第3話 俺はただ、うまい飯を食っていたいだけなのに
客のことを、ふと思う。
あいつらが何を期待して山を越え、何を味わいに来るのか。
もちろん、俺の作る料理を目当てなのだろう。実際、皆が皆「美味い」と言ってくれる。それは正直、悪い気はしない。嬉しいと思うことすらある。
だが、その一方で。
(――なんで俺が“客のために”考えてるんだ?)
厨房の片隅で炊けた飯の香りを嗅ぎながら、ふとそんな疑問がよぎる。
いや、飲食店なんだから当たり前といえば当たり前か。だが、俺がここでやっていることは、“仕事”じゃなくて、“隠居”のはずだった。
そんな俺の思考を遮るように、カラン、とドアベルが鳴った。
「……いらっしゃ……」
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
やけに整った顎鬚と、無駄にキラキラした赤いロングマント。顔色も髪もやけに健康的すぎるその男は、こちらに気安く手を振ってきた。
「よう、ゼン。調子はどうだ?」
「……なんでこんな場所に来てんだよ、クレオス」
帝国時代の顔見知りだ。正確には、俺と同時期に騎士団に所属していた男で、当時は副隊長を務めていた。要領はいいが働きたがらない性格で、なぜか常に誰かに好かれている不思議なタイプだった。
「いやあ、ちょっと暇ができてさ。最近、帝都の一部界隈で噂になってるんだよ」
「噂?」
「“伝説の元英雄が、山奥の秘境で食堂を開いている”ってさ。――まあ、お前のことだろうなって思ってな」
俺は無言で味噌汁の鍋をかき混ぜながら、心の中で静かに毒づいた。
(くそが……)
しかもこの男、平然と客席に座り、湯呑に手を伸ばして茶を啜っている。
「ところで、今日の定食は何だ?」
「山鹿とキノコの麦味噌煮。あとは野菜の和え物と、自家製の米飯。……いつも通り、ひとつしかねぇよ」
「いやあ、さすがだな。メニューに選択肢がないと、心が楽でいい」
「……さっさと勘定して帰れ」
「冷たいなぁ、旧友ってやつは」
まったく、誰がこんな情報を広めてるんだ。王族か? 商人か? それとも新聞記者か?
俺は一度も“伝説の英雄がここで営業してます”なんて告知した覚えはない。
料理で目立とうとも思ってないし、これで財を築こうなんてつもりも毛頭ない。
(……いや、騙されるな俺)
俺の思い描いていた「理想の隠居生活」は、こんなんじゃなかったはずだ。
そもそもこれは「開業」じゃなくて、自給自足を目指した生活の延長線上にある"オマケ"だ。
それがどうだ?
このクソ忙しい厨房の慌ただしさときたら、まるで"帝国の街中にあるレストランやバーのそれ"じゃないか。
実際に営業してるという意味では間違いじゃない。だが、そんな大それた、華やかなもんじゃない。
料理人になりたいと思ったことはないし、それは今もそうだ。
俺はただ、“うまい”と思った飯を細々と作っていたいだけだ。
世の中にはこんな美味いもんがあるんだっていうのを、残りの人生でゆっくり満喫していたいだけなんだ。
だから俺の料理は、「料理」と呼ぶには少し大袈裟で、
「食堂」と呼ぶには少し小ぢんまりとしすぎていて……って。
(なんで“改装”や“増築”が頭をよぎってるんだ)
客席が少ないとか、厨房が狭いとか、
ついこの前までは1ミリも思ってなかったのに。
おい待て。冷静になれ、俺。
何のために騎士団を抜けた?
何をするために、地位も名誉も捨て、山奥まで来た?
間違っても――
「親父ー! 追加の茶碗、まだっすかー?」
うるせぇわ。今取りに行く。