第80話 夏の終わりに
「ほな、行くでぇ!」
合図をかけたのはミーちゃん。自転車の後部座席で頷きながら、「レッツゴー!」と調子を合わせる。私たち2人は青空の真下にいた。ミーちゃんが漕ぐペダルの上で、両手いっぱいに大きな地図を広げた。
知らせを受けたのは午前11時だった。大学の友達から、「急を要するから急いで来て欲しい」との連絡が入った。
「ライの入院先って、どこ?」
ミーちゃんは言った。街の坂道を下りながらたな引く風。その風に揺れながらパタパタと波打つ紙きれの地図を見て、指を指した。地図の北側に位置する病院の座標に。
「ここだよここ」
自転車と急ブレーキ。キキーッという音を響かせながら、ミーちゃんは振り向きざまその行き先を見た。2人が目指している場所。北緯35度と残暑の夏。
「はよ会いに行くで!」
季節はもう9月で、夏の終わりの日差しが秋の向こうから訪れる頃。時刻は昼間を過ぎていた。アスファルトの上に写し出されている街の影は、倒れるように東へ傾いている。まだ蒸し暑い夏の終わりが、私たちを後ろから追いかけていた。自転車の後方に吹く追い風が吹き抜ける。ミーちゃんが漕ぐペダルに乗っかって、この日一番の午後の陽気が降り注いだ15時。電車の時刻表を見ながら聞いた。
「ねえ、会ったら何言えばいい!?」
加速する自転車の上で前髪が乱れる。弾む言葉。胸の奥に曇る鼓動。回転する車輪の音に紛れながら、私の心臓は動いていた。
「さあな!」
伝えることなんてないのかもしれない。もう2年だもんね。雷牙と会わなくなってから。
駅に着いた後、片道切符を買った。ミーちゃんは笑いながら「前だけ見てろ」って背中を押して。何も持たずに家を飛び出した。手提げ袋も何もない。改札口を通って、エスカレーターを下る。3番線のホーム。行き慣れない方角。朝から何も食べていなかった私は、線路沿いの売店でポテトチップスを買った。本当は食欲なんてないんだけど、ミーちゃんがなにか食べたいって言うからさ?付き添いのお礼に、はい、これ、と言って袋を開けて、コンソメ味のポテチをプレゼントする。
15時15分。電車が来た。プシューッという空気の抜ける音と一緒に開いたドア。ホームには「町田行き」のアナウンス。ヘッドホンをつけて流した「Wild mustang」。JR横浜線を走る電車が、ガタンゴトンと揺れている。窓越しに過ぎていく街の横で、天気予報は晴れのち曇り。
午後からは雨が降るって。
そんな予報がウソみたいに晴れた空の下で、
「傘、持ってくればえかったな」
ってミーちゃんが。
車内で「次は桜ヶ丘〜」というアナウンスが流れている。八王子から藤沢駅までの約1時間。窓から見える景色を眺めて、「コンソメ味は最高!」って強がるセリフ。焼け焦げたパンのように冴えない気分が、朝からずっと続いているのに。
私は揺れる電車の後部座席の隅で、昔のことを思い出していた。謝りたい言葉。声に出して伝えたい思い。あれからもう随分と時間が経つ。2年前に起きたこと。2年前のあの日に、「世界」が変わってしまったこと。
そのことを後悔していないと言えば、それはきっと「嘘」になる。進んでいく電車の車輪の音は滑らかに私たちを運んでいった。時速80キロで進む車体。カラフルに色づいた藤沢市内の繁華街。ミーちゃんはお腹空いてないの?と心配しながら私の口にポテチを運んでくる。私はそれを頬張った。コンソメ味が嫌いなわけじゃない。塩よりもコンソメ。しょうゆよりもコンソメ。でもどうせならじゃがりこが良かった。口にポテチをいっぱいにしてからそう思った。頬張りながら、ミーちゃんに「次の駅で降りよう」と言った。
