第三幕 300年前のファーストキス
…そりゃたまには、元気がない日くらいありますよ。人間だもの。
なんて説明していいかもわからないままだから、とにかくその場をやり過ごそうと思った。やり過ごすって言っても、事態の緊急性は変わらないけど。
「なんもないって…」
「絶対、ウソ」
「根拠は?」
「根拠もなにも、ただ元気がないって言うか」
「あんたらがテンション高いだけやろ」
「私らはいたってナチュラルよ」
「「ナチュラルにテンションが高い」って言いたいの」
「あんたも大して変わらんやろ」
「私はもっと、淑女寄りのポジションやから」
「淑女ぉ!?(2人一同)」
失礼すぎる2人の反応に戸惑いつつも、休憩時間が終わって授業が始まるチャイムが鳴った。1限目は数学だ。担当教師の近藤先生がドアを開け、着席を促す。雷牙はいつの間にかまた席に戻っていて、何事もなく教科書を机の引き出しから取り出していた。横目に彼の様子を見ながら、怒っていないかを確認しようとした。
昨日あの後、部屋から逃げ出した後、彼と会うことはなかった。家から出て家の近くの公園に行き、ただひたすらブランコの上に乗りながら、起きた出来事を振り返っていた。振り返ったところで何も解決しないことは分かっていたが、少なくとも彼の元に戻るのだけは、避けなければいけないと思っていた。
理由はわからない。
しでかしたことの大きさに、対処できないと感じていたからかもしれない。もしくは、単純に「間違いを犯した」と、思っていたかも。…いや、《《あれ》》が間違いであったことは、誰の目から見ても明らかだった。
相手の了承も得ずにテリトリーに入り、無防備な隙をついて押し倒し、強引に唇を奪っていったこと。
犯罪だ。
常識的な意見を述べさせてもらえば、現代社会の法的措置を余裕で取られそうなレベルの「内容」である。…だけど、そもそもあいつが、私の部屋で寝泊まりしていたことが…
淡々と1限目が終わり、午前の授業が全て終了する中で、昼休憩を迎えた。時刻は、12時過ぎ。食堂であんぱんを買い、それを頬張りながら屋上に向かう。季節的に今がいちばん風が心地よく、空が青い。だから最近はとくに、昼間は屋上に行くのが通例だった。
サンドイッチと、コーヒー牛乳。
3円の買い物袋を引っ提げて屋上に設置されている木製のベンチに腰掛ける。今日は先客もいなく、絶好のランチ日和だった。瑞々しく香る空気を体全体で吸い込みながら、大きく深呼吸をつく。朝からガヤガヤと友達がうるさかったから、静かな場所で、静かに過ごすのはなんだかとても清々しい。今日はとくにそう感じてしまう。
できることなら、このまま家に帰ってベットに蹲りたいくらい。
彼に、——雷牙になんて言うのが、正解なのだろう…
私がしたことはれっきとした「犯罪」だが、そのプロセスには、情状酌量の余地がふんだんにあると言うことを、「私」は知っている。……「私」が知っている、と言っても、それはただの私見でしょ!?って、非難を浴びそうな気もするが、もし、今回の出来事で裁判が開かれ、被告人である私の犯罪動機を裁判官に説明すれば、きっと裁判官は、犯罪に至った事情のあわれむべき点をくんで、刑罰を軽くすることを勧めるだろう。罰金だけで済ましてくれそうな気もする。雷牙からすれば、「異議あり!」の申し出を、検察官を通さず直接直談判してきそうな気もするが…
食べ慣れたたまごサンドイッチを口に頬張り、空を見上げた。
変わらない「空」。
透き通った「青」。
私はこの景色を知っている。
『100年前』の空も、確かこんな空だった。
200年前、——…300年前も。
世界が変わらないのはいつからだろう。
こんなことを考えている自分が、《《非日常的》》だと言うことを、もちろん考えていないわけではない。100年前とか200年前とか、ましてや『世界』とか、そんな大それたワードを思考の中に泳がせている自分が、《《普通じゃない》》って、思う瞬間が確かにある。
ただの学校生活に、相変わらずの日常。
変哲もないコンクリートの地面の上で、古びたベンチの上にあぐらをかく時間。
本当なら、それ以上でもそれ以下でもない日常風景の一部始終が、滑り落ちる砂時計の砂のように滑らかな時の流れを、変わらない景色の中に広げているだけだ。《《異常》》なのは私で、目の前にあるこの世の中ではない。そう思うのが自然であり、《《普通》》。
それなのに、…なんで、こんなにも胸が締め付けられるんだろう。
雷牙とのキスの感触が、まだ残っている。
固くて、薄くて、それでいて柔らかい。
強張った彼の表情の下で、どこに行く宛もなく押し込んだキス。
なにかのカタチで、彼に向かっていく心があった。
ドアを開けた先で、寝起き姿の彼を見て、思ったんだ。
…ああ、たしか、こんな日常が、大人になった私たちの間にもあったこと。
初めて彼とファーストキスをしたのは、確か17歳の頃だった。あの時のキスは、驚くほどに柔らかい唇の感触が、痺れるように脳裏に届いた。《《彼からの》》、キスだった。
付き合って、3ヶ月が経った頃のことだった。あの時のキスほど、甘酸っぱいものはない。それはちょっとしたハプニングでもあった。予期していなかったことというか、意識の外側から来たアクションだったというか。
ちょうど『300年前』、夏の予選大会が終わった9月に、2人で、慣れ親しんでいた海岸に出かけた。あの夏の終わりの季節に、彼が言ってきたんだ。
「好きだ!」
って。
ただシンプルに、それだけを。




