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第56話 問題はそこじゃない



そんな中、ドアの向こうから──


「……ほんとに大丈夫?」


柔らかな、でもどこか心配げなあの声が届いた瞬間。

俺のすべての“聴覚”が同時多発的に爆発した。


やばい。やばい。やばいやばいやばい。

語彙力が小学生になるほどのパニックで、頭の中のアラートがフルボリュームで鳴り響く。

“耳”で聞こえるナツキの声と、“あそこ”に宿ってしまった俺の魂を通して伝わってくる彼女の体温とが今、脳内で合流してしまっている。

音と熱と気配。物理と精神。すべてが合流して、俺の精神は濁流に呑まれていた。


冷や汗が止まらない。

いや、もう「冷や汗」なんて生ぬるい表現じゃ足りない。これはもう“精神から噴き出す液体”だ。ありとあらゆる思考がパニックモードに突入していて、理性という名の制御装置はすでにスパークしている。

心臓はもはや楽器。ドラムセットのツインペダルがバグって限界突破しているみたいにバカスカ叩き続け、血液という名の煮込み汁が全身の血管という名の圧力鍋の中でグツグツ音を立てていた。


叫びたい。

いや、叫んではいけない。

これは耐久戦だ。自分との戦いだ。いや、自分と自分に宿った魂との戦いだ。


……もはや意味が分からんが、気を抜いたら終わるということだけは分かる。


幸いなのは、彼女がまだこの異常事態に気づいていない……っぽい、という点だ。

この程度の失態にすら気づいていないというのは、彼女の天然スキルか神の加護か、はたまた人智を超えた“配慮”なのか。いや、そもそも本当に気づいていないのかどうかすら怪しい。彼女のことだ。気づいた上で泳がせている可能性だって否定できない……。


……だめだ、思考がぐるぐるする。


もし仮に少しでも異変を察知されていたら、その時点で俺の命は確実に散っていたはずだ。

というかあのドア一枚じゃ足りねぇ。彼女の戦闘能力なら“ドア”という存在そのものを否定して空間ごと吹き飛ばすことすらできる。今こうして生きているのは奇跡か、あるいはまだギリギリ天罰が保留になっているからだ。


こんな時、ナツキの能力が泡瀬里緒奈(TACT課のクラスメイト)の「メンタルクリアランス=思考透過」のような能力じゃなくてよかったと本当に思う。あの女生徒の能力なら壁越しでも俺の思考回路や感情など手に取るように見通すことができていたはずだ。


……とはいえ。忘れちゃいけない。

俺が魂を付与してしまった相手は、数あるLCA候補生の中でも“希少種”と呼ばれ、“絶対無表情クイーン”ことナツキ・B・ウォッシュバーンであるという事実に、何も変わらないのだから──



そもそも、なぜそこだったのか──理屈として説明できなくはない。

スキルの性質上、“定義が明確”で“霊素的に安定していて”“日常的に身体の近くに存在するモノ”が最も相性が良い。対象としての素体条件は完璧、アクセスは容易、容量も十分、干渉リスクも低い。

……理屈だけで見れば、選ばれるべくして選ばれた最適解だ。


でもな? それを“選ぶ”かどうかは話が別なんだよ。


俺が意図的に「そこ」を選んだのなら、それはもう万死に値するし、即刻破滅すべきだと思ってる。

だが実際には、違うんだ。違うと信じたい。

その時の俺はただ暴走したスキルの制御に全神経を振り絞ってて、意識が拡散しかけた中で“一番条件に適した依代”に無意識のまま意識が滑り込んでしまっただけで……


いや、言い訳だってわかってる。

どんなに丁寧に理由を並べ立てても、この状況を正当化できるわけがないってことくらいは、俺が一番よく分かってる。



——ナツキのパンツ。


布という単純な輪郭。容量制限にも余裕があり、曖昧さはほぼゼロ。筆界特定の条件をこれ以上なく満たした、理論上は極めて“優秀な依代”。


魂付与ギフトステップ》は対象の“定義の明確さ”と“霊素的安定性”を重視するスキルであり、可動域が限定され、破損率が低く、かつ常時携行される物体ほど成功率が高いというデータが——


――いや待て。

なんで俺はこんな必死に学術論文みたいな言い訳を脳内で組み立てている?


違うだろ。

問題はそこじゃない。

問題は、「なぜその最適解に一直線で到達してしまったのか」という一点に尽きる。


思い返せば兆候はあった。

ギフトステップが暴走気味だったこと。

シェイプシフトとの干渉でスキル核が不安定化していたこと。

精神集中を要するはずの工程を、「慣れてるから大丈夫だろ」という慢心でショートカットしたこと。

そして極めつけに——ルシアの置いていった余計な知識と余計な刺激。


すべてが最悪の形で噛み合った結果、俺の魂は“最も条件に合致した対象”へと、ほぼ自動的に滑り落ちるように移行してしまったのだ。


よりにもよって。

本当に、よりにもよって。


「……ライ?」


ドア越しに、再び彼女の声。

さっきより近い。距離感が縮まっている。

その事実を認識した瞬間、俺の精神ゲージが目に見えて削れた。


やめろ、近づくな。

それ以上近づいたら、俺の理性が先に崩壊する。


だが身体は動かない。

というか、動かせない。

今の俺は自室の床に座り込んだ“本体”と、ナツキの腰元に存在する“視点”という、最悪のデュアルブート状態に陥っている。


布越しに伝わる体温。

規則正しい呼吸に合わせた微細な揺れ。

水霊素特有のひんやりとした気配と、彼女自身の熱が混ざり合った独特の感覚。


……情報量が多い。

多すぎる。

これは人間が処理していい種類のインプットじゃない。


本来ならば目を閉じ、深呼吸し、意識を切り離せばそれで終わる。リンク解除は難しい操作じゃない。

でも今の俺にそれができない。心臓が破裂するほど暴れ、血管の一本一本が焼けるように熱を帯び、頭の中は真っ白に上書きされていく。冷静に解除手順を思い出そうとすればするほど、逆に“そこ”から流れ込む生々しい情報に意識が攫われていく。


……まるで俺自身が、あの布切れそのものに変わってしまったかのような感覚。

理性と自尊心を削り取る、最悪にして最高のリンク。


「やべぇ……! これ、このまま行ったら……」


俺は冷や汗を流しながらも動けないまま、魂の一部を“そこ”に残し続けてしまった。


そして。


「……じゃ、帰るから。しっかり休めよ!」


そう呟いたナツキは静かに廊下を歩き、そして自分の寮へと帰っていった。


……俺を引き連れたまま。


足取りに合わせて、俺の意識も移動する。

いや、“移動させられている”といったほうが正しい。

まるで彼女の後ろをついて歩くみたいに、俺の魂は繋ぎ止められたまま彼女の寮へ向かってしまっていた。


(おいおいおいおい……! マジでどうすんだこれ!? 解除すれば気配でバレる。しなければこのままアイツの生活圏にまで……!)


もはや選択肢はどちらに転んでも地獄。

俺の「ギフトステップ=魂付与」が、史上最悪の形で牙を剥こうとしていた。


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