第35話 血と匠の包丁
静寂の谷に、骨と肉の裂ける音が響いた。
山の空気に紛れて漂うその血の匂いは、鉄と灰、そして淡い甘みを含んでいる。
「……骨が太いな。通常のヒスカ熊の二倍はあるか」
ゼンは手慣れた動きで、首元から肩甲骨にかけて切り目を入れていく。
手にしているのはやはり調理用の【斬晶の銀刃】。
この「包丁」はある有名な鍛冶屋によって特別な魔鉱石で研がれたもので、鋼よりも軽く、どんな強靭な魔獣の骨をも断つ。
「まずは血抜き。動脈は……ここか」
頸動脈を切り、心臓を圧迫して残った血を搾る。
すでにグラウベルクは絶命しているが、この工程を怠ると肉の味が“濁る”。
「次に、脚の腱を切って吊るす」
カイが持参していた補強ロープを使い、岩場の天然アーチに逆さ吊りに固定。
体重があるぶん、枝や木では支えきれない。
岩場のくぼみに滑車を仕込み、ゆっくりと持ち上げる。
「さっきから思ってたけどさ、あんた本当に解体のプロだよな……」
「戦場にいた頃、よく仲間に頼まれてな。食材の扱いだけは、いつも手を抜けなかった」
「いや、これはもう料理人っていうより職人……いや、“猟師”か?」
「食堂店主だ」
「そこは譲らねぇんだな……」
◆
解体の基本は“皮剥ぎ”から始まる。
まず、後脚の付け根から下腹部、胸、喉元まで、一直線に切れ目を入れる。
皮膚と脂肪の間に指を滑り込ませ、丁寧に剥がしていく。
「……ここが重要だ。皮下脂肪のラインを見極めないと、肉まで裂ける」
剥いだ皮は後でなめして保存。
山の民にとっては、防寒具や革製品の貴重な素材だ。
次に、内臓の摘出。
「胃袋、腸、肝臓、心臓……使えるものと、使えないものを分ける」
ゼンの手は迷いがない。
すべての位置を把握し、切断と摘出を繰り返す。
「グラウベルクの肝臓は、火を通しても臭みが少ないな。これは明日の副菜に使える」
「うっわ……マジで食うんだな、それ……」
「新鮮なうちに処理すれば、極上のパテになる。焼酎漬けにしても旨いぞ」
「……オッサンの発言、だんだんグロく聞こえてきた」
「偏見だ」
笑いながらも、ゼンは手を止めない。
心臓、腎臓、肝臓、脾臓――部位ごとに小分けし、魔力封印袋に詰めて保存。
冷却処理を施せば、数日は鮮度を保てる。
そしていよいよ――肉の切り出しへ。
「狙いは背肉、肩ロース、腿、脇腹。あと前足の筋肉。これは干し肉に最適だ」
「全部覚えてるのかよ……」
「もちろん」
皮を剥ぎ取った巨獣の肉体は、まるで“食材の山”だった。
ゼンは骨の角度、筋の入り方、脂肪層の分布を目で測りながら、正確に刃を入れていく。
「背肉は、明日の日替わり定食にする。焼きにしてもいいが、香草漬けにして蒸すのがベストだ」
「まさか……今から仕込みすんのか?」
「干し肉用の部位を切り出したら、すぐに帰って塩漬けにする」
「……体力お化けだな、あんた」
◆
解体を終え、部位ごとに梱包された肉の山が並ぶ。
・前脚の筋肉(干し肉用)
・肩ロース(燻製用)
・背中の肉(明日のメニュー)
・内臓系(パテ、副菜用)
・骨(出汁取り)
「半日あれば、下処理は終わる」
「いや普通は一週間仕事だぞ、これ……」
「手間は惜しまない」
ゼンはそう言って、最後に刃を拭いた。
太陽はすでに傾き始めていた。
枯骨の谷の空が、紅く染まりつつある。
「帰るぞ。今日中に塩を擦り込んで、明朝までには干しにかけたい」
「マジで働きすぎじゃね?」
「干し肉が切れる方が問題だ」
「それが隠居のセリフかよ……」
呆れたように笑いながらも、カイは背負い袋の一つを持ち上げた。
――食材というのは、命そのものだ。
だからこそ、丁寧に扱う。無駄にはしない。
そして、その命を料理として“活かす”。
それが、ゼンの“戦いのあとの儀式”だった。
明日の定食は、きっと特別な味がする。
新しい肉と、新しい日と。
灰庵亭の“静かな日常”が、また一歩進んでいく。




