第一幕 遠い記憶の海辺で
――ある夢の岸辺で
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雷牙のバイクに乗せられて、しょっちゅう湘南海岸の風の中に私はいた。彼は海が好きだった。
「しっかり捕まっとけよ!?」
滑走するバイク。ヘルメット越しに靡く海の景色が、風を切りながら泳いでいた。必死に彼の腰にしがみつきながら、海岸沿いを一緒に走った。
揺れるエンジンの音に寄り添う。彼の肩越しに見える、――湘南の水色。
声高々に雷牙は前を見てた。まるで天井のない空を指差して、世界がこんなにも青く色付いていることを叫ぶように一直線にかけ走る。エンジンはますます大きく鳴り響いて、澄みきった空気を切り裂いていく。その清々しい爽やかな風の向こうで、砂浜の磯の匂いは私たちを後ろから追いかけた。
「ねえ、どこまで行くの?」
そう問いかけても彼はいつも笑うだけで――答えてなんてくれなかった。
強引なようでどこか頼もしいその背中が、私をいつも無言のまま遠くへ連れ出していく。ハンドルを握る手はまっすぐで、タイヤの回転に乗せられるようにして 車体はなめらかにアスファルトをすべっていく。
あのとき見た海の景色が、今もふいに胸の奥を照らす。
風の匂い。潮の味。陽に透けた水平線。
遠くから聞こえてきた船の汽笛と、耳に残る波のリズム。あれはたぶん、景色よりも深く私の記憶の中に染みついている。
エンジンの音はまだ止まらない。どこまでも高く、どこまでも自由に、空へ駆けあがっていくみたいだった。そしてそれに合わせるように彼はアクセルを踏んだ。線の向こうに倒れるように進んでいくスピードが、すべてを追い越していった。
私たちは世界中のどこかに、きっといた。
同じ時間、同じ場所で。
走るバイクの背に股がりながら、彼は世界中の誰よりも早くアクセルを踏みしめていた。
「なあ、行きたいところとか無い?」
強烈な向かい風のなかで彼の声が聞こえる。
「別にない!」
私は大声で返す。
一直線上に続いていく道。肩に力が入る。
「行きたいところがあるなら早めに言えよ!?どこでも連れてってやるからさ」
「どこでも!?」
「ああ!」
バイクは信号で止まる。そしてまた走る。煙草を吹かす彼の後ろ姿が慣れ親しんで見える。理由もなく私を連れ出して、他愛もない会話をして、いつしか湘南の海の景色が瑠璃色に輝き始める。
春も、秋も、澄みきった空気の匂いが鼻の中を掠めた。エンジンの音と共に連れられていくスピードに乗せられて、一緒に歌を歌った。
いつか地球の果てまでもたどり着けそうな勢いで、私たちは一緒になにかを探してた。
いつだっただろうか。
理由もなくエンジンをつけて、夕闇の中に闇雲に突き進んでいったのは。
いつからだっただろうか。
泣きじゃくる私を連れて、街の一番向こうまで行ったのは。
鮮やかな色を切り取ろうとする。
みずみずしい音を拾おうとする。
加速する景色の断片から、やさしい声が聞こえた。
海、街、道路の向こう側。
街の反対側に行ったとき、世界はまだ青かった。
太陽は傾いていたかもしれない。
雲は山の向こうに流れていこうとして、オレンジ色になる。
涙で前が見えない。
ある日、友達に言われたほんの一言。9回裏2アウトの場面で、グラブから落ちたボール。私のせいで負けた試合。
蝉時雨が私を一斉に追いかけた、ある夏の季節。
どんな言葉も、どんな景色も、やり場のない感情の中で敵になった近畿大会夏の決勝。負けた試合の後、肩にすがり付く私を乗せて、どこか遠い場所に行こうと言ってくれたよね?
