第29話 食材としての価値
枯骨の谷に入ってからしばらく歩いたあたりで俺たち2人は立ち止まり、風の流れを感じ取った。
風というより、“気配”に近いものだ。
何かが周囲にいる。その重さが、皮膚の下でざわつく。
「……止まるな、カイ」
「わかってる」
後ろを歩いていたカイが、ぴたりと足を止める気配がした。
俺は腰を低くし、地面に目を凝らす。
枯れ枝と火山灰が薄く覆う地表。踏み締めるたびに細かい粉塵が舞い、視界を曇らせる。
それでも――見える。
「……これだ」
右足の先でそっと灰を払う。現れたのは、掌ほどの凹み。
四つの爪痕、そして中央に沈む肉球の跡。
このあたりに生息する普通の獣のものとは明らかに違う、大きすぎる足跡。
「でかいな……」
「三日前のものだな。灰がまだ深く沈んでいない。雨は降っていないから、上から灰が薄く被さっただけだ。風の向きも西。こいつは風下に向かって移動している」
カイが足跡にそっと指を伸ばす。
「……あったかい」
「だろうな。この下の地熱層が近いんだ。グラウベルクは、夜はこういう場所で体温を維持する。そうすることで魔素の燃焼効率を抑えて、筋肉の疲労を減らす性質がある」
「筋肉の疲労……お前、魔獣を料理だけじゃなく、運動理論からも研究してんのかよ」
「当然だ。狩る相手を知りたきゃ、まず“どう動くか”を知ることだ」
その理論は、食材としての“締まり”にも直結する。どの筋がどれだけ動き、どう緊張しているか。それが焼いたときの食感や弾力、そして旨味の染み込み方を左右する。
……まあ、今言ってもどうせまた「飯のことばっか」と言われるだけだが。
さらに進む。地形は徐々に変わっていく。
岩場が増え、土の色が黒から鈍い赤茶へと変わっていく。
火山性の地質と魔素汚染のせいで、土中の成分が露出しているのだ。酸性が強く、普通の植物は育たない。だが、その代わりに苔や菌糸類が奇妙な形で張りついている。
「……なあ、ゼン。これ、光ってるぞ?」
カイが指をさしたのは、岩の割れ目に沿って生える薄緑色の糸状の植物だった。
目を凝らすと、ほんのりと脈打つように光を放っている。
「あれは“導苔”だ。魔素に反応して光る性質がある。動くものの気配や、濃度変化に敏感だ」
「ってことは……こっちに来てる、ってことだな?」
「だな。足跡の進行方向とも一致する。恐らくもうそう遠くない」
耳を澄ませば、谷にこもった風がゆっくりと吐息のように抜けていく。
どこかで枯れ枝が砕ける音がした気がするが、それが自分のものか、何者かのものかは判然としない。
この静寂が、一層獣の気配を際立たせていた。
視界の先、わずかに岩が不自然に盛り上がった場所がある。
その一角――苔が途切れ、地面が黒くえぐれていた。
「ここ、滑るぞ。踏み込むな。……見ろ、これは“爪痕”だ」
岩肌に縦に走る三本の裂け目。
そしてその下に残された、うっすらと削れた肉球の痕。
新しい。ほんの数時間前のものだ。
「間違いねえな……この谷に、“いる”」
カイが腰の双剣に手をかけた。
俺も背中の包丁――いや、魔法加工済みの戦闘用調理刀に手を添える。
「獣はすでにこっちを感知している可能性が高い。だから、逆に無闇に騒ぐな。音に反応して突っ込んでくるタイプだ」
「了解。だが、来るなら来いってもんだ」
息を殺しながら、ゆっくりと歩を進める。
風が途切れ、代わりに重く湿った空気が頬を撫でる。
谷の最奥に、くぼんだ岩陰が見えた。
谷というよりは“火口の名残”のような窪地で、まるで地面そのものが深くえぐれているかのような地形だ。
地熱の影響か周囲の地表はわずかに蒸気を帯びており、霧のような熱気が地を這っている。
あそこが“巣”だ――そう確信するだけの“臭気”が、鼻を刺した。
「あれが……グラウベルクの巣か?」
カイが呟くように問う。俺は無言で頷いた。
それは肉の腐臭でも、獣の獰猛さでもない。
“熟成されすぎた肉塊”のような、密室に閉じ込められた獣の息遣い。
……間違いない。あそこに、“いる”。
窪地の中央、黒い火山岩が重なり合うようにしてできた洞のような空間――
そこがグラウベルクの“寝床”であり、“魔力の籠もり場”だ。
ああいった場所は、火山の古い通気孔が自然崩落して形成されることが多い。
魔素が濃く、空気の流れが乱れ、外敵の気配も遮断される。さらに岩の成分が熱を保持するため、魔獣にとってはこれ以上ない“潜伏地”となる。
「……あの構造、わかるか?」
「ん?なんか……ちょっとだけ、空気が回ってる……?」
「そう。あれは“呼吸構造”だ。岩が自然に重なっただけでなく、巣の内部に複数の空洞がある。暖かい空気を中に溜め込み、外へゆっくり排気するようにできてる」
「まるで……炉かなんかみたいだな」
「グラウベルクは本能でそういう場所を選ぶ。ああ見えて、かなり合理的な奴なんだよ。気温差や湿度の変化に敏感でな。下手な洞窟より、こういう“半露出型の地熱溜まり”のほうが快適なんだ」
「……ったく、厄介な相手だねぇ」
俺は目を細め、巣の出入り口――岩の隙間に注目する。
周囲の火山灰が、ほかの場所よりもやや沈んでいる。熱と湿気で柔らかくなり、さらに何度も踏み固められた痕だ。
「……あそこが通り道だな。往復している。肉を運ぶにも便利な導線ってわけだ」
「ほぉ、観察眼はさすが料理人」
「どんな肉を扱うにも、まずはその“動き”を知らなきゃな」
俺たちは身を低くしたまま、じわじわと距離を詰める。
視界の端で枯れた木の影が揺れ、微かに砂が落ちる音がした。
嫌な予感が背筋を走る。
次の瞬間、カイが低く囁いた。
「ゼン、動いた気がする」
「……ああ。出てくるぞ」
俺たちは身を低くし、地形のくぼみに潜り込む。
草はなく、地面はむき出しの火山灰。足音を消すには十分だ。
風が、止んだ。
そして――
くぼ地の奥から、「ゴォゥ……」という、低く、地の底を這うような唸り声が響いた。
グラウベルクが、動き始めた。