驚いた表情だったのは、私だった。すんなり言うことを聞いてくれるミーちゃんが、すごく意外で、てっきり早く病院に行こうよ!と催促されるのかと思った。
桜ヶ丘を過ぎて湘南台という駅で降りた私たちは、降りたこともない駅と初めての街並みに戸惑いながら、どこか静かに休めるところがないか探した。
「ごめんね突然」
私の身勝手で目的を頓挫させてしまったことを謝る。ミーちゃんは大丈夫と頷いて「うなぎが食べたい」と言い出した。うなぎなんてどこにあるんだろうとスマホを開いて探していると、すぐ近くの場所に寿司屋があるのが見つかった。それならそこにしようよとミーちゃんは言って、私たちはそこに向かうことにした。
私が突然電車から降りた理由を、ミーちゃんは聞かなかった。朝、友達から電話があって、どうしようと迷っている私の手を引っ張って家を出る。自転車に乗って、路地を曲がる。
駆け足でここまで来た。
後ろを振り向くことはなかった。
藤沢行きの片道切符と、握りしめた地図。
このやり場のない感情をどこに向けていいのかわからない。私は、雷牙に会いたくない。でも、会いたい。そんな感情の揺れ動きが私の頭の中をぐちゃぐちゃにした。震える手足がここにあって、それを制御できない時間。言い逃れのできない緊張が、彼の住む街に近づくたびに大きくなった。
ミーちゃんは知ってる。雷牙が事故に遭った日のこと。20××年8月の出来事を。
あの日雷牙は言ってた。
言わなくちゃいけないことがあるから、って、やけに真剣なトーンで。スマホにかかった5分20秒の電話を覚えてる。電話のコールが鳴ったのは、1限目の授業が始まって、午前9時を過ぎた頃だった。ある日を境に彼が大学に来なくなってから1ヶ月。それまでずっと連絡がなかった彼からの着信に、私は戸惑った。
「もしもし」
教室の窓辺で、息を潜めながら話した。授業中だったからね。先生に怒られるからと言って早めに要件を伝えてと催促した。しばらく返事はなかった。
少し間が空いてからノイズが割って入って、その後に唸り声のような低音。それから雷牙の声が入った。
「…ごめん、夏木。どうしても声が聞きたくてさ」
なんで?
私は不思議に思った。
突然電話をかけてきて、しかも声が聞きたいって?
こんな朝早くから?
私は聞き返した。
「急にどしたん?」
少しの間沈黙が入った。
ッザザーというノイズ。
電波が遠のく。
雷牙は言った。
授業の喧騒の片隅で耳を傾ける。
いつになく弱弱しい声。
いつになく真面目な声色。
そうしていつになく、やさしい話し方。
そのどれもが、耳の中で聞きなれない音を含んでいた。
「……俺、まだ言えてなかったよな?」
「なにが?」
雷牙の言葉に対して反射的に出た返事。
その背後で、まるで静かな音を含みながら進んでいく時間。
あの日雷牙は、思いもしない言葉を吐いてきた。
スピーカーの向こう岸で。
「もう一度、会いたい」と。
その言葉の意味を理解できていなかった私は、掠れていくその声を追う。
それがただの電話だと思いながら。
——街外れの高速道路。2キロ続いた一直線上の道。破壊されたバイク。
あの電話の少し前、雷牙は友達のバイクの後ろに乗って走っていた。目的地があったのかはわからない。ただ、道路の左に刻まれたブレーキ痕は、時速120キロは出ていたと思われるであろう激しい痕跡を残していた。雷牙はその勢いのまま、バイクごと道の隅に投げ出された。
あっという間に駆け抜けた風。
朝焼けの太陽の真下で。
電話で繋がっていたあの時、雷牙はなにを伝えたかったのだろう。そのことを、私は今でも探している。雨が降ったあの日の午後、彼と手を繋ぐ。目を覚ましてと訴えかける。
窓越しに降る雨の音を聞いていた。
