第81話 曇り空の向こう
雷導育成機関 《LCA》
――第七区候補生棟
──────────────────────
遠い世界の夢を見ていた気がする。
だけど目が覚めた時には、もう何も覚えていない。
夢の内容もそこにいた誰かの顔も、何も思い出せない。ただ微かに残っているのは――誰かと一緒にいたという感触と、雨の降る音だけ。
窓の外ではまだ朝靄が残っていて、空の色は灰色と青のあいだを揺れていた。遠くの雲がゆっくりと流れていく。さっきまで見ていた夢の続きをまだ頭のどこかで追いかけているような、そんな気がしていた。
はるか昔に、もう一人の「私」がいたような気がする。
その子は私と同じ名前で、同じような顔をしていて、でも全然違う場所で“違う誰か”と生きていた。そんなぼんやりとした輪郭が曇り空の向こうにうっすらと広がっていく。
――まるで、亡霊みたいに。
忘れてしまった記憶って、どこに行くんだろう。誰かと過ごした時間も、どんなに強く願った気持ちも、こうして目を覚ますだけで簡単に消えてしまうのだとしたら――私たちが持っている“想い”なんてあまりに脆くて、儚い。
私は自分がどこで生まれたかも知っているし、自分が何者であるかもわかっている。
それは誰だってそうでしょ?
自分が誰で、どんな場所にいて、何をすべきかなんて。考えなくたって知っている。
……はずだったのに。
ベッドから起き上がって、寮の部屋の床に足をつけた瞬間、私はまるで雲のように掴めない何かを追いかけていた。
さっきの夢のせいだろうか。心の奥で引っかかるものがあるのにそれが何なのかがわからない。まるで脳のどこかに薄い膜がかかったみたいに、思考の先が霞んでいた。
窓を開けると、空の匂いがした。
青い空と、夏の音。
まだ空は晴れきっていない。遠くの地平線の向こうでは、雷の気配がする。あの空気が震えるような――稲妻が走る直前のほんの一瞬の静けさ。
それがさっきの夢の中にもあったような気がして、私は一瞬立ち止まった。
……どこから来ているんだろう、この感覚は。
私は今まで訓練で数えきれないほどの雷霊素を浴びてきたし、嵐の中で霊素を操る感覚にも慣れている。でも、それとは違う何か。もっと静かで、もっと優しくて、だけど胸の奥が少し痛くなるような……そんな記憶の断片。
何度目をこすってもそれは霧の向こうに消えてしまって、手を伸ばしても届かない。
クローゼットにかけた訓練着の袖に腕を通して、洗面所の前に立った。
鏡の中の自分はいつもと変わらない表情をしている。無口で愛想が悪くて、感情をあまり出さずに言いたいことも胸にしまってしまうような顔。
でもそんな自分の目を、今日は少しだけ長く見つめていた。
「……なんでこんなに、気になるんだろ」
誰にともなく呟いた言葉は、水の流れる音にかき消された。
昨日と同じ朝で何も変わっていないはずなのに。ベッドから起きて顔を洗って、訓練場に向かう。ただそれだけの、いつもと変わらない朝のはずなのに。
なのに、心のどこかが、昨日とは違っていた。
まるで何か大切なものを落としてきたみたいに、夢の中で誰かに触れたはずのその感触だけが宙ぶらりんのまま、頭の中で漂っていた。
鏡の中の自分に問いかけてみる。
――“本当に私は、すべてを思い出せてる?”
違う。
きっと、どこかで何かを忘れてる。
でもそれを思い出す術はない。
だから私は前を向く。いつも通りに無表情の仮面を被って、支援術式のチェックに入る。そうしなきゃ、きっと足元が崩れてしまいそうになるから。
自分を律して立ち続ける。それが、私のやり方だった。
でも、どうしてだろう。
あの雨の音だけは、ずっと耳に残っている。
誰かと一緒に聞いた気がする。静かな部屋の中で、濡れた傘の匂いと、冷たい手と――。
その記憶の全部が幻だとしても、私はきっとまた夢を見る。
はるか遠い、もう一人の私の夢を。
いつか、その先で。
誰かに、会える気がしているから。