初めは嫌だったんだ。どこにも行きたくなかった。海も、夏も、街の一番綺麗な場所も、涙でぼやけてしまってなにも見えない。どこに行こうと、何をしようと、この心で綺麗に掬えるものは何もないと思ってた。
雷牙は私の頭をくしゃくしゃに撫でながら、「泣くな!泣き虫」と言った。
手を引っ張って、ここじゃないどこかへ行こうと言った。
「雷牙にはわからない」
そうかもな。
彼はそう言う。
それが堪らなく悔しくなって、何度も同じセリフを繰り返し吐く。
「私のせいで負けたんだよ。私のせいで…」
彼もあの試合を観ていた。あの場面を観ていた。ボールを落としたあのプレー。会場がどよめく。
初めは理由もなく悔しかったんだ。
ボールを追って、落下地点に入ったとき、真夏の太陽の日差しにやられて、なにも見えなくなった。
私のせいだとかごめんなさいとか、そういう気持ちよりも先に、予測していない感情の先で恥ずかしいという気持ちが心を支配した。
それがなによりも、悔しかった。
今まで私はなにをしていたんだろう。
皆と一緒に練習しながら夢を追いかけていたはずなのに、私はボールを落とした途端に、自分の身なりが気になった。
皆が見ているその先で、掴めなかった試合の結末よりも、予測していない感情が先に来る。
カッコ悪いなんて思ってしまう。
レギュラーを取りたいという気持ち。
試合に出られた喜び。
そんなものが泡となって掻き消えてしまうくらいの冴えない気持ちの綻びが、あの夏の季節に泳いでいる。
くだらない気持ちの先で、自分の底が知れる。
私のせいで負けたなんて、よく言うよ。自惚れも甚だしい。ボールがこぼれたから、地面に落ちたから、悔しかった訳じゃない。ボールが落ちてしまった理由を知っていたから、悔しかった。自分のことが嫌になるほど嫌いになりそうだった。
分かるはずがないんだ。
私の気持ちが。
引っ込みのつかない気持ちの先で、真夏の夢は掻き消えた。それでも私の顔を見ながらやさしく、泣くなと言ってくれたよね。
覚えてるよ、あの時の感情を。
なんて厳しいヤツなんだって思った。
自分のしでかしたことや、過ち。
どうしようもないくらいの羞恥心が、自分を殴り倒そうとしているくらい責めて、責めて責めて、それでも行き場がないくらいに追い詰められた心が、涙に変わる。
それを止めろって言うんだもん。そんなの、できっこないよ。いっそ、思いっきりビンタしてほしいくらいなのに。
10個数えるから、前を向けって言われた。
目をつむっていてやるから、涙を拭けって言われた。
ねえ、雷牙。
いっそ前が見えないままで、あんたの隣に座っていたかった。
「あんたのせいで負けたんだ」
そう言われたときの悲しさを抱えたままで、くじけそうになる心を抱き締めていてほしかった。
いつもどんなときもそうだ。
私たちは湘南の海の横で、その真正面に広がる青い空に手を伸ばした。
彼は海が好きだった。
バイクが好きだった。
あの日もそうなんだ。
きっとね。
なにかに挫けそうになったとき、なにかを手に入れたいと思ったとき、心の向かいたい場所。
目指しているところ。
高鳴る鼓動に乗っかって、道路の上をひた走る。
しがみついた私の両手に、大きな心臓の音。
エンジン音と重なった、追い風1.5メートル。
どうしようもなく悔しくて、それでも自分を守ろうとする心がここにある。
しがみついた彼の背中に乗っかり、夜の街をぐんぐん走る。
海の上で灯台の明かりが水面を泳ぐ。
自分の汚い心をまるで全部知っているかのように、彼はただ、なにも言わずまっすぐ走ってた。
私の知らないところに連れていこうとしてた。
彼は知っていたんだ。
ぐちゃぐちゃになった心がどうにもならずに、立ち止まってしまったこと。それでもなにかにすがり付いていたい気持ちを持っていたこと。自分が嫌いになるほど醜いのに、なにかに甘えたいと思っていたこと。
ボールを落とした。友達に言われた。大切な瞬間に、くだらない感情を持った自分が、心底嫌いになった。
だからどうした?
彼はバイクに乗りながら風を起こして、私の前髪を拐った。
靡く風の先で涙が乾いていく。
涼しい風が前方からやって来る。
「泣きたいんだろ?だったらそのまま泣いとけ」
「泣いてなんかない!」
私は大嘘をつく。震える声の先でハンカチが湿る。
「明日学校なのに、あんま泣いてたら目腫れるぞ」
「だから泣いてないって!」
彼はどこかに行こうとしていた。
ここじゃないどこか。
湘南の海岸を通りすぎて、駿河湾の海が見えた。
時計は午後10時を回る。
夏の鈴虫が耳の中を打つ。
月明かりの下でさざ波を打つ高い音符。
「俺たちはいつだって、走り続けなくちゃいけないんだよ」
走る。
その言葉の真意が、今もわからずにいる。
だけどいつも勝気なその声の下で、いつからかこの言葉の上澄みが、朝、アラームの音と共にやって来る。
あれから夏が過ぎた。
秋が来た。
冬を越えて、野に咲いたタンポポの花。
アクセルを踏み続ける足が、広い道路の真ん中に落ちる。
ねえ雷牙、あの日本当はどこに行きたかったの?