静かな病室の空間。
波を打つ心拍数の音。
私は目を覚まさない彼に向かって、真っ直ぐ伝えたいことがあった。
私が冒してしまった、「1つの過ち」を。
だけど、私の中にあるこの秘密を、結局話せずじまいのまま時間は過ぎた。謝らなくちゃいけないことがあるのに、口を噤んだままで。
ミーちゃんと私は寿司屋に入ってから、テーブル席に座って好きなものを食べ始めた。ミーちゃんはうなぎを。私はサーモンの炙り焼き。ミーちゃんはうなぎの他にシーチキンを頼む。それからプリンを。プリンを取るのは時期尚早じゃない!?と突っ込んでみたい気持ちも山々だけど、私は食べたいものを食べたいと思いながらパネルを指で押しまくる。目の前の偏食家には偏食家なりのコースがあるんでしょうと横目にプリンを眺めながら、テーブルに並べた色とりどりの魚たち。朝からなにも食べてなかったせいもあって、大好きなネタを横並びにずらりと並べたら、ほんの少しだけお腹が空いた。ミーちゃんは寿司屋には馴染みのないスプーンを手に取っている。確認のためにもう一度見るけど、うなぎとシーチキンとプリンと、ミルフィーユ??そんなばかなと思ってキーちゃんの手を掴む。なにを食べているんですかと丁重に質問する。
「見ての通りやで」
見ての通りだと言うけれど、今のところ魚介類とスイーツの割合が半々なんですが。
別に好きなものを食べればいいんだけどね?
湧いてきた私の食欲が急カーブしたように衰え始める。頼むから目の前で甘ったるいものを口に運ばないで。ほら、たった今エンガワの炙り焼きが到着しました。焦げ目のついた美味しそうな脂身の艶が、私の脆弱な食欲をそそろうとしている。その視界の隅にミルフィーユでも並べて見ようもんなら、スムーズに私の所に到着したエンガワが、どこに腰を下ろせばいいかと肩身を狭くしちゃう。
フォークとスプーン。
カチャカチャと音を立てながらスイーツにご満悦なミーちゃん。黙々と食べている傍らで、これから「どうするの?」と尋ねてきた。私は返事をしなかった。
駅を降りる前、朝、連絡をくれた友達からメールが来ていた。今から雷牙の手術が始まる。だから急いで病院に来てほしいと。私は返信をする。すぐに行く。
電話のコール。
その着信先は、いつも傍にあった。友達からの電話や、バイト先から。赴任先のお父さんとのやり取りや、県外の高校に行った妹からの連絡。
電話のメロディーは、いつも変わらない。
その聞き慣れたリズムの、高い音色の波長がいつも私の耳元をくすぐった。不意に鳴る電話の音を聞く度に、彼からの着信を思い出した。
私たちは元々、この地球上のどこにいても通じ合えた。光の速度でコールが鳴って、はるか向こうの大地から、電波が届く。
お母さんはいつも私に言っていた。
どうして雷牙君に会わないの?
友達はいつも私に言っていた。
一緒に会いに行こうよ。
だけど私は会いたくない。
この地球上には、もう彼がいないってことを知ってる。
080から始まる電話番号。
その番号にかけても、もう誰も出ないってこと。
ねえ、ミーちゃん。私は尋ねた。寿司を食べたら、どこに行こうか。
ミーちゃんはなにも言わなかった。当然だよね。臆病な私にうんざりしている。幼馴染の元にも行けない私が“ろくでなし”だってことくらい、目をつむっていても分かるんだ。
私たちは寿司屋を出た後、どこに行こうか悩んでいた。それでもミーちゃんは、私を無理に引っ張っていこうとしない。それどころか笑って、私の隣に立っていてくれた。
あんたの好きなところに行く。
そう言ってくれた。
だから私は、私が思う所に行こうとした。
知らない街の景色のなかで、――路地の向こう、その先へ行こうとした。




