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第30話 魔獣と呼ばれるもの



灰色のくぼ地。その奥に、うずくまるように潜んでいた黒い塊が僅かに身じろぎした。

最初は、ただの岩にしか見えなかった。

あまりにも静かで、あまりにも動かず、そして……異様に大きい。


「……いたな」


小声でつぶやくと、隣でカイもわずかに息をのんだ。

視線の先にあるのは、討伐レベル18――《黒爪グラウベルク》。


“それ”は、熊を模した何かのようでいて、熊とはまるで別物だった。


まず、何よりも“色”が異質だ。


全身を覆う毛並みは、ただの黒ではない。煤をまぶしたような鈍い灰黒に、うっすらと青い魔素の光が筋状に流れている。毛の間から皮膚が覗く箇所は岩のように硬質化しており、まるで"自然の装甲を纏った獣"のような印象を与えている。


背中には鋼の板のように隆起した骨格のこぶが複数あり、肩から尻にかけてはまるで甲冑のようだった。

動物というより、武装した兵器のような佇まいだ。


そして、最大の特徴――“爪”。


前足から伸びる四本の爪はそれぞれ人間の前腕ほどもあり、鉤爪のように湾曲している。根元から魔素が脈打ち、鈍く青白い光を放っていた。


「……こりゃまた、えげつねぇな……」


カイの声も、自然と低くなる。


グラウベルクはまだ完全には覚醒していない。

目は閉じており、時折身をくねらせながら浅い呼吸を繰り返している。


「眠ってはいないが、意識はぼんやりしてる。今なら……“気づかれずに近づける”可能性がある」


「へっ、いけるか?」


「いや、やめておこう。いくら眠っていようと、あの筋肉の張りを見ろ。いつでも動ける状態だ」


「……なるほど。確かに、無駄がないな」


カイが目を細める。

戦場で数多の魔獣を見てきた彼女にも、その肉体の“異常さ”はすぐに伝わったようだった。


ただの筋肉質ではない。

“必要な箇所に、必要なだけの肉がついている”。


肩回りと前脚、跳躍に必要な後肢――どれもが極限まで絞り込まれた、まさに戦闘に特化した構造。

そして、巨体を支える胴回りの“芯”には、異常なまでの弾性としなやかさがはっきりと見て取れる。


「筋線維の数が尋常じゃない。あの個体はおそらく20レベルには相当するポテンシャルを持っているな」


「そんなもん一目見てわかんのかよ」


「何度も対峙していればわかる。コイツは元々ここら一帯を縄張りにはしていなかったのだろう。定期的に様子を見には来るが、このデカさは記憶にないな」


……それにしても、異様だ。


コイツのような獣が“魔獣”と呼ばれる所以は、単に強いからではない。

存在そのものが、“自然の摂理を逸脱している”からだ。


グラウベルクの体からは、時折“音のない波”のようなものが周囲に放たれていた。

空気の振動ではない。風でも、魔力でもない――まるで、“存在圧”そのもの。


ただそこにいるだけで、周囲の音がすべて吸い込まれるような錯覚に陥る。


「……なあ、ゼン。あいつ、気づいてんじゃねえか?」


カイが指さした。

グラウベルクの瞼がほんの僅かにだが――開いた気がした。


いや、違う。“開こうとしている”のか。


瞳の奥に灯るのは理性のない赤い光。

獣特有の本能だ。


「……カイ」


「ああ、もう始まるな」


ゆっくりと、音を立てず、俺たちは物陰から身体を引きながら距離を取った。

敵の正面からではなく、少し横――谷の斜面を利用して死角を取る陣形だ。


「前脚が本命だが、狙うのは背中だ。あの骨装甲の下、脊髄沿いに通っている魔素管が、グラウベルクの“力の源”だ」


「なるほどね。脊髄を斬れば魔素の流れも絶たれるってわけか」


「ただし、一度飛びかかられたら厄介だ。見た目によらず俊敏だからな」


「へっ、そうかい」


カイが剣を構えた瞬間――


――風が止まった。


グラウベルクの巨体が揺れる。

その頭がゆっくりとこちらを向く。

紅い双眸が、岩陰のこちらを、確かに捉えていた。


「……バレたな」


「上等だ!」


そう言って、カイが地を蹴った。

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