なにを探していたの?
アスファルトの上に刻まれたタイヤ痕が、この目に焼き付いて離れない。
ミーちゃんは不思議そうに私を見ていた。
バスの後部座席で、窓越しに視線を預けている私がきっと、頼りなく見えたんだろう。どこに降りるかもまだ分からない。湘南の海辺に近づいているでもない。
だけど、なにも考えてないわけではない、そんな私の顔が。
「あのね、ミーちゃん」
私たちを乗せたバスが、たくさんの人を乗せて、運んで、新しい場所に行こうとしている。
「なんや?」
夕暮れが近づいてきて、薄暗い空の色が、街の風景を鮮やかに照らしている。街並みは少しだけ閑散とし出した。
「泣いた私を連れ出して、雷牙のやつ、すごい遠いところまで行ったんやで」
「どこまで——?」
唇を噛み締める。
私の耳にはただアクセルの音だけが残ってる。
スカイウェイブの単気筒。
あの日彼は言ってた。
泣きたければ泣いてもいいんだって。
だけど前を向かなくちゃ、新しい1日はやってこないって。
「どこまで行こうとしていたのかはわからない。それでも…」
「…それでも?」
「それでも、迷いはなかったみたいなんだ」
私はしばらく彼になにも言えなかった。いつものように私を連れ出して、ドライブをしているだけなんだろうって、思っていたから。
雷牙は黙ってた。なにを話すでもなく。ブレーキをかけるわけでもなく。
しばらくして痺れを切らした私は、家に帰ろうよと言った。夜は深くなっていく一方で、朝が近づく。12時を回るまでに、今来た道を引き返そうよと言った。
そのうちに静岡の標識が見えた。
バイクは加速していく一方で、反対に街の景色は小さくなっていく。
いよいよ人気がなくなってきて、反対車線にはまばらなフラッシュライト。
涙はすっかり乾いて、風に浮き上がった前髪のそばでただ前を見てる。
止まらないスピード。止まらない時間。
「お前が泣いたのはいつだった?」
彼は聞いてきた。私が泣いたのはいつだったか。
——わからない
そう、答えた。
「ナツキが初めて泣いた日を知ってる」
難しいことを言うつもりはない。だけど俺がブレーキを踏めないのは、お前の心に追いつきたいから。
彼はそう言った。
——追いつくって?
彼の意図した言葉が、私のところに届かない。密着した体の先で、夜は峠を越えて下降線を辿っていった。月が遠くなる。
「ねえ、帰ろう?」
街の明かりはすでに消えた。
ここがどこだかはもう分からない。
ヘッドライトと、垂直に伸びていく2人の影の下で、延々と続く地平線。
「俺たちはもう引き返せないところに来てる」
彼は振り向き様、私の目を見た。
私は戸惑いながら、次のインターで降りようと催促する。
それでもあっという間にバイクは標識を過ぎて、曲がる気配を感じさせないまま、インターを過ぎた。
引き返せないって、どういうこと?
私は聞かずにはいられなかった。
彼は言った。
「お前が初めて泣いた日のこと、俺はよく覚えてる。運動会の日、お前はそれまでずっと必死になって練習してたのに、こけてしまったよな?」
もうずいぶん前のことになるだろうか。
あれはいつだったっけ。
「昔すぎて、あんま覚えてない…」
「俺はよく覚えてる。昔から負けず嫌いだったお前が、初めて勝負で泣いた日だしな?」
彼は続けざまに言った。
「俺、お前のそういうところが好きだ。悔しいもんは悔しいって言える、そういう性格が」
「そりゃどうも」
なによ、急に。
濡れたハンカチのそばで、柔軟剤の香りが鼻を通りすぎる。
ひしゃげた鼻骨。
長いトンネルと、ひび割れたアスファルト。
「そういうのって、大事じゃない?」
「何が?」
「負けたくないって思う気持ち」
バイクはサービスエリアに入って、空っぽになったガソリンタンクを補充するためにノズルを外す。
神奈川を出て、静岡に入ったみたいだ。
ずいぶん遠くまで来た。
「明日学校なんだけど」
さっきは明日の学校がどうとかって言ってたくせに、急に今晩は市内のホテルに泊まっていくからとか言い始めた。替えの下着も何も持ってきてないってのに。
「そんなんコンビニにでもあるやん」
金遣いが荒いやつだ。
だいたいあんたの家は困んないの?
おばあちゃん、心配してるんじゃないの?
