第68話 水撃の果て
空が落ちてくるかと思った。
ウォータープールの崩壊に伴い、頭上に広がっていた巨大な水球がまるで雲のように砕け、無数の飛沫となって空から降り注いでいた。地上にいた誰もが、突然降り出したその“雨”に見上げることしかできなかった。
霧雨に近い粒子が、陽光を受けて淡い虹の帯を描く。舞い上がる水滴が風に乗り空中に浮遊する霊素の粒と交じり合うことで、視界全体が光の粒で満たされていく。まるで崩れ落ちた水の都の残響が、大気の中に溶けて漂っているように。
ざあぁ……
耳を澄ませば、世界が水音に包まれていた。砕けた水の膜は霧となり、戦場全体を一瞬だけ静寂に導く。空に広がる白い水煙。その向こう、まだ渦巻く風の息吹と水が残した余韻の間を縫うようにして、霧に紛れていた霊素の流れが一点に収束する気配があった。
霊素の粒が、確かな意思を持つように一方向へ吸い寄せられていく。
それはまるで――一つの核に反応しているかのように。
「まだ、終わったわけじゃないよ」
リオンはほくそ笑むように、自分の胸を貫いた相手の手を掴んでいた。
「惜しかったね。もう少しで心臓をやられるところだったよ」
相手は即座に手を引き抜こうとした。
しかし、抜けない。リオンの指がまるで鋼鉄のクランプのように、貫かれた胸から相手の手首を握り込んでいた。
相手は咄嗟の判断でもう片方の手を勢いよく振り上げた。肩を軸に重心をひねり、巻き込むような勢いで。
その手のひらには渦巻くような空気の震動が集まり――急速に濃縮されていく風の霊素が、皮膚の表面を刺すような痛みを伴って膨張する。
ハリケーン。
至近距離から放つ、広範囲魔法。その範囲を狭め、より高威力に出力するための予備動作を取っていた。
「今の一撃で行動不能にできなかったのが、相手の運の尽きだ」
先輩が教えてくれた。
リオンの「特性」を。
「リオンは元々近接攻撃が得意な“ファイター”だ。私と同じさ。武器を持たないのも。遠距離からの攻撃を好まないのも」
「え、でも…」
「リオンの特性が活きる領域は“数メートル内”でしかない。ただその数メートル内に於いて、アイツは無敵の防御力を誇る」
高密度に収束する風のエネルギー体がリオンの体に襲いかかる。しかしそれは届かなかった。振りかざした相手の右手が予期せぬ方向に“曲がる”。正しくは、“捻れる”と言ったほうがいいのかもしれない。手のひらの上で風の魔法が消失する。出力されようとしていた先で、不自然な挙動が空間内に走った。
「屈折」
光が水に入るとき、まるで物体が曲がって見えるように進む方向が変わる。たとえば水に差し込んだ棒がくにゃりと折れ曲がったように見えるのは、空気と水の“屈折率”の違いによって、光が進路を変えているからだ。
空気の屈折率は約1.0003、水は約1.3330。この差によって、光の経路は曲げられる。
――リオンの特性は、まさにそれを“魔力と物質”に応用したものだった。
彼のスキル《屈折》は、特定範囲の空間内に存在するあらゆる物質や魔法の進行方向を“強制的に曲げる”能力だ。リオンの体を中心とした数メートルの範囲において、すべての攻撃は直進できない。
しかもこの曲率はリオンに近づくほど大きくなり、遠ざかるほど緩やかになる。
要するに彼に近づくほど、攻撃も移動も“まっすぐ”ではいられないのだ。
先ほど相手の身体が――まるで動きそのものが反転したかのように見えたのは、その屈折領域によって進行方向が無理やり歪められたせいだった。
致命的なダメージだった。
「屈折」のスキルによって強制的に行動不能にさせられた相手の体は、見るも無惨な姿になっていた。
「まだ、続ける?」
相手の目はまだ諦めてなかった。その証拠に、即座に回復を試みようとしている。ただ、それが間に合うかどうかは別の問題だった。細胞が分裂する最中、空中に散漫した大量の水蒸気が2人の周りを覆いながら膨らんでいた。
術式は封じられ、身動きも取れない。
右腕は破壊され、右脚ももはや使い物にはならない。
すでに次の一手を出せる状態になかった。せめて距離を取れる状況を作れればだが、リオンがそれを許すはずもなかった。
「ゲームが終了するのは、どちらかが戦闘不能になるまで、でしょ?」
反撃の余地がほとんどない状況下で、再び風を身に纏う。しかし周りには水蒸気が充満している。大気圏は風使いの彼女にとっての縄張りだ。しかし大気に浮遊している水の気体は、リオンにとっての魔法流域でもある。
相手の逃げ道を防ぐため、脆弱ながら水のバリアを展開していた。
逃走経路はすべて封じられている。
水で形成されたこの魔法障壁を打ち破るには、領域内の魔法量を上回る必要があった。
ただ——
相手はリオンの胸を貫いていた左手を自ら振り解き、一歩後退する。
至近距離からの離脱。
わずか2mにも満たない距離を確保し、2人の間に確かな距離を生んだ。
懸命な判断だった。
その一歩が、勝敗を分けるかもしれない――そう思わせるだけの“意味”があった。
