降ろされる。
「……終わったな」
そう呟いたカイの隣で、ゼンはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
厨房の片付け、床の拭き上げ、棚の在庫確認――それらはもう手慣れた動作の中にあった。
「なあゼン。今日の料理、何点だった?」
「……八十点だ」
「また自分に厳しいこと言ってやがる」
「うまくても、その客の「理想」じゃなきゃ意味がない。それがたとえ”美味しい"という感想だとしてもな」
静かな沈黙が、しばし流れる。
やがて空賊団のひとりが、夕焼けに染まった空を見ながら言った。
「こういうの、悪くないっすね……」
ゼンは、少しだけ笑った。
「俺もそう思う」
――灰庵亭の、一日が終わる。
その静けさは、どこか心地よい疲れと次への準備を予感させるひと時だった。
明日もまた、誰かが腹を空かせてやってくる。
それに備え、ゼンは静かに立ち上がった。