ただでさえ素行の悪い孫だってのに。
婆ちゃんなら、心配いらん。
そう言いながら、ヘルメットを被せた。
「さあ、もう行くぞ?」
そう言って、ノズルの蓋を締める。
バイクのコールが鳴っている。
あの夜も、そうだった。
「お前に見せたいもんがある」
見せたい、…もの?
なにも言わない彼。
高速道路を降りて到着した場所は、沼津インター。
沼津市の街並みが広がる。
夜が更けて、辺りはもの寂しいほど静まり返ってる。
こんな場所に、一体何の用事があってきたんだろう。
そう考えている傍らで、不意に聞こえてきた言葉。
「もう少ししたら、俺たちが出会った場所に着く」
私たちが出会った場所。
それっていつだったっけ?
確か、小学生の頃だったっけ?
学校の帰り道、ほっぺに絆創膏を貼ってる男の子がいた。どこかやさぐれてて、生意気で、そのくせ、泥だらけで。もうずっと昔のことだから、はっきりとは覚えてなかった。だけど、こんなところじゃないことは確かだった。
こんな、辺鄙なところじゃ。
こんなところじゃなかったよね?と聞くと、彼もそうだな、と笑っていた。そうと知りながら、私たちが出会ったところに行くと言う。なんの疑いもなしに。まっすぐ、前を向いて。
ねえ、私はあんたの子供の頃を知ってる。
生まれ育った場所を知ってる。
自分の記憶が、それを確かなものにできるほど正確に遡れるわけではないけれど、遠い昔の記憶が、ここではないことを教えてくれる。
それにも関わらず彼は、高速のインターチェンジを降りて国道1号線を渡った。
見えたのは港町だった。
はじめて見る場所が、そこにはあった。
夜空の星がよく見える。
海風が雲を運び、海の水面を動かしている。
明かりのついていない家。
眠っている街。
いやそれは「街」なんだろうか?
海沿いのそばから見えたその景色はどこかもの寂しく、どこか、こじんまりしている。
ここがどこかはわからない。
初めて見る景色に違いはない。
北か、南か、世界のどの方角に、この場所が位置しているのかはどうでもいい。
彼は、ここが私たちが出会った場所だと言った。
もしそれが本当なら、連れていってよ。
その場所に。
その一番近いところに。
バイクは一本の路地を渡って、街の一番低いところに下降していった。
波の音が聞こえる防波堤の一番手前、その位置でヘルメットを脱いで、ヘッドライトを消した。
「俺たちはこの海で出会った。もうずいぶん昔のことだけど…」
まさか、海の中で出会った訳じゃないよね?
冗談混じりに談笑しながら、ジャンバーのチャックを下ろす。少し暑い。
「お前に話したことなかったよな?俺が学校に行かんかった理由」
学校に…?
今さらなにを言ってるんだろう。そんなの昔から知ってるよ。あんたがバカだからでしょ?
ハハッ
彼はそう笑いながら、急に真面目な顔になった。
「真面目な話なんだけどさ」
「うん」
「俺はお前と出会う前、…なんて言ったらいいんだろな。その…、この世界とは別の場所にいたんだ」
不意に出てきた言葉に、私は固まる。もう一度聞き直そうかと思った。でも、言葉はうまく出てこなかった。
「びっくりしたよな?…すまん。でも、いつか話さなきゃいけないと思ってた。いつか、お前に伝えなきゃいけないと思ってた」
防波堤のすぐ下で、波が高くなったり、低くなったり。
私はその音を聞いてた。
水が岩にぶつかりながら、水しぶきのかすかなざわめきが、鼓膜の内側をくすぐる。
静かな夜が、海の上に揺れている。
彼の言葉は、いつもよりもほんの少し、小さく響いてた。
「バカみたいな話だろ?嘘だと思っていいから、とにかく聞いてほしいんだ」
「…嘘、って?」
「俺がいた世界のこと。お前と俺が、初めて出会った場所」
ここじゃない世界から来た、と、雷牙は言った。
その表情は、真剣だった。
「どう思う?」
「…どう思うって」
「信じられんか?」
「信じられるわけないでしょ」
「ハハッ。まあ、そうか」
「ふざけてる?」
「大真面目だ」
真面目な話には思えなかった。
ここじゃない世界から来た。
そんな突拍子もない言葉が、現実には思えなかった。
「隠すつもりはなかったんだ。だけどどうしても、この世界が心地良くてな」
バイクにもたれた私たち。
ハンドルにかけたジャンバーが風に揺れる。
彼は胸ポケットからタバコを取り出して、ライターの火をつけた。
