第37話 湯気と喧騒と、空の団員たち
鍋の湯が、ことことと音を立てていた。
厨房に朝日が差し込む前、まだ空が白みかけた頃からゼンは火を入れていた。薪を割る音はなく、昨晩の余熱を上手に繋いで、小さな火床で釜がしずかに沸く。そこへ香草の束を一つぽんと放ると、ほのかに苦く甘い香りが立ちのぼった。
棚の蒸し籠では、昨日仕込んだグラウベルクの背肉がじわじわと湯気を含んでいた。香草と果実酒にじっくりと馴染んだ肉はまだ湯気のなかだというのに、すでにその存在感を主張し始めている。
「……うむ、いい香りだ」
ゼンは蓋を少し持ち上げ、湯気の色と香りを確かめてから、静かに戻す。その仕草に無駄はなく、まるで何百回と繰り返してきた儀式のようだった。
その頃――店の前では、早くも「本日予約者」たちが、静かに列を作り始めていた。
空賊団の若手が、先日ゼンから渡された木札を手に、列整理と挨拶係を務めていた。
「おはようございます! 本日は、予約番号をお持ちの方から順にご案内しますので、札のご提示をお願いします!」
カイの団員として忙しい日常を過ごしている彼らにとって、列の整理などは造作もない。むしろ“規律を守る行為”自体が楽しい様子で、最前列に並ぶ旅商人にまで自然と頭を下げていた。
一方その頃、厨房の隣――客間の入口では、黒革のチョーカーと短丈の上着を身にまとったカイが、まさかの姿で立っていた。
「……いらっしゃいませ。本日の気まぐれ定食は“蒸し焼き香草グラウベルク”です。お席までご案内します」
――笑顔で、そして慣れない敬語で。
「おいゼン、なんで私がウェイターやってんだよ!?」
「団員を預かってる以上、責任は指揮官であるお前にあるだろ。厨房は任せろ」
「それはそうだが……ったく……」
ぼやきつつも、彼女はきちんと身支度をしていた。
団員たちが“役に立ちたい”と自発的に申し出たのを、カイが頭ごなしに否定できるはずもない。
「団長がやるなら俺たちも!」
「皿洗い任せろ! 船より狭いけど、清潔にするのは慣れてます!」
「ていうか、料理って食う側だけじゃなくて、こうやって作る方も……いいな!」
団員たちの目は輝いていた。
彼らにとって“静かな場所で、決まった時間に、決まった役割を持って過ごす”というのは、ある意味で貴重な経験だったのだ。
厨房では、ゼンが既に盛り付けに入っていた。
主菜のグラウベルクは香草と果汁が蒸気で馴染み、肉の中心まで淡い色合いに仕上がっている。蒸しすぎれば食感が失われ、足りなければ獣の匂いが立つ――そのギリギリの時間と温度を、彼は“指先”で感じ取る。
「……この脂の抜け方、悪くない」
そして、付け合わせには焦香芋のロースト、ミラクリ茸のバターソテー。
器に盛る順番、角度、空白までもが、無意識に計算されたものだった。
「カイ、配膳だ」
「へいへい、団長ウェイター行きまーすっと」
一膳を受け取ったカイは、ふと手元を見た。
「……なあゼン」
「なんだ」
「料理ってさ、こんなに……なんつーか、“真剣勝負”みたいなもんなのか?」
「さあな。ただ――相手が目の前にいて、直接“答え”をくれるって点じゃ、戦場よりよほどフェアだ」
カイは小さく笑い、その膳を抱えて客席へ向かった。
◆
「……いただきます」
旅人風の男がそう言って箸を持ち上げると、まず目を見開いたのは付け合わせだった。
「この芋……うわ……」
焦香芋のねっとりとした食感と香ばしさに驚き、続けてミラクリ茸を口にした時には、箸が止まらなくなっていた。
そして、主菜。
グラウベルクの蒸し焼きは、脂が舌の上で静かに溶け、香草の香りが後から追いかけてくる構成。力強いが、重くない。肉なのに、優しい。
「……これが、魔獣……?」
団員たちが嬉しそうに微笑んだ。
“料理を届ける側”の喜びに、少しだけ気づいたようだった。
店の奥の厨房では、ゼンがまた一つ湯を注いでいた。
騒がしさもある。
賑やかさもある。
だがそれでも――今この瞬間は、確かに“静かな時間”が流れていた。
「……さあ、次だ。昼の分の仕込みが待ってる」
灰庵亭の一日は、まだまだこれからだ。