相手が取ったわずか数歩の後退。それは単なる逃避ではなく、戦術的な再構築の動作だった。リオンのスキル《屈折》は確かに絶大な効果を持つが、無制限に発動できるわけではない。術式の内部にはどんな能力でも例外なく存在する「発動限界」と「再展開のインターバル」がある。
リオンの周囲数メートルに展開される屈折領域は、彼の魔導核が自動的に形成する防衛機構だ。しかしこの能力はリオン自身の魔力流体が高密度で循環し続けることで成立しており、一度発動すると再度構築するまでに一定の“再調律時間”を要する。
それが、“10秒”。
発動条件内ではほとんどの攻撃を防ぐことができるが、一度発動してからは約10秒間の充填時間が必要だった。
魔力が拮抗していれば、恐らく形勢を持ち直すことができたかもしれない。
近距離から中距離へ。
リオン君の特性が及ばない距離へ。
「水撃 (ショック)」
緊急離脱しようとする相手の懐へ、空気を切り裂く音が響いた。
円錐状に回転する渦。
フィールドに流れ出る青の弾道。
空間に張り巡らせていた水のバリアは、敵の動きを封じ込めるためのものじゃなかった。
空間内、——つまり大気中に漂う相手の魔法流域に、【属性間⇄エネルギー間】の“ノイズ”を走らせるため。
術者は自らの体内で魔力を生成し、それを出力する。ただ、戦いの場においてそれはスキルの一部でしかなく、周りの環境、“魔法を展開できる場”が、魔力を行使する上での重要なファクターになる。リオンは大気中に水蒸気を混ぜ込ませ、それを網のように張り巡らせていた。網は相手の周囲を囲み、あらゆる方向を包囲していた。
水の魔法流域と風の魔法流域が、互いのテリトリー内に於いてぶつかり続けていた。
大気の壁に押し流れそうになる水の気体と、自由な動きが制限される風。
わずかな歪みだった。
激しくぶつかり合う2つの魔法流域の臨界線で、相手の行動が、ほんの微かに“ブレた”。
「…がはっ」
湿った空気の中で躍動する吐息。見開いた目。
相手が試みようとしていた脚力。
近距離から中距離へと離脱するために必要な魔力とその「範囲」は、おそらく数秒の間で充填できるはずだった。ところが、リオンが展開していた水の流域に足を取られ、後退するための一歩が遅れた。
その最中に「風」が千切れた。
音のない振動が瞬く間に空間の底を衝き、静寂が訪れる。
互いの動きが静止していた。
溢れる吐息だけが、静寂の最中に揺れ動いていた。
ズッ
相手の「敗北」は、すでに地面にあった。
——“地面“に。
リオンの右手から放出された水の”詠唱魔法“は、相手の身体を貫いたあと、フィールドの地面をも深くくり抜いていた。
地面に着弾するまでのスピードでさえ、目で追えなかった。
空気に穴が空く。
物差しで線を描く。
まるで針に糸を通すように、――それは視えた。
相手が地面に向かって“落下し始めた”のは、既に事が起きた後だった。風が揺れ、水が弾けたその一瞬。誰の目にもそこに“動き”は見えなかった。
ただ、世界が一歩だけ遅れていた。
何が起きたのか。誰が先に動いたのか。いま放たれた魔法が“どこ”から始まったのか。その全てが、刹那の水音にかき消されていた。
リオンの右手はまだ微かに蒸気を纏っていた。水の霊素が拡散していく余韻だけが、空気の粒に触れては揺れている。だが、もう何も出てはいなかった。
それは「すでに放たれていた」からだ。
今この瞬間、リオンの掌は地面を向いていた。ただ、そこに“何かを撃った”という実感だけが、世界に一拍遅れて染み渡っていた。
貫かれたのは、相手の腹部。
見えなかったのではない。視えていたのだ。
ただ、“時間が追いついていなかった”。
空間に開いた一直線の穴。その向こうで、相手の体が少しずつ斜めに崩れていく。
腹部の中心から細く、鋭く、そして静かに噴き出した血の線。
それは風が切り裂いたものではなかった。
水だった。
いや、正確には、極限まで“収束”された水の線。
まるで顕微鏡の中にだけ存在するような透明な刃が、何の予兆もなく身体を貫いていた。
地面を抉った穴の先端。
――その中心がまさに、相手の立っていた位置の対角線上に重なっていた。
意識が結果を追い越した時。すべてが、唐突に“繋がった”。
「あっ……」
崩れ落ちる相手の身体が空を仰ぐ。
風の残響が、わずかに後を引いた。
静かだった。
あまりにも、静かだった。
叫びも悲鳴もそこにはなかった。
ただ、戦場という名の舞台で、“一つの演目”が終わったように、すべてが幕を下ろしていった。
リオンは微動だにしなかった。
水を纏った右手をゆっくりと降ろし、一度だけ息を吐く。霊素が空に舞う。蒸発した魔力が霧となり、戦場を包み込む。
風が、止んだ。
演習場の上空を吹き抜けていた気流は、いつの間にか静まり返っていた。先ほどまであれほど吹き荒れていた風が、音もなく霧の中に吸い込まれていった。
戦いが終わったことを告げるのは、誰かの声でも、教師の笛でもなかった。
ただ水と風と霊素の全てが沈黙したことで、誰もがそれを理解したのだ。
――終わった、と。