何も言えない私の口から漏れた白い吐息。かすかな鼓動。
「どうしたって説明できないけど、俺たちは確かに、ここで出会ったんだ。少なくとも、俺がいた“世界”では」
「ねえ、私って、そこまで馬鹿に見える?」
「どういうこと?」
「どういうつもりかは知らないけど、こんなところまで来て冗談なんて笑えないよ?」
「…はぁ」
「本当のことは?」
「本当って、何が?」
「なんでここに来たの、って話。ただの気まぐれ?」
「関東で大震災があっただろ?」
「…え、ああ、うん」
「あの地震で、俺は静岡に引っ越したんだ。ま、引っ越したって言っても、俺が生まれる前の話だけど」
「神奈川に住んでるじゃん」
「こっちの世界ではな?俺がいた世界では、そういうわけにはいかなかった」
「ふーん」
「んで、お前は旅行かなんかでこっちに来たんだ。この港町で、初めて、お前とすれ違った」
彼の話が、予想の斜め上を進んでいった。
冗談にしてはやけに凝ってた。
どこまで付き合えばいいんだろう。
そう思いながら、耳を傾けてた。
この際、最後まで付き合ってあげてもいいかなって思いつつ。
「俺が学校に行かないのは、行ってもしょうがないからだよ」
「バカだからでしょ?」
「そういうわけじゃなくて(笑)」
「じゃ、なんで?」
「こう見えても、俺はもうだいぶ歳を取ってる」
「はぁ??」
「色々と複雑なんだよ。こっちの世界に来たんも、お前に会うためだし」
「…私に、会うため?」
もし、世界でもう一度お前と会えるチャンスがあるなら。
タバコの煙が白く膨らんで、涼しい風がサッとどこかからやって来る。
彼は遠い視線のまま、静かに海の向こうを見てた。
いつもの彼らしくなかった。
冗談しか言わない彼が、嘘みたいに真剣な表情を浮かべていた。
私と、もう一度。
そう強く噛み締めた言葉の先で、こっちを見る。
まるで別人みたいだった。
真剣なその眼差しも、言葉の端々に揺蕩う、らしくない声色も。
「俺はお前に近づけとるかな?こうして隣に立ってる時しか、お前を近くに感じられない」
…近くに?
彼が何を言おうとしているのか、わからなかった。
黙って聞いていることしかできなかった。
言葉の意味も、中身も、——その全部が、まるで違う世界から来たみたいだった。
「どこに行っても、どれだけのスピードで走っても、俺は“あの日”の自分を追い越せない。やり直したいって、思ってたんだ。ずっと前にな?だけど…」
「…けど?」
「どう頑張っても無理だった。もう、一生たどり着けないってわかった。例え走り続けてたとしても」
こんなになにかに怯えている彼は初めてだった。
いつも勝ち気な笑顔で、はっきり物を言う。
誰にでも優しく、どんな時も前向きで、明るく振る舞っている。
そんな陽気な様子を絵に書いたような人が、嘘みたいに弱々しく見えて、嘘みたいに声に力がなくて…
「諦めたくはないんだ」
「諦めるって、…何を?」
「お前に、もう一度会えるって」
「何言ってんの…?こうして目の前にいるじゃん」
「まあな」
「気でも狂った?…まさか、お酒でも飲んだ?」
「おいおい、勘弁してくれ。酒飲んでお前を乗せるわけないだろ」
「でも、なんかおかしいよ?」
「どっから言えばいいんだろうな?」
困ってるのはこっちだった。
何を言いたいのか知らないけど、そんな困ったような顔をされても困る。
そう言うと、そっと手を差し伸べてきた。
ちょっとだけでいいから、握っててくれないか?って。
差し伸べられた左手に、私の指が触れる。
近くに感じる。
私は、あんたの近くにいるよ?
それを伝えたくても、言葉はうまく出てこなかった。
静かな水の音と、静かな海の色と。
月が白い雲に隠れている。
空のいちばん向こうに、鮮やかな星空が広がっている。
なにもかもが静寂の淵に沈みながら、その向こうで、ゆっくりと、雲が流れて——
「あの日俺は誓ったんだ。無理だってわかっとっても、走ろうって」
この日、一番静かな海。
その横で、雷牙は言った。
「これから先、どんなことがあっても、必ずお前を探し出す。約束する」
あの日見た夜の景色を、私は鮮明に覚えてる。
夏の終わりの夜にしては少しだけ蒸し暑く、きれいな夜空が世界の真ん中に寄り添っていて。
初めて来た小さな街の、小さな防波堤の一番下では、海が小さく揺れていた。
まるで月明かりにまどろみそうな平和なひとときが、いつまでも続いていくかのように。




