第36話 鍋の湯気と、静かな夜仕込み
山道を下りきった頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
干し肉用、内臓用、日替わり用――細かく分類されたグラウベルクの肉を、ゼンは淡々と背負い袋から取り出し、一つ一つ手洗いしていた。汚れた血と灰を落とし、肉の筋や骨の断面が見やすくなるよう、わずかな魔力で水を振動させながら処理していく。
「ライル、火起こしはどうだ?」
「焚き口、安定してきました! 湯も今、沸いてきたところです!」
「よし。次は干し肉用の塩を出してくれ。例の山塩だ」
「了解!」
夕焼けのなか、灰庵亭の裏庭では、“仕込み”の時間が始まっていた。
干し肉に使うのは、ガルヴァの山脈から採れる特別な岩塩――“霜塩”と呼ばれる細かく白い粒の天然塩で、しっとりとした湿気と、かすかに香草のような芳香を含む。塩自体が魔素の吸収性を持ち、肉の雑味を引き出しながら保存性を高める効果がある。
「ここから先は、雑にやると台無しになる。作業はすべて丁寧にな」
「はい、親父」
ゼンは無言で肉の塊を持ち上げ、霜塩をまんべんなく刷り込んでいく。
まずは前脚の厚い筋肉。繊維が粗く、血が残りやすいこの部位には、時間をかけて塩を揉み込む。
肉の表面に、塩が吸い寄せるように水分をにじませた。
それを乾いた布で軽く拭き取り、再び塩を擦り込む――この作業を三回繰り返す。
「これだけで、塩が200グラム近く消えるんですね……」
「それだけの価値がある。水分を抜きすぎず、旨味を逃さず、雑菌を寄せつけないギリギリのラインだ」
ライルは小声で「まるで錬金術……」と呟きながら、黙々と手元の布で水気を拭っていく。
干し肉に適した部位は計四種。
仕込みが終わる頃には、空は群青に染まり、星がにじみ始めていた。
「次は内臓だ。これは、明日仕込むパテのために血抜きしておく」
肝臓、心臓、脾臓。
これらはすべて、専用の冷蔵魔封袋に一時保存。
だが、使用前に“血管の中”の血を抜く必要がある。
「どうやって抜くんですか?」
「魔力の微振動と逆流圧だ。こうして、少しずつ」
ゼンが指を触れただけで、肝臓の表面から細い血流がにじみ出る。
血が抜けるほどに、表面の色が深い紅から薄紫に変わっていく――それが完成の合図だった。
「明日の朝、香草と合わせて火入れする。焼くんじゃない。蒸してから練る」
「は、はい……(覚えきれるかな、これ……)」
ライルが思わずこぼした小声に、ゼンはくすりと笑った。
そして――最も重要なのは、明日の日替わり定食用の主菜。
ゼンが取り出したのは、背肉。
柔らかく、脂と赤身のバランスが絶妙な部位である。
「これは、香草塩と山酒に漬け込む。煮てもいいが、明日は蒸し焼きにする」
背肉を軽く包丁で叩き、筋に沿って格子状に切れ目を入れる。
切れ目に山野の香草――オレイラ、セージ、ガルヴァリーフ――を詰め込む。
そこにほんの少し、山葡萄で仕込んだ自家製の果実酒を垂らす。
「香りづけですか?」
「それもあるが、“脂の融点”を下げるためでもある。こうすることで、火を入れたときに溶けやすくなる」
ゼンは香草ごと肉を包み、竹皮に巻いて麻紐で縛った。
それを蒸し籠に入れ、翌朝の準備棚にそっと置く。
すべての作業が終わったのは、夜の九時を回った頃だった。
厨房に立ち込めていた湯気と香草の香りが、少しずつ落ち着き、静けさが戻る。
「ふぅ……親父。お湯、沸かしときました。お茶でもどうですか」
「ありがとな」
差し出された茶は、焼き栗のような香りのする焙煎葉。
一口すすると、香ばしさと微かな苦みが口に広がり、心が静まる。
「なあ、親父」
「ん?」
「明日の定食……俺、楽しみにしていいですか?」
「当然だ。俺も楽しみだよ」
窓の外では、月が静かに上っていた。
灰庵亭の厨房は、まだほんのりと火の香りを残している。
仕込まれた肉たちは、それぞれの香りと味を育てながら、静かに朝を待っていた。
明日は、どんな客がやってくるのだろうか。
この山のどこかで、誰かがこの料理を食べるために足を運んでくれる――
それだけでゼンの一日は、大きな意味を持つ。
戦いも魔力も、英雄の名もない。
ただ美味い飯と静かな夜の仕込みだけが、ここにはあった。




