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第82話 あんなヤツのことなんて



それにしても、昨日の合同演習はすごかった。


ナツキは寝ぐせの残る前髪を無造作にかき上げながら、静かに記憶の断片を辿っていた。


山間部に広がる旧鉱山跡地で行われた実戦演習。上級生たちが繰り出した高次術式の数々は、まさに雷導候補生の頂点を垣間見るかのように壮観だった。中でもアキラ先輩が放った広域斬雷術 《ミスティル・ブレイク》——あの白銀の雷が空間を裂いた瞬間の轟音は、今もなお耳の奥にこだましているような気がする。


「……いつか私も、あんなふうに」


小さく呟いた声が、静まり返った室内に溶けていく。

朝の空気はひんやりとしていて、まだ眠気を宿した霊素の粒子が窓際で微かに揺れていた。


制服は藍と白を基調とした戦術課程の標準仕様。左肩に縫い込まれた銀灰色のラインが、彼女がどの部門に属するかを明確に示している。それは彼女が所属する課程の色――即応と制御の現場に立つ者の証だった。


彼女の部屋は候補生棟三階の東端、朝陽を正面から受ける角部屋にある。

水霊素の安定を図るための霊導パネルが設置され、カーテン越しに差し込む光が壁を淡い青に染めていた。水底に沈んだかのような静けさが満ちるその空間には、波立つもののない澄んだ気配が漂っている。


壁際の棚には、分厚い戦術資料と緻密に取られた術式記録のノート。机の上には整列された文具と、摩耗した端末が一つ。無駄な装飾は何一つない。それでもベッドの枕元に置かれた小さなキーホルダーが、ほんのわずかな温もりを添えていた。丸く研がれたシーグラスが風に揺れ、朝の光を淡く透かしている。


その傍らで、彼女は黙々と準備を進めていた。


髪を一房ずつ丁寧にまとめ、無造作になりがちな毛先をきちんと束ねていく。鏡の前に立つそのそばで、肩にかかる淡い水色の髪が光の加減でさざ波のように揺れていた。結び終えた髪を背中に落とすと、彼女の姿にはどこか凛としたものがあった。


顔を洗い、タオルでそっと押さえるように拭き取りながら鏡の中に映る自分の顔をしばらくじっと見つめていた。

鋭い琥珀色の目が、どこか遠くを見つめていた。

冷たい水が手のひらを滑らせるたびに、眠気の残る意識が少しずつ澄んでいく。



……昨日の演習。肌に残る熱気と、張り詰めた緊張の余韻。そして、ほんの少し前の出来事。



思い返そうとするたび、胸の奥に妙なざわめきが生まれる。あれはきっと“事件”なんて呼ぶには小さすぎて、誰かに話せば笑われるような――そんな取るに足らない出来事だったはずなのに。


私は、ほんの少しだけ首を振る。 


違う。気にするほどのことじゃない。……たぶん。


気を取り直して、机の上に置いていた通信端末 《エコル》を手に取る。朝礼の時間まではあと数分。制服の襟を軽く直してディスプレイに目を落とすと、未読の通知がひとつ浮かんでいた。


――「昨日はありがと!今度よかったら食堂でもどう?」


……ん?


見覚えのない名前。ああ、そうだ、演習で一緒になったあの男子。別クラスの、ちょっとチャラい感じの。


昨日構内を出るときに突然話しかけられて、やたら軽いノリで誘われたっけ。


「まあ、よかったらでいいんだけどさ!」「俺、辛いの好きなんだよね〜」とか言ってた気がする。なぜそれを自己紹介に組み込んだのかはいまだに謎だけど。


食事くらい別に減るもんじゃないし、断る理由もたぶんない。ないはず。


なのに――


まだ、返信できずにいる。


“ありがとう、また今度ね。”


そのくらいのテンプレ返しでいいのに。指先は途中まで打ちかけて、ふと止まった。


……なんで、こんなに迷ってるんだろ。


別に恋愛に興味があるわけじゃない。そんな余裕も時間も、今の自分にはない。今はただもっと強くなりたいだけ。誰かの支えになる力がほしい。それだけなのに。


それなのに――


おとといのあの“ちょっとした事件”以来、何かが微妙にズレはじめている気がする。


……いや、ほんと興味ないんだけど。あんなヤツに。


昔馴染みでたまたま同じ場所にいて、ただそれだけで。別に特別とかじゃない。口喧嘩ばっかりだし。最近じゃやたら気遣われてる感じがして、むしろ落ち着かないし。


なのにふとした瞬間に、思い出してしまうのはどうしてだろう。


「……めんどくさいな、もう」


誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。エコルの画面はそのまま伏せて、通知は未読のまま。


部屋を出て廊下を歩く。


寮の中庭では、鳥が軽やかに鳴いていた。誰かの笑い声が遠くから聞こえてくる。いつも通りの変わらない朝。


私の足音だけが、その流れに少しだけ逆らうように響いていた。


……ほんとにもう。ややこしいのは、どっちなんだか。


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