第31話 竜人族
グラウベルクは完全にこちらを見据えていた。
その動きは巨体とは思えないほど静かで、滑らかだった。
一歩踏み出すごとに地面がわずかに沈み、苔の下にあった火山灰が舞い上がる。
空気が重くなる。まるで谷全体が、コイツの呼吸に合わせて沈黙するようだった。
――推定レベルは20弱。
“強敵”とまではいかない。
だが、村に住む人たちにとってはもちろん、日常的な範囲ではまともに太刀打ちできない異常存在。
いくら訓練された兵士であろうと、初見でこれを前にすれば恐怖で足が竦む。
筋繊維の塊のような四肢、光沢を帯びた鉤爪。
その一本一本が、重厚な金属でさえ容易に裂く威力を持つだろう。
剥き出しの牙と鎧のような骨板の間から、濃密な蒸気のような息が漏れている。
ただの生物ではない。
この存在は“戦うため”に進化し、“殺すこと”を本能に刻まれた獰猛な魔獣だ。
「来るぞ……!」
咄嗟に岩陰から跳び退き、斜面を転がるように下りながらカイの姿を視界に捉える。
すでに彼女は、前方に躍り出ていた。
脚の筋肉がしなやかに沈み込むや否や、地を蹴って宙を舞う。
――竜人族。
それはこの世界に無数に存在する種族の中でも、戦闘において突出した適性を持つ、いわば“異質の戦士種族”だ。
筋肉密度、骨格構造、内臓器官の耐久性――あらゆる面で、彼らは人間よりも“戦うための身体”を持って生まれてくる。
たとえば跳躍力。
平地であれば10メルト(約15メートル)を軽々と跳び、垂直跳躍でも5メルト以上。
反射神経に至っては、訓練された人間兵士が剣を抜くよりも早く、戦況の変化に対応する。
その視覚は、昼夜問わず高精度の立体把握を可能とし、暗所では虹彩を切り替えることで赤外線を“見る”ことさえできる。
嗅覚もまた鋭く、個体によっては1リーグ(約5キロ)先の血の匂いを嗅ぎ分けるという。
ただ、肉体的なスペックが高いだけの存在なら、この世界には他にもいくらでもいる。
例えば巨人族や獣人族、はたまた魔素に染まりきった半魔族など――
だが、竜人族が異質なのは、“それらのスペックを、高度な知性と戦術で運用できる”という点にある。
彼らは、本能だけで戦う獣ではない。
明確に“戦場”を理解し、“殺し合いの構造”を読んだ上で、それに最適化された動きをする。
特にカイは、その中でも極めて実戦的な個体だ。
俺は知っている。
戦場で彼女が見せる“間合いの支配”と“予兆の読み”の正確さを。
剣を振るうたび、風を斬るのではない――“敵の未来の動き”を斬っているような感覚に陥るほどだ。
「せぇいッ!!」
カイの双剣が、グラウベルクの肩口を狙って振り下ろされた。
その軌道は、正確無比――風を裂く音とともに、刃が骨装甲の隙間へと食い込む。
ジャリィィッ!
金属と骨が擦れる甲高い音が響き、火花が飛ぶ。
完全な貫通は叶わなかったが、初撃としては上出来だ。
「クアァァアアアアア!!!」
グラウベルクが怒声のような咆哮をあげ、前足を振り下ろした。
だがその一撃は、カイのいた“地面”を砕いただけで、すでに本人は宙にいた。
「おっそいぞ、デカブツッ!」
カイは空中で身をひねり、斜面の岩場に着地。
反動で後ろに滑りながらも、片膝でブレーキをかけ、すぐさま構えを取る。
――美しい動きだ。
竜人族の骨格は、人間よりも柔軟で、重力に対する筋肉の使い方も根本的に異なる。
それゆえ、彼らの戦いは“舞”に近い。
その中でもカイはより“実戦向け”に最適化されたタイプだった。
決して過剰に跳ばず、攻めすぎず、あくまで“相手の隙を突く”ことに長けている。
その双剣の一撃一撃が、相手の反応を引き出し、次の行動に繋げる布石になっている。
「ゼン、やるなら今しかねぇぞ!」
「わかってる!」
俺は腰の包丁を逆手に構えた。
とはいえ、ただの料理用じゃない。
かつてある鍛冶職人から贈られた“調理と戦闘を両立できる”一品――【斬晶の銀刃】だ。
正面のカイがあいつの意識を引きつけている今が、好機。
獣の視界の外、背後の岩陰を這うように抜け――
「さて……干し肉の準備といくか」
足音を殺し、呼吸を整え、背筋を一直線に伸ばす。
料理と戦闘の本質は同じだ。
一瞬の判断と、正確な手順。
すべては“下ごしらえ”から始まる。